偸盗

 〇

 不器量で、べらぼうで、はて、少年時代の私というのは、いったいなんだったのか……。醜悪さというのは予定されたもので、当時の私はそれを転覆させてやろうという気概のないどころか、「絶対」のものであると殻に籠ってしまったばかりに、どんどんと先の見えないような、暗がりに、膝を抱え込んでしまったのです。

 あれは、小学五年生の頃のことでした。


 〇

 ……昼下がり、私はソファに横たわって、テレビを見るふりをしながら耳をそばだてていました。隣のソファに座って数独パズルをやっている母は、ふと立ち上がると、鉛筆でページを挟んで丸テーブルに放り、廊下に通ずる片開き戸に向かいました。それはノブを捻ると、酷く音の大きく鳴るもので、「あ、今ちょうどテレビ面白いところだったのに聞こえなかったじゃん!」とまで言ってみせました。

 すると扉を挟んで、カーペットの擦れる音を耳にしました。それはやがて遠ざかってゆくと、しゃん、とトイレのドアに掛けられている鈴が小さく鳴ったのです。

 ――よし、今のうちだ!

 私は足音のしないように忍び、キッチン脇の棚に乗せられた、母の薄花色のハンドバッグに辿り着くと、そのファスナーを半分まで開け、化粧品の入っているポーチの下敷きになっている財布を取りだしました。

 その折り畳み式の財布は、子供には手に余ってしまうもので、大変ごつごつとしていました。確か以前に、蛇革だと自慢された覚えがあります。へえ、こんなにしっかりしているんだな、と関心しながら広げてゆくと、思わず、おお、と声を漏らしてしまいました。……いけない、いけない、つい……。聞かれているかもしれません。こういうのは、いかに落ち着きを保っていられるかが肝心ですから。私は、さっと一万円札だけくすね盗り、折り畳みなおし、ポーチの下に沈め、ファスナーを閉めて、元通り。一寸の違いもございません。

 すると水の流れるのが聞こえ、続いてすぐに凛とした音が、私の耳と胸とを打ち付けるのでした。吐き気のするほどの恐怖と悦楽に私の身体は震え上がりましたので、ソファに転がり込みました。

 ……やった! 成功した!

 試しに、室内灯にお札を透かしてみました。きっかり『彼』が浮かび上がると、私の間の抜けた顔に、更なる阿呆面が浮かび上がるのでした。そんな阿呆は、カーペットの摩擦音などにも注意を払えずに、ドアノブが軋むので、やっとのこと我に返ったのです。

 ――慌てた私の手から滑り落ちたお札は、ひらひらと、きゃべつ畑を悠然と舞い踊るモンシロチョウのようでした。

 しかしそれは、すっと、ソファの下へと潜り込んでしまいました。


 〇

 当時は、諦めということを知りませんでしたから、きっとどこかで私はお友達と仲良くすることができるなどと思っていたのです。しかしながら私は生来から身体が弱く、おまけにみんなのようにゲーム機のひとつも持っていませんでしたから、どうしたら、みんなが私のほうへと興味を持ってくれるのかを試行錯誤した結果、一つ、一つだけ、あったのです。

 それは、お金でした。

 確かに、ゲーム機というものは、とても高いものです。ですが、みんなとお菓子を食べあったりすることは、可能ではないかと思いついたのです。私は、家事を手伝って、なんとかお駄賃をせびっておりました。けれども、これらは全く母の領分でして、母が大した労力でない私を雇ってくれたのは、ほんの数度ばかりのことでした。

 次に、考えたのはお小遣いです。

 私には十歳も年の離れた姉が居ました。今はバイトをして、遊ぶためのお金を稼いでいるのですが、以前は、お小遣いをもらっていたのを覚えておりました。実際、金曜日にやっているあのネコ型ロボットの出てくるアニメの主人公でさえ、月に五百円のお小遣いを貰っているのを、見ていましたから、私はしめたと母に頼み込んだのです。しかし、母は取り合ってくれませんでした。まだそんなのが要る齢ではないと……。


 そうして思い悩んだ末に、私が行き着いたのは――家族の財布から、お金をくすねるということでした。



 ……ついにゲーム機を購入しました。二台も。私は最新ソフトも買って、みんなの注意を引くことができるようになったのです。

 それから、私は思いつく限りの幸せを買っていきました。高めのお菓子、ゲーム、人間関係、なかんづく女の子を……。

 公共交通機関というものが苦手だった私は、よく家族で買い物に行った際に、こっそりと抜け出して、必要な『道具』を買いそろえていました。母や父は「それだけの金をどうしたんだ」と訊いてくることがありましたが、私はそれに決まって「お年玉の残りがあるんだ」と答えておりました。私は、この問答のたびに、全くといってバレていないと思っておりましたので……。故に、くすねる際に限って、目がないことだけを注意して、ただただ偸盗を続けておりました。



