羽毟り
冷房下、埃ものらぬブラインドの中で会議は踊っている。
「――――以上を、二年四組・桐山綾香の起こした自殺事件の報告とさせていただきます。」
山岸はタイトスカートの端を摘まんでぴんと伸ばしてから、パイプチェアに座ると、続いて校長が黒革のチェアに凭れて山のように張った腹を摩りながら、ふと溢すように言葉を吐いた。
「いやあ、最近の若造は実に愚かだ……何故そう簡単に死のうとするのだろうね。羽を失った蠅でさえその魂の朽ちるまでは、藻掻いてみせるというのにね」
隣席の教頭は、タブレット端末に今回の報告を纏めると、過去の事件を滔々と告げた。
「昨年度、二〇十六年七月二十二日・金曜日、当時三年生の笹山加奈は終業式の三時間後に屋上から飛び降りて自殺、携帯に残された遺書によると自殺は本人の意思であり、これはいじめ、学校生活、友人関係に懸かるものではないことを宣言しています。
同年十一月九日・水曜日、当時一年生の黛千聖は学園祭前夜の準備で学校に友人の桐山静香と残っていたが、桐山がコンビニで夜食を買って帰ると自教室で黛千聖が首を吊って自殺。これも携帯に残された遺書よりいじめ、学校生活、友人関係に懸かる者ではないことを宣言していました。
同年……」
「もう、いい。遺書で学校側に一切の責任がないことが表明されている……全く最近は遺書までディジタル化かね……。周囲にはこう言っておけ、『学校側の関与はない』と」
そうして、本日の会議は幕を閉じる――。
○
山岸は、タイトスカートが千切れてしまうのではないかというほどの大股の早歩きを、ふと止めて、放課後の廊下から、斜陽に包まれた東校舎をぼんやりと視界に含めた。東校舎は、六年前の東日本大震災の影響を大きくうけた唯一の校舎であり、数年前に改築工事がなされ、薄汚れた校舎の中では、まさしく、地平線に没しようとするもう一つの斜陽であった。それが、夕焼けによって、橙赤と黒に焦がされている中、教室にいる生徒のワイシャツが冴え冴えとして、遠方からでも目立っていた。
その白の数は二つで、一方の白い腕が何かを訴えている様子で、それをもう一つの白い背が聞き手になっているようだった。そして、視線を廊下の突き当たりにある消火栓に向けて、歩き出した――その時だった。
視界の端で、白が通過した。
最初は、プリントや、ビニル袋かなにかかと思った。しかし、さっき山岸が見ていた景色に、異様に映えるようにあった色は一色だけで、それが、白だったから、いてもたってもいられずに、窓に駆け寄って、その色の行方を追った。
その色は、あった。
しかし、その色は、徐々に焦がされていくと、やがて、夕焼けに飲み込まれた。あたりには、草を舐めた、噎せかえるようなぐらい濃密で濡れた風が、山岸の冷や汗を撫でた。いつもは不快に思うそのにおいと、熱と、湿気が、今は心地が良かった。そう、それは、
――目の当たりにした事実から目を背けるのに十分なほど、気分を害し、立つことさえ許さなかったからである。
〇
「あら、お目覚めかしら。とっても辛そうにしていたわよ。額から脂汗みたいなの、ずっと流れてて……。なにか悪夢でも、見ていたの」
「あれ、ここは……保健室でしょうか……いや、どうして私はここに」
「担いで運ばれてきたのよ、廊下で倒れていたのをね」
「どなたが……」
「ええと、確か紫藤くんだったかしらね。あなたのクラスの子じゃなかった?」
「ああ、紫藤くんが。そうでしたか。明日お礼言っておかないとだ……」
「紫藤くんだったら、そこに居るわよ」
紫藤は養護教諭とは向かいに居た。彼はくしゃっと笑んで、「おはようございます、茉菜先生。とっても可愛らしい寝顔でしたよ、ごちそうさまです」とてのひらを合わせた。
「なにをませたこと言っているの。駄目でしょ、大人をからかったら」
山岸は眉を立てて、彼の額を軽くデコピンしてやった。彼はわざとらしく、あたっ、と
「からかった罰だからね」
「体罰だあ……いや、美人の先生にこうされるのは、かえってご褒美でしょうかね。ごちそうさまです」
「……そんなこと言っているから君はガールフレンドができないんじゃないのかなあ。綺麗な顔しているのに。いい? 先生が君くらいの時はね、それはもう……」
「山岸先生」と、そこへ養護教諭の手刀が振り下ろされた。「あなた、紫藤くんにお礼を言うんじゃなかったの? それに、第一そういう話はここでしてはいけないわ。ほら、元気なら、出てった出てった」
〇
アスファルトからは、噎せ返るような湿気た熱が立ち上っている。雨の降る前の、じっとりとした熱帯夜であった。喫茶店で買ってきた冷珈を手に、二人は夜道を歩いていると、公園で侘しく灯る街灯に吸い寄せられていった。
公園は小さなものであった。人気が全くなくて、周りを青々とした葉桜の並木が囲っていた。遊具なんてものはブランコだけで、はじめはそこに腰を沈めようとした。が、紫藤は先に腰掛けてから、隣のブランコの泥の足跡を発見し「先生、スーツが汚れてしまいます。そちらのベンチに坐りましょう」と暗がりを指さした。そうして立ち上がって、すたすたとベンチに駆けて行くと、そこには羽を失った蠅が、折れた脚をぴくぴくと震わせながら、身体を引きずっていた。しかし躊躇うことなく、手の甲で砂ぼこり共々払ってしまうと「どうぞ」と自分は端によけて、彼女を促した。
