ひときず
羽衣石ゐお
ひときず
〇
それは、ひょんな傷だった。
体育でバスケットボールをしていたときだった。敵のボールを奪おうと伸ばした男の右手に、敵の伸びた爪が突き刺さった。てのひらのど真ん中だった。そして敵が前に大きく出ようとする推進力は、いともたやすく皮を突き破って肉を浅く抉ったのだった。
――刺さった棘を、針で何度も何度もほじくりだすときのような痛みに気を取られていると、既に敵は華麗なレイアップシュートで得点を決めていた。
薄皮はどこかへ吹っ飛んで、むき出しになった薄い桃色の肉を隠すように鮮血が滲みだすと、水のようにさらさらと流れ出し、床へとぽたぽた落ちていった。彼は元来、血が苦手だったから、ひょっとしたらこのまま出血多量で死んでしまうのではないかと、ひやひやしながら左手を受け皿にした。
ゲームは依然と続いていた。
急停止した男は、体育教師の向ける奇異の目に、鳩尾を平手で圧迫されるような吐き気と、嫌気とを感じていた。彼はコートから外れ、体育教師に保健室に行く旨を伝えると、流し目に首肯されたのだった。
〇
ノックを四回。男は用件を告げながら保健室に入ると、そこに養護教諭の姿はなかった。部屋に入る前、確かに声がしていたような気がしたはずだった。
されど、別に彼女の手を借りずとも、患部の止血、殺菌、絆創膏の貼り付けぐらいは彼にもできることだったので、深追いはやめた。かえって、忸怩をさらけだすこともなかったことには僥倖だったのかもしれなかった。
けれども彼は保健室に自ずと足を運んだのは初めてだったので、適当に室内を徘徊して、消毒用アルコールとガーゼと絆創膏を探した。すると、ある薬品棚にはいったい何に使うのか見当もつかない薬品や、心なしかどきりとするような錠剤まで置いてあった。
目的を果たしたのは、入室してから十分の経った頃だった。
わずかに絆創膏のガーゼが黒ずんでいた。男はそれをぼんやりと見つめていた。やがて養護教諭が扉を開けた音に情けない声をあげて、保健室を飛び出で、すると体育は終わっていた。
〇
そして閑散とした体育館からひとり教室へと足を運んでいると、急にあの傷が脈打つように痛み始めた。たいして痛くないはずだった。これに比べたら子供の頃にじゃんけんで負けて食らわされていたしっぺのほうが何倍も痛いはずだった。しかし黒の蝕みがガーゼをやすやすと飲み込んで、テープ部分に侵食していた。胸が詰まった。呼気が弾んだ。即座に右手は吊り上がった。心臓より高く、心臓より高くしないと、だめだ。きっとこの些細な傷口から、無窮動に染み出る血液は、やがてその小さな傷口をぽっかりと穿って、どくどくと這い出、腕を伝って、体操着に吸い込まれていくのだろうと思い込んでいた。
「嫌だ……嫌だ……」
叫べば、慌てふためけば、そのたびに奔流となって押し出てくるようだった。男はどうしようもなく、階段を駆け上がり、教室へと向かった。
〇
教室に行くと、彼の席にはノートの紙片が置いてあった。
それは男のガールフレンドからのものだった。『三号館のリフレッシュスペースに来て欲しい』と小さな丸文字で書かれていた。男は気分が悪かった。きっと真っ青な顔色であるとも思った。しかし到底、黙って座っていることなどできないのだった。どうせ座っても、貧乏ゆすりが悪目立ちするだけだった。
彼はガールフレンドのもとへと向かった。
「あ、来てくれた。よかった……もう来ないんじゃないのかって恐ろしかったじゃない。さあ、ここに座って」
彼女は手招いて、自分の隣を開けた。
しかし「いや、このまま立って聞かせてもらうよ」と断った。「そう、いつもは立っているのは疲れるって、すぐ座ろうとするくせに」彼女はそう冗談めかして言うと、一転、申し訳なさそうに話を切り出した。
「わたしが悪かったわ……あなたに我儘ばっかり言って。それであなたが困っているってわかってて、それでも自分に正直にならなきゃって思ったらわたしおかしくなっちゃって。だから、もう今度からはちゃんとあなたのことをずっと考えるわ。だってそうでしょう、あなたってば、わたしが我儘言うと、身を投げ出すときみたく悲しそうに笑って『わかった』っていうんだもの。でもね、わたしばっかりってのも違うのよ。あなたにだって少しぐらいの非はあるのよ。それに気づいてないだけよ、そしてそれが良いことだってほんとに思ってるのよ。あなたはきっとシャイよ。それに対してわたしはガサツよ。それでもね、そうじゃなきゃどうしたっておかしくなっちゃうのよ。だからどうすればいいのかって、わたしひとりで馬鹿みたいに考えちゃうじゃない。嫌よ、そんなのふたりじゃないわ。だからね……」
彼女の話は続いた。真剣に語っていた。これからも末永くとまるで子供の名前でも決めるように。
それでも、男は自分のことでいっぱいだった。
正確にはあの傷にいっぱいいっぱいだった。彼女から放たれる言葉に耳なんて貸してもいないというのに、そのひとつひとつが突き刺さり、傷口で暴れまわるのだった。
「――だまってくれ!」
男は頭を抱えて、叫んだ。
絆創膏から溢れた真っ赤の血が、顔に垂れた。
髪をぐしゃぐしゃに掻き毟った。
頬骨に血が落ちた。それを伝って、彼女の手に落ちた。血は彼女のきめ細やかな皮膚の凹凸に染みわたっていった。
彼女はしばらく逡巡した末に、ぱっと立ち上がって、その血を男の体操着にぬぐいつけて去っていった。
男はようやく流れの止まった傷口を空虚に眺めていた。
びちゃびちゃに黒ずんだ絆創膏が床に落ちていた。
それは煌めく奔流に洗われていた。
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