 ……いつからか、母は月に千円のお小遣いをくれるようになりました。が、それに対して、なんと言えばいいでしょう……感動……というものを、ほんのこれっぽっちも感じることができませんでした。いやはや、回数を重ねてしまうと、感覚が狂ってしまうので……。



 ……五年生の二月頃に、県巡検という、まあ、六人班で市街に遊びに行くような企画があったのですが、その際にも、私はゲームをこっそりと持って行きました。なぜそのようなことをしたのか? ……それは私といつも遊んでくれていたユウくんというお友達が、同じ班に居たからです。彼が、それを持って来て欲しいと言ったものですから……。

 酷く寒い日のことであったと思います。吹雪があっという間にダッフルコートにへばりついては、払って……を繰り返すという、大変、巡検には似つかわしくない天候でした。なぜそんなことをいちいち覚えているのかというと、それは、非常に仲の良かった女の子も、その班に居たからです。くじ引きで一緒になった時は、ユウくんと飛び上がって大喜びしました。それほどに、可愛らしい、髪の長い女の子でした……。

 私が普段からお菓子などをあげていた中に、勿論、彼女も居ました。その因果で……と、私は理屈付けて、巡検当日に私の為だけに作ったという、バレンタイン・チョコレートを、受け取りました。ビニル袋に包まれていたというのに、私は我が子を抱くように、コートに包めておりました……巡検中はずっと……。そのせいで少し融けてしまいました。

 水族館などは大変楽しかったのですが、歴史的な文化にも触れなくてはならず、しぶしぶ選んだ憲政記念館は、あまりに寂寞としていて(当時の感覚では)、ユウくんは私の貸してあげたゲームを無表情にプレイしながらついてきていました。また私も途中でもう一台のゲーム機を取り出して、暇つぶしをしてしまいました。

 そして、最後にはB級グルメコンテストという屋内イベントに向かいました。

 その前に、ちゃんと予定通りに進行できているかを、逐一電話で先生に報告しなければなりませんでしたから、班の報告係だったユウくんは「ちょっと電話するね」と私たちに先に行っているように言いました。


 ……帰りの電車を降り、ホームから階段を上っている時に、窓から見上げた空には、どんよりとした雲がしんしんと雪を降らせていて、なあんだ、今頃、と力が抜けてしまいました。改札に切符を入れて改札を潜り、あとは、先生に報告して、巡検は終わりでした。――そして報告を済ませて「では解散!」「さようならあ!」と元気よく言って、帰路を辿りました。


 自宅に着いて、玄関に入ると、そこには、母が立っておりました。母は、大変怒っていたのです。

「ナオ! ……あんた、ゲーム機を巡検に持ってったんだって!」

 私は、目の前が真っ白になってしまいました。感情というものが、ハリツケにされて、怒気を纏った言葉の矢が、それめがけて飛んでくるようでした。かてて加えて、その言葉を考えれば考えるほど、どんどんと抉るようで、また考えないようにすると、鏃に引っ掛かって、ずきずきと痛みだすのでした。

 私は、とりあえず取り繕うことに決めました。

「あれは、姉ちゃんのゲームを、そのまま持ってちゃったんだ……」

「嘘! 二台あるって先生が言ってたわよ! ……確か、スリーイーエスと、イーエスイー……って!」

「あれはお友達から借りたやつで……もう返してきちゃった」

 これもまた、嘘でした。しかし、お友達、ユウくんには巡検の帰りに貸してしまいましたので、手元にそのゲーム機はありませんでした。

 なので、私は確かめて欲しいと、バッグも、コート類も全て渡してやりました。玄関先は、冷ややかでした。思わずくしゃみをしてしまいましたが、母は、一向に中へと入れてはくれませんでした。

 ……さあ、いくらでも調べてみろ。と私は内心嘲笑っていましたが、なんと、母はリビングに荷物を放り投げて、果たして持ってきたのは、件のゲーム機のパッケージでした。「ああ、チョコレートが!」と声を上げながら……おかしい! という声を必死に押さえつけました。それは、確かに自室のロッカーの奥底にしまった筈でしたから……。

「最初っから! 全部! お見通しだったのよ! あんた、私たちのお金盗んでたでしょ……!」

「違っ……」

「違くないでしょ! そうやって嘘ばっかり! 何万も何万も……。それに悪いと思ったから、お小遣い毎月千円あげたのに! あんた全然やめないじゃないの!」

 母の、血走ったまなこには、いったい、私がどのように映っていたのでしょうか……。もう、絶交だなどと言われたり、散々にぶたれてしまうのではないのかという不安は頭を擡げましたが……。

