〇

 とっぷりとした夕闇に、我々の紡がれた小指とは白く浮くようであった。

「暑い、全く暑いね」

「うん、暑いよう」

 滲みだす手汗にひとたび滑り落ちてしまいそうになるのを、どうにか、第一関節だけでしがみついていた。ぐいと引っ張ってみたり、弛緩させてみたり、持ち上げてみたり、揺らしてみたり……。そのいずれも、決して分かたれることはない。

「泣くのは、ずるいよね」

「いきなり?……まあ確かに泣いたら、どうしたって可哀想に見えて許してしまうかもしれないね」

「だから、ずるいよ」

「私は最近ドライアイでね。ここ数年泣いていないよ。映画で泣こうとしても、きっと鼻の奥がつんとして不完全燃焼さ」

 我々は市役所のウッドデッキに置かれた、簡素なプラスティックの腰掛にそれぞれ座した。無機質な冷たさが生地を介して伝わって来て、胸につっかえていた熱情がゆるやかに鎮まってゆくようであった。だから、自然と手は絡み合った。

「暑いよ」

「いいじゃん、暑くても」

 それがばかばかしくて、嬉しいようで、我々はそれを不器用に揺すった。「はは、顔が綻んでいるよ」「そっちこそ、こぼれてるよ」市松模様のはるかに高くの天井から注がれた灯りを忍ばせると、瞬くようであった。

 私は今更なにか恥ずかしいようで、大仰に手の振りを大きくした。その時、彼女のカットソーの袖が、肘に溜まっていった。指先から絹一枚で織られたような 肌理細かさを、物静かに伝えてくれるのは――その人為的に刻まれた傷跡であろうか。腕の伸びるのと反対に、たて続けに七八本ほどもあった。

「その傷は……」

「ああ、これは、なんかむしゃくしゃしちゃったときに。これなんか、一昨日のやつ、はは」

「……いけないよ、だめだよ、やめなよ……」

「ねえ」

 彼女は呆れながら私の頬を人差し指で撫でた。酷く湿り気を帯びていた。

「どうして、泣くの」


 ◇

 中学三年の下校時のことである。私は友人の物憂げな表情を汲み取った。

「なにか、悩んでいるのかい」

「ええと、なんかさ、死にたいなって」

「なにを言っているのだね……? よしなよ、そんなことを言うの」

「だってさ、ぼくは一体なんの為に生きているのだろうって。楽に死ねる方法をいっぱい調べてるんだ」

「学生時代なんてそんなもんさ。なにか出来るとしたら、愛玩動物と一緒で、主人のご機嫌取りさ」

「嫌だよ、なにそれ……」

「ただいまの我々は、まだダイヤの原石さ。特筆すべきところのなにひとつないね。十数年の畢生の中で、もう煌めくような者も居る……容姿が優れている、俊足の持ち主、頭脳明晰であったり……それか育ってきた環境にもよるさ……金持ち、貧乏、凡庸、貰い子……とね。だから、他人を気にしては、ならないよ。だって、君とまったく同じ境遇を生きてきて、まったく同じ構成をなしている人間など居ないのだからね。学校教育は不器用さ、てんでばらばらの人間を一絡げに『学生』と称するのだからね」

「じゃあぼくは、容姿も酷いし、頭も良くないし、特にお金持ちの家の子でもない……」

「君の生きたいように生きればいいのさ。出来るだけ自分に迷惑を掛けて、どうしても無理なときには周囲を頼ればいい。私だって、大変な無力さ。勉強はちょっと出来るけれど、運動はまるっきり駄目だし、自分を押し通せるだけの自信もないけれど、人の話を聞いて寄り添ってやるぐらいだったら出来る……だから……安心して欲しい……私に出来ることならば、いつでも応援するよ」


 ◇

 ――私に彼女ができると、次第に彼に割ける時間は減っていった。すると彼は突然、自傷行為を始めたのだった。左腕に赤黒い線が連なって――。

「やめなよ、そんな……どうして……」

「いや……一人で色々と考えだしたら止まらなくなって……はは」

「いけないよ、いけないよ。私が話を聞くと言っただろう」

「いやあ……君が居るときなら全然大丈夫なんだけどなあ、はは……」


 ――それから彼女に割いていた時間をどんどん彼にまわした。次第に彼女から「友達の頃のほうが楽しかったな」となんとなく疎遠になり、消滅した。


 また彼はいじめられていた。「あいつと関わっていると、お前もいじめられる、気持ち悪くなる」と言われたこともあったが、それを押し切って、今まで通り、なんら変わらずに接し続けた。

 ――私は彼の傍に居てやった。しかしながら、それが実を結んだとは言い難い。頻度は減りはしたが、自傷自体がなくなったわけではない。それに、古傷が残る。手首のほうから始まって、このままいけばもうひと月もあれば十分肘に辿り着いてしまうほどに……。

 私は、自分の無力さを知った。中学三年、齢十五の私がどれだけ足掻いてみせたところで、傷の本数は増してくばかりである。そして、もうひとつ恐れることがあるとすれば、私の日常がゆるやかに破綻してゆくのを、実感し始めたことであった。


 ――あるとき私は限界に達して、いけないと思いつつも、大人の力を拝借してしまったのであった。

「先生……彼は、左腕に、カッターナイフで切りつけた傷が……」


 このたったひと言で、なにかが変わってしまったのである。私は特に彼を気に掛けずに、以前の友人のようにして、いじめの加害者らとも仲良くして、卒業した。

 もう彼とは連絡のひとつも取っていない。

 ああ、そういえば彼は獣医を目指すと言っていたか……まずは普通高校に進学したそうだ。


 〇

 気付くと、私は彼女に抱擁されていた。

「……あれ……あれ、おかしいね、おかしいねえ……女慣れしていないから、感動してるのかな……涙がとまらない……」

 どれだけ鼻をすすって、歯を食いしばっても、ひとたび彼女の温かさに包まれてしまうと、自然と力が抜けるようであった。得意のお道化も、形無しであった。

「申し訳ない……申し訳ない……」

 その言葉を口にするたびに、力の増してゆく手は、ただ、温かいのであった。


 私は酷く、寒かった。



 〇

 ――新着のメールが一件あります。――


『二〇二〇年七月二十日月曜日 午後九時十五分 by:No name

 Subject:無題


 やあやあ、お久しぶりだね。

 突然だけど、あいつ……中学時代、君の傍に居た彼、死んじゃったってさ。自殺。

 お前が理由で死んだわけじゃないよ。


 お前が甘やかして殺したんだ』


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