第86話 閑話 ヨシュア追放後のルーデル公国 18日目

 人間の国は一度一つにまとまっていた時代があった。長い時ではなかったものの、一つになった人間の国に名称は無く、ただ帝国とだけ自称する。

 広大な領域を収める帝国の国力は残ったいくつかの他種族を長とする国や地域を圧倒していた。

 このまま帝国の領土拡大が成されると周辺国家は戦々恐々としていたが、帝国が他国に侵攻することは終ぞ行なわれずに短い歴史に幕を閉じる。

 というのは、一つにまとまったことで、彼らの目は外部より内部に向かう。帝国は人間の国全てを統一してから僅か10年で内紛期に入ったのだ。

 安寧の時は続かず有力諸侯らは自立し、時は再び群雄割拠の時代を迎えることになってしまった。

 時の皇帝ゲオルギオスは自立した諸侯らを打ち払うのではなく、取り込むか友好的な関係性を結ぶことに尽力し、人の国同士が争うことを今一歩のところで回避することに成功。

 この時、もっとも活躍したのが聖教であった。

 聖教は帝国の伸長と共に信者を増やし、自立した諸侯国においても国教になっている。

 彼らはゲオルギオスの「再統一より平和を」という考えに深く感銘し布教活動を通じて和を説く。

 特に聖教の象徴にして最も民から神聖視される聖女が矢面に立ったことが大きい。彼女はただ祈るだけ、争いのない世の中を。人々の安寧を。

 争い合い疑心暗鬼に陥る人々を、途方に暮れる人々を、剣を握る人々にさえ、聖女は変わらぬ祈りを捧げた。

 全ての人に変わらぬ祈りを。

 そんな人の理を超越した聖女の振る舞いに多くの人々は自らの行いを恥じ、荒ぶる心を静めたという。

 

 それから数百年の時が過ぎて尚、代替わりを続ける聖女の気高き精神は受け継がれている。

 通常、これだけ長い時が過ぎれば腐敗していくものが世の常なのだが、聖女に限っては変わらず人々に祈りを捧げているのだ。

 

 前置きが長くなったが、ルーデル公国は帝国分裂期にルーデル公爵が自立しできた国である。

 それ故、代々国の最高位は公爵を名乗っているのだ。

 自立直後は王号や大公を名乗るべしとの声もあったが、他の自立した国と同じく公国もまた帝国を尊重し公国と名乗ることで落ち着いた。

 

 そして当代の聖女もまた正しく人々の安寧のために真摯に祈りを捧げる少女である。

 彼女のこれまでの行動から、彼女も神へ帰依し私心なく行動していることは疑いようもない。

 過去から現代におけるまで神からの神託を人々にもたらし続けた聖女。聖教を信じる人々にとって、どれだけ神聖視されているかは語るべくもない。

 聖女は神託のギフトを持って生まれた少女が職位につくのだが、これまでのところ同じ世に二人以上の神託のギフトを持つ者が現れたことがない。

 また、聖女が留まる国は彼女が生まれた国と慣例で決まっている。

 神託のギフトを持つ女児が生まれた時は困窮した公国の事情があったにも関わらず、国内が歓喜の渦に包まれたものだ。

 余談ではあるが、当時5歳のヨシュアは影でこっそり微妙な顔でため息をついていたという。

 

 聖女は今日とて変わらず敬虔な信徒としての務めを果たしていた。

 それは、信徒としては正しい行いかもしれない。だが、決して為政者の姿ではない。

 ヨシュアが改革を行う前の公国ならば、違和感なく受け入れられていたのかもしれないが、統治機構が様変わりした今となっては長が置物であることは政治の停滞になってしまうのだ。

 なら、彼が改革を行う前の体制に戻せばよいではないかと考える文官は……残念ながら一人もいない。

 誰もが喰うに困った時代へ逆戻りなど誰も望んでいないのだから。誰もには聖女も枢機卿も含まれていた。

 

