第179話 閑話.ヨシュア追放後のルーデル公国 171日目 その2

 ――ルーデル公国 ローゼンハイム 大聖堂

 大聖堂に足繁く通う大臣らの姿は今日に限ってまるで見当たらない。その理由は唯一人この場にいる聖女とて知ること。

 彼女は神像の前で両膝を付き一心に祈りを捧げ続けていた。


「神よ。人々に幸あれ。穏やかなる日々を。どうか安寧を」


 時折、呟く彼女の言葉はこれで何度目か、いや何百回目になるか。

 彼女は同じ言葉だけを繰り返している。彼女は信じていた。いや、信じるようにしていた。自分にできることは祈ることだけ。

 だから、祈る。祈りを捧げることで、きっと願いが届くと。

 魔素がとある一点に流れ込み、淀み、渦となっている。今や公国で一番の魔力の使い手となった彼女以外は、流れる魔素を俯瞰して感じとることができない。

 彼女のみ公国、その隣国に至るまでの魔素の流れを感知することができた。

 様々な場所に流れ、淀みを作っていた魔素が、一点に流れ込むことがどういう結果を生むのか。彼女とてそれは分かっている。

 魔力溜まりと言われる地点の魔力密度を一とすれば、集中した魔素の密度は軽く二十を超えていた。


 祈りを捧げる彼女の元に近づく足音が一つ。

 鎧姿の中年の男は生気に満ちており、引き締まった体をしていた。

 彼こそは公国一の剣の使い手、騎士団長その人である。

 議場を辞した彼は、その足で大聖堂に向かったのだった。


「聖女様。我々騎士団の無事を祈ってくださり、感謝いたします」

「印でしょうか?」

「いえ。聖女様にお礼を述べたく参じた次第です」


 騎士団長は指先で四角を切る。

 聖女は組んだ両手を離し、すっと立ち上がり彼の方へ向き直った。

 

「わたくしの役目です」


 口元に薄い笑みを浮かべる彼女の姿に騎士団長は本当の彼女を垣間見た気がする。

 はかなげで消え入りそうなその姿に、彼ははたとなった。

 彼女は年端もいかぬ少女なのだと。聖女としての重責を負い、誰に相談できるでもなく、聖女たらんと勤めを果たしてきたのだ。

 彼とて重責を負う身である。責務とはどれほど自分にとって重圧となるかを知っている。

 しかし、同時に重責を負っているというある種の高揚感、自分が必要とされているという確かな手ごたえを感じることも確かだ。

 だからこそ、騎士団を志し、騎士団長とまでなった。

 騎士団の仕事が楽しいかと聞かれれば、首を振るかもしれない。だが、騎士団を続けたいかと聞かれれば、即首を縦に振る。

 

 彼女はどうだ? 望んで聖女となったのか? 違う。彼女は「神託」のギフトを授かったから、聖女になった。

 そこに彼女の意思はない。しかし、彼女は聖女である。

 ならば、彼女の想いは……。聖女の責務と彼女の想いが同じであれ、ば――。

 そこまで考えた騎士団長は、心臓が握りつぶされたような息苦しさに喘ぐ。


「聖女様。祈ること、神託を受けること、聖女様の責務は多岐に渡ります。しかし、聖女様がお休みになられる時はあるのですか?」

「いえ。わたくしは睡眠時以外、全てを捧げております」

「そこには聖女様……いえ、無礼を承知で言わせてください。アリシア様の想いはあるのですか?」

「……ございません。わたくしは聖女です。聖女としての務めを果たすだけです」


 嘘だ。騎士団長の「嘘発見」は彼に彼女が嘘をついていると告げていた。

 そして、彼は見てしまったのだ。一瞬であるが、彼女の指先が僅かに震えたのを。

 やはりか。

 騎士団長は悟る。彼女だって一人の人間だ。

 休みたい時もあれば、はめを外して遊びたいことだってあるだろう。

 だが、彼女は聖女である。彼女は自分の意思を押し殺し、危急のこの時であっても祈ること以外をしなかった。

 彼女が自ら動き、魔物の手から人々を救いたいという想いがあったとして、大臣達に協力したいという想いがあったとしても、彼女は聖女だ。

 だから、彼女は祈ることしかしない。


「どれほどのことか……。それが、どれほどのことか。申し訳ありません。聖女様」

「騎士団長がおわびされるようなことがございましたか?」

「い、いえ。言葉が過ぎました」


 つい自分の思いを吐露してしまったことに対しても真摯に応じる聖女に騎士団長の心はますます揺さぶられる。

 そんなことを露とも知らぬ聖女は抑揚なく彼に質問を投げかけた。


「団員が天国に旅立ったことを悔いておられるのですか?」

「悔いていないと言えば嘘になります。しかし、我々は全力を尽くしております。殉職した団員に哀悼を」

「はい。祈らせて頂きます」


 両膝を付き、切れ長の目を閉じ祈りを捧げる聖女の姿を騎士団長は見ていられなくなった。

 だが、殉職した団員のために祈ってくれている聖女の前から立ち去るわけにもいかない。

 騎士団長は複雑な思いを胸に聖女の祈りが終わるのを静かに待つ。

 

「ありがとうございます。殉職した団員たちも天国で喜んでいることでしょう」

「わたくしには……祈ることしか」

 

 「祈ることしか」の言葉には色があった。聖女ではなくアリシアの。


「聖女様……」

「後ろの言葉は忘れてください。わたくしではありません。わたくしでは」

「お気にされず。ここには聖女様と私しかおりません故」

「はい。わたくしは祈ることにします」

「ヨシュア様なら……」

 

 ヨシュア様ならば、彼女の心を変えることができるかもしれない。

 聖女としてではなく、アリシアとしての彼女を。

 彼は目をつぶり、尊敬する元主君へ想いを馳せる。

 しかし、目を開いた時、彼の目に余りに意外な光景が飛び込んできた。

 

 つううと聖女の目から涙がこぼれ落ちていたのだ。

 騎士団長は見てはいけないものを見てしまったと気づかぬフリをして踵を返す。

 

「ヨシュア様……アリシアは……いえ。わたくしは」


 消え入るような声で一人呟く聖女の言葉が耳に届いた騎士団長は、小さく首を振りその場から立ち去る。

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