 ――ただ、私は、悲しくなりました。

 初めから千円……いいえ、五百円でいいから、お小遣いを、自分で自由に使えるお金を、くれればよかったのです。それなのに、くれなかったではないですか、もう、遅かったのです……。その善意の千円札は、汚れ切ってしまったお札の中に埋もれてしまったのです。

「だったら最初っからお小遣いくれればよかったんだ……!」

 と私は咽び泣いて、許してもらえるまで、ごめんなさい……ごめんなさい……と悲嘆にくれておりました。


 ……やがて、涙も枯れてしまいます。そんな私に母は、そのゲーム機を返して貰ってこいと言って、私を家から追い出しました。私としても、そちらのほうが気が楽でしたので……。

 ユウくんの家は、走って十分ほどでした。

 私は運動が苦手でしたから、すぐに息苦しくなってきて、また、つんと鼻を刺すような冷気もあって、涙がどばどばと、止まりませんでした。

 雪は大降りになってしまい、道がどこも歩きにくくて、なんども足を引っ掛けてしまいました。

 ……ぼろぼろになった顔面を歪めて、笑顔を取り繕ってみせて、ユウくんに頼み込んで、ゲームを返して貰いました。いつもは、頑固な彼も、なにやら青ざめたような顔でこちらを見下ろしていました。


 ……そして、そのゲーム機は売られてしまいました。


 〇

 ……そして仕事から帰ってきた父からは「これはな、父さんが一生懸命に、汗水流して、稼いだ金なんだ。それを盗むのは、泥棒だぞ。これが、まだ家族だったからあれだが、もしもよそでやってたら逮捕されてたんだぞ」と説教をされました。

 ……私だって……! 頭が悪く、容姿も醜かったので、小学校で一人としてまともな人間付き合いもできず、学業にふけることもなく、姉に貸してもらったゲーム機を、姉が家に帰ってくるまでの間やりつづけたら、宿題を適当に済ませて、さっさと寝てしまう。そんな無為なことを続けるくらいなら、「ぼくだって働きたい! 働いて、さっさと一人で暮らしたい!」と、切に願っておりました。


 〇

 ……姉はそれでも、リビングにずっと財布を置き続けておりました。また姉は、もしかしたらまだ気づいていないのでは、と本気で思っていました。私も姉も、勉学は碌にこなせませんでしたから。

 ある日、姉は「お友達と遊びに行くんだ」とロングブーツの紐を格好良く結んでから、ふと財布がバッグに入っていないことに気が付いたようで、私に「お財布とってくれない?」と言ってきました。

 私は、うん、と言って、そのつるつるぼろぼろになった財布――なんども握ったこの財布を、姉に手渡しました。その時、姉はからかうように、「お金、取らないでね」とだけ言いました。私はまた「うん」と俯くと、姉は喜色満面といった様子で、私をぎゅっと抱きしめてくれると「行ってきます!」手を振って玄関から出て行ってしまいました。


 その笑顔の眩しさに、私は、はっと改心させられました。

 人間というものは、鋭い制裁を加えられるよりも、ちょっとしたもやもやを与えられる方が、心の奥底から、悪行を顧みなければならなくなります。それは大変険しい道です。ですが、愚かな私を信じてくれる、天真爛漫というか、幼いというか、溌剌というか……そういった姉という存在は、その道を突き進むことの大きな支えでもありました。

 

 〇

 それと同時に、私の脆さとは、こんなにも多大な迷惑を周りにかけてしまうのだと知って、私は死んでしまいたくなりました。ですが私は、この脆さを認めた上で、少しずつでも丈夫にならなくてはいけないと決意したのです。ひょろひょろの肉体には、中学ではサッカー部に入り、筋肉をたくさんつけてやりました。粗末な外見に気を遣うようになって、自分を伝える努力をして、私は初めて彼女というものができました。あの、巡検でチョコレートをくれた女の子のことですが……ははは……。まあ、直ぐに別かれてしまいましたが。理由は諸々ありますが。

 けれども、人というのは、失敗から学ぶ生き物なのだと、身を持って知ったのです。また、失敗とは、大変なことではあると思います、たとえば、取り返しのつかないような……大罪であるのかもしれません、ですが、きっと私たちは、たった一言の戒めのあとに、寛大なる心にひとたび抱擁されてしまえば、悔い改めることのできる、素晴らしい生き物なのでしょう。

 ……もうそれから何年とが経ちましたが、私はかくのごとき話を耳にすると、胸がどうしようもなく痛んでしまいます。


 たった六千文字程度の手記ですが、これを書き下すことで、私は自分の犯した罪について「最大の理解」をすることができたように思います。いやはや、私は丈夫になれたでしょうか。

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