 大聖堂で祈りを捧げる聖女の元へ法衣をまとった壮年の男が訪れる。


「聖女様。戻りました」

「枢機卿。ご無事で何よりです」


 聖女の祈りが終わるのを待ってから話しかけた法衣の男――枢機卿は柔らかな笑みを浮かべ指先を四角に切った。

 両膝をついた姿勢から立ち上がった聖女もまた枢機卿に向け指先を四角に切る。

 

「わたくしが何か祈ることはありますか?」

「いえ、他国の枢機卿も大司教も聖女様がいらっしゃらないことを残念がっておりました」

「そうでしたか。次回はお伺いできればよいのですが。わたくしにはここで祈る責務があります」

「はい。神への祈りは俗世の事柄より優先されて当然です。ですので、次回の聖教会議はこの地ローゼンハイムで開催することとなりました」

「そうですか。それならわたくしも参加できますね」


 聖女は抑揚のない静かな声で枢機卿に言葉を返した。

 自分のために帝国で開催されている聖教会議をわざわざローゼンハイムで行うとなれば、心動かされるものだ。

 しかし、聖女の心は波紋を浮かべぬ水のように平坦だった。

 彼女にとって聖教会議でさえも、俗世のことなのだから。

 

「公国に枢機卿と大司教が勢ぞろいするなど、公国始まって以来のことです。さぞ領民も勇気つけられることでしょう」

「はい」


 聖女は柔らかな笑みを浮かべ、小さく首を縦に振った。

 聖教を国教とする国にはそれぞれ一人の枢機卿がいる。帝国は特別で枢機卿に加え、大司教が選出されていた。

 帝国がまだ一つだったころ、聖教には大司教、聖女、枢機卿がそれぞれ一人だった。それが、国が分裂したため、各地に枢機卿を置くこととなったのだ。

 枢機卿は一国における聖教の最高責任者に位置づけられている。これに対し聖女と大司教は聖教の最高責任者に列せられていた。

 どちらも高い地位にあることは間違いないが、在りようが異なる。

 もっとも一般の聖教徒から見れば、どれも同じく尊い人なのだが……。

 

 カツカツカツ。

 柔らかに談笑する二人とは対照的に騒がしい靴音が大聖堂に近づいてきている。

 

「聖女様! 枢機卿お戻りでしたか!」


 ビシッと敬礼した筋骨隆々な男は騎士団長だった。


「騎士団長。息災でしたか?」

「体だけは頑丈なもので。この通りです」


 枢機卿に向け、ドンと自分の胸を叩く騎士団長。


「どうされましたか?」

「聖女様の神託にございました通り、はやり病の兆しが見えております」

「承知いたしました」

「聖女様へ感謝の言葉をお伝えしたく。急ぎ参った次第です。では、これにて!」


 再び敬礼した騎士団長は踵を返し、大きな靴音を立てながら元来た道を戻っていく。

 彼の姿を目で追いつつ枢機卿が聖女に向け口を開いた。

 

「はやり病の神託があったのですか?」

「はい」

「神託、そして私の持つ予言のギフトはやはり……いや、神を疑う気など微塵もありません。しかし、神の言葉を受け取る方の人間の判断が正しいとは限らないとも懸念しておりました」

「そうですね。神のお言葉は間違いありません。ですが、受け取る側の人間はそうではありません」

 

 枢機卿が言わんとしていることは聖女にも分かる。


「公爵がこの地に留まると不幸が起ころう。南東の外れへ向かうべし」

尊き者公爵の安寧はここにはない」

 

 それぞれがあの時告げられた言葉を述べた。

 忘れもしない。

 俗世のことを感知しない聖女はともかく、枢機卿はこの神託と予言が出た時、夜も寝れぬほど悩んだ。

 公国に繁栄をもたらしたヨシュアを辺境の地へ追いやるなど、いかな神の言葉でも……と。

 それ故彼は「言葉の意味」を取り違えていないのか、考えに考えた。

 だが、彼には答えが出なかったのだ。

 

「では、私もこれにて失礼いたします」


 深々と頭を下げた枢機卿は聖堂を辞す。

 どうすればよかったのだ? 不幸が起こっても安寧がなくともヨシュア公爵をこの地に留めるべきだったのだろうか。

 苦渋の表情を浮かべた枢機卿は指先を四角に切ることしかできなかった。

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