「結構紳士なんだ。感心、関心」
「お隣よろしいですか」
「くるしゅうない、ちこうよれ……とその前に、ほら、ズボンの砂、払わないと」
「おや、失敬」
そうして二人はカップを傾けながら、思わず、燦然と夜空に懸かる星々に目を奪われた。
「綺麗な星空ですね」
「でも、ちょっと明るいかもね。街の方だもん。私の実家の方、市井野の方……って言ってわかるかな。まあ、すっごい田舎なんだけど、とっても星が綺麗に見えるんだ」
「成程、先生は天文学にも教養があるのですね」
「いやあ、全く。私の眼球に映り込むのが、このとっても素敵な星空であったとしても、更に素敵な故郷の星空であったとしても、夏の大三角形とアルタイルとベガとデネブしか、わからないんだ」
「僕よりはいいですよ。いやはや、僕にはどれも一緒に見えてしまいます。趣のない愚鈍ですよ、全く。僕にはもっと、目に見えて揺れ動くような熱でなければ……」
「いいんじゃないの、それで。だけどさ、知らないからこそ、きっと一言に、美しいって口にすることができるのかもね。私たちって、すぐ優劣をつけようとするから、嫌」
「茉菜先生はロマンチストですね。そういう人、僕好きです」
「なに? 君は私に惚れているの? それとも、惚れさせたいの?」
「そうですね……」と、紫藤は彼女の手を握り込んで「どうしても、辛そうな顔をしている人を、放ってはおけないんです」星々を取り込んだまなこを、そっと向けた。
山岸はどきりとした。まるで胸裡をスコープで覗かれているようだった。そうして、彼の言葉とは、彼女の核心をふわふわの羽で慰撫するかのようであった。その触れられたところが、熱を帯びてゆく。熱は体内を巡って、頬と胸とをぽうっと灯し、ふと口から漏れ出していった。小さな手に、彼の重くて角ばった手が擦れるたびに、ぞく、ぞくと、満腔が震えた。「ごめんなさい、私、やっぱり具合があんまりよくないみたい」「先生、それは、心の具合が悪いんです」「心の、具合……?」「はい。心が、必死に悩んでおられるのです。こう、ぐるぐると、どす黒い煩悩が蛇のように蜷局を巻いて……。ねえ、どうか、僕にお話になってはくれませんか」
彼女は、力が抜けていくのが恐ろしくなって、死に物狂いで、紫藤の手を握り返した。視線の一切を、決して離しはしなかった。彼女には、彼の瞳に溜まった煌めきが、今の光のすべてであった。「先生……先生、僕は、あなたが好きなのです。ですから、僕は、あなたを救ってあげられます。一切を、僕に委ねるように……そう、そうです……寒いですか、寒いなら抱きしめてあげましょう……、せつないですか、せつないなら噛み締めてあげましょう……、怖いですか、怖いなら僕がずっと傍に居てあげましょう……はい、そうです……僕が……」
ゆったりとした声風に、心は攫われてゆく。
「……なにか、嫌なことがありましたか」
「そ、そんなことは……」
「教えてくださいませんか、お願いします……僕は、先生を助けてあげたい……お願いします……お願いします……」
「……その、ね……今日、放課後……廊下を歩いていたら、見たの……」
「なにを、見たって言うんですか」
「……人が落ち……東校舎……四階から……」
「そうでしたか」
「おかしい……おかしいんだよ、最近……うちの生徒が、なぜか、自殺して……」
「そうでしたか」
「……わたし、もう、よくわからない……ほかのせん生に、言っても、べつに、いじめとか学こうが悪くないんだって……」
「そうでしたか」
「……おちるとね、こわい……まっしろの服が、まっ赤っ赤に……ゆうやけ色に……ぐちゃぐちゃ……」
「そうか、それは大変だ……ほら、泣いてもいいんだ」
いよいよ彼女は泣いてしまった。彼のワイシャツに灰色の斑点ができてゆく。握り締めれば皺が深々と寄ってゆく。
憚ることなく、みっともなく、幼年時代に立ち返ってしまうようであった。
散々の号泣の後、彼女は眠りについてしまう……。
〇
桜の木の梢には薄汚れた縄がぶらんと垂れていて、その先に、一つの蕾をつけておりました。
「起きましたか」
「あ……あ……紫藤くん……」
「茉菜さん、キスしてもいいですか」
「あ……うん……いいよ」
「では、もっと、こちらに来てください。僕を攫ってしまうように。さあ、跳んできてください」
彼女は、がっと踏み切って、跳んでみせました。
――ガランと、乾いた音が転がり、
――ミシミシ、カサカサと、梢がしなり、葉擦れが起き、
「ア……アア……苦しい……!」
「それはですね、茉菜さん、あなたを僕が抱きしめているからです。あなたのことを、僕があまりに愛しすぎてしまっているから、胸がきゅうっとなって、苦しいんです……ほら、キスをしてあげます」
ほんの一度だけ、口唇とが触れ合ったのです。
縄は、ぴんと張り詰めてしまいました。
そして見事、この鬱蒼とした葉桜の中に、あなたは、美しくその花を咲かせてみせたのです。
この満腔の残熱と、唇の湿り気とが、女性の儚い様に交じりゆくのに、いつだって僕は恍惚としてしまうのです。
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