幼少の砌と、その轍。
〇
私の手の甲に浮かぶ、ちいさな薄紫色の傷跡で、ある女の子が、お澄ましをして居ます。彼女は、八年の時を経て、遂にそこから、居なくなってしまうというのです。
〇
ある女の子、とは私の、恥ずかしながら、初めての……片想いの相手にございます。彼女は、いつもの女の子のお友達と一緒に居る時は、にこにこッと笑みを溢すというのに、私の前に出ると、むッとして、こちらをねめつけるのでした。
「ねえ、どうして。ぼくが嫌い?」
「どうしたも、何も、嫌いなんて言ってないじゃないの」
「じゃあ、どうして。どうしていっつも、ぼくをにらむのさ」
「そんなの、したくてしているわけじゃないのよ。ただ、サトル君の前に行くと、きっと睨んじゃうってだけの話よ」
「それは、アミちゃんの知らないぐらいずっと奥んところっから、ぼくがきらいってことだ。……ぼくが、何をしたって言う?」
「知らないわよ……知らない……」
判然としない態度に痺れを切らした私は、かぎ爪で獲物を捕らえるでもするように(幼さ故に手加減を知りませんでした)彼女のブラウスに包まった細腕を掴んでやるのでした。私よりもひとまわり、ふたまわりと細いというのに、それでもまだふわふわとした肉を萎ませる感覚には、思わず胸を痛めてしまいました。
「やあっ、痛い……痛いったら!」
暴れ出した彼女は、自由な方の手で、私の拘束を引っ掻きまわしました。ひとたびの痛みに、白い線が生まれたと思うと、次第にじんじんとした、火にあぶられているような痛みで、真っ赤に浮き出してしまうのでした。
私はその攻撃に耐えきれなくなって、手を放してしまうと、今度は彼女に飛びかかろうとして両腕を広げました。しかしその際に、右手の甲の皮膚を、彼女は爪の先で、がっとに抓っていたのでした。……きりきりと、張り詰めるように……。彼女の親指と中指の爪の内側が色づいたのは、遂に捻じ切れた皮膚の下から滲み出す血に依るものでありました。
……痛い……痛い……、のですが、なんでしょうか、この得も言われぬ、湧き上がるような熱情は……。たったひとつの、傷口でしょうに――満腔をがたがたと震わせ、涙と涎と鼻汁とを溢しながら、私は、私は喜色を呈していたというのです。
「何を笑っているの」
そう言って彼女は、あたかも冷房のように無機質な笑みをじッと向けてくれるのでした。ぎらぎらとした歯の白さとは、おぞましいほどでありました。
私は、つい、傷の方に目をやりました。……肉がちょっとばかり覗いていて、そのぐるりで薄皮が、まためくれあがろうとしているのでした。それを、じっとりと重々しい血の玉が覆い隠してしまいます。
すると彼女は私の手を、両の手で掬って、舌先で舐ってみせるのでした。彼女の舌は存外さらさらとしていましたが、湛えた涎がいちいち滲み込んでくるようでした。それが、もう、たまらないのです。……小さい……本当に小さい傷でしたが、その動作の最中ばかりは、茫洋とした広がりをみせるのでした。
彼女はびいどろでも扱うみたく、やおら私の緩まった手を机の上に畳んでくれました。
そして、ひとたびの舌なめずりの後。
口端についた紅色が、涎に混じって揺れるようでした。
〇
私はこの齢で、まだ、彼女の無邪気さに乱舞するのでしょうか。否、いけない筈でしょう。あれは、少年と少女の――純粋な戯れ――。かつての少年であろうとも、踏み込んで良いものではありません。
それなら、私はきっとこの傷跡の中に、少年としてあり続け、彼女の前に傅いてしまうのでしょう。
この、僅か数ミリの中ばかりは、時の歩みが、停滞しているのです。
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