第73話 閑話 続ヨシュア追放後のルーデル公国 14日目

 ――ルーデル公国ローゼンハイム 中央大聖堂。

 聖女が神に祈り、書類にサインが描かれる。この光景も文官たちにとっては見慣れたものとなりつつあった。

 バルデスと並び、「ヨシュアの懐刀」と呼ばれるグラヌールもまた聖女の元へ足しげく通う者の一人だ。

 夕刻も迫る時刻となり、聖女の元へサインをせがむ文官の数も少なくなってきている。

 

 教会の前ですれ違った文官と挨拶を交わし、グラヌールは奥へと進む。

 しかし、目ざといというか何というか……。

 グラヌールは公宮からここ大聖堂と呼ばれる小高い丘の上にある教会まで往復する馬車のことを思い出し、くすりと口元を緩める。

 彼自身は未だ乗ったことがないものの、馬車の中には途中で停車するものもあると聞くから驚きだ。

 それらの馬車はお昼時に食堂へ誘導してくれたり、軽食を売る露店に横付けしてくれたりするらしい。

 商売人とはどのような苦境でもお金を稼ごうとする。頼りになるものだ。

 そんなことを考えたグラヌールだったが、すぐに表情を厳しいものに変える。

 

 不測の事態が起こっていた。

 彼は軍事を担当する者ではない。だが、経済担当の大臣はどのような案件でも「お金」が関わると言って首を突っ込むことができるのだ。

 今はその利点を存分に利用してやろう。

 とグラヌールは思う。

 

「なるべく急いだ方がいい。『時は金なり』とヨシュア様もおっしゃっていたものだ」


 聖女はいつも教会の最奥にいる。

 今では馬車で来るようになったが、徒歩で公宮からきていたころ教会についてからのこの距離に頭を抱えた者も多いという。

 

 最奥の「祭壇の間」へ続く通路の先に扉はない。

 通路からそのまま祭壇の間に入ることができるのだ。幸い他の訪問者はおらず、聖女は一人両膝をつき祭壇に向け祈りを捧げていた。

 その姿は静粛で一枚の絵画のようである。

 黄金の光が窓から差し込み聖女を照らしていたとしても、自然に思えるようなそんな幻想的とさえ思える光景であった。

 

 聖女に野心があるのではないだろうか?

 彼女がヨシュアを追い出した後、グラヌールとバルデスは上記命題に対しさんざん議論した。

 だが、答えはいつも決まっている。

 彼女には野心どころか私心さえもないのではないか、と。

 騎士団長も彼らと意見を同じくしている。

 聖女は唯々聖教に、神へ尽くす存在で、彼女の生活は全て「神」に捧げるものだと聖教は喧伝していた。

 神の声を聞くことができる「神託」のギフトを持ち、神に尽くす為だけに生きる。

 それが、聖女に選出されるための条件だった。

 だからこそ、聖女は尊い。

 俗世で最も尊き者である聖女は聖教の最高責任者として列せられるのも当然だ、というのが聖教の組織体制である。

 

 聖女は尊く、誰からも敬われる存在であること――。

 このことには、グラヌールとて同意する。

 事実、彼女は気高き神の使徒であり、自分の時間など欲しいとも思っていない様子だった。

 私心なく、神へ全てを捧げ、奉仕する。

 グラヌールはこのことに対し、尊敬と畏敬の念を禁じ得ない。

 

 だが。

 聖は俗に関わるべきではないのだ。

《神のものは神へ人のものは人へ》

 彼はヨシュアが「政教分離を宣言」した時の言葉を思い出す。


 ヨシュアに全幅の信頼を寄せるグラヌールでさえ、ヨシュアの政教分離宣言には思うところがあった。

 全知全能の神を完全に政治から切り離すなど……烏滸(おこ)がましいのではないだろうか? と。

 実利の面から考慮しても、最高の知性を持つ神の言葉を無視して神より劣る人だけで判断するのは非効率ではないか、という懸念を抱いた。

 しかし、ヨシュアが政教分離を宣言し、政治と宗教を切り離したところで政治に乱れは起きず、ヨシュアの下(もと)、公国は発展の一途を辿ったのだ。

 

「ヨシュア様はやはり、偉大なお方だった……」


 誰にも聞こえぬよう囁くような声で呟いたグラヌールは、いよいよ聖女が祈る「祭壇の間」へ入る。

 対する聖女は彼に背を向けたまま、祈りを捧げ続けていた。

 

 グラヌールは、右の指先でひし形を切る。

 考えてみれば聖女と共に祈りを捧げることができるなど、聖教としては名誉なことだろう。

 彼は焦る気持ちをそう切り替えることで落ち着けた。

 

 目をつぶり、祈る。

 静かな時が過ぎ、いつの間にか祈りを終えた聖女が腰をあげグラヌールの方へ体の向きを変えた。

 

「書類への記名でしょうか? それでしたら、祭壇にお載せください」

「いえ、お耳に入れたいことがございまして。急ぎこちらへ向かわせて頂いた次第です」

「そうでしたか? いかがなされました?」


 聖女の声は揺らがない。

 彼女はこれまで文官からどのようなことを告げられようと動じたことなど一度もなかったとグラヌールは聞いている。

 事実、彼女は「危急で重大な何かがある」と告げた彼に対し、眉一つ動かさない。

 かといって、聖女は感情を神の元へ置き忘れてきたというわけではないだろう。

 聖女は人としての感情を持つ。

 慈しみの心、奉仕の心、全ての人に対する愛……などなど。

 

「ザイフリーデン伯爵が独立宣言をいたしました」

「そうですか」


 話はそれで終わりなのですか? とばかりに真っ直ぐグラヌールを見つめる聖女。

 その瞳には一点の曇りもなかった。

 対するグラヌールは背筋に寒いものが流れ落ちる。

 聖女の純真な瞳に彼は恐怖さえ覚えたのだ。

 一国の有力貴族が反乱を起こしたと伝え、国の最高責任者がそれをまるで問題視していない。

 

 彼女は本当に俗世のことを何も知らぬのだ。

 何が正で何が否なのかもない。彼女にとって俗世の出来事は全て平坦なものなのだろう。


「せ、聖女様。ザイフリーデン伯爵への対応はどうされますか? 騎士団長、軍事責任者も集め議論を交わしますか?」

「必要なことなのでしょうか?」

「……伯爵が攻め込んでくるような事態になることも予想されます。もちろん、我々で出来得る限りの情報は集めますが」

「グラヌールさん」

「はい」


 彼の名を呼んだ聖女は、不意に両手を胸の前で組み、両膝を床につける。

 突然の聖女の動きにぎょっとするグラヌールであったが、彼女の余りに自然な祈りの姿に目が釘付けになってしまった。

 彼女の祈る姿は「尊い」。

 誰しもにそう思わせるのは、彼女の俗世に対する疎さ……いや無関心がなせるわざなのだろうとグラヌールは考えを改める。

 純真に唯々神へ祈りを捧げることだけに特化した彼女は、敬虔なる神の使徒であり、それゆえ、普通の人には持たぬ神々しさ尊さを備えているのだ。

 

「神は何も告げておりません。ですので、何もする必要はないのですよ」

「神託がですか?」

「はい。その通りです。ですが、神は別のことを告げました。急ぎ、はやり病の薬を準備してください」

「わ、分かりました」


 「今は薬どころではないのでは」とグラヌールは思うが、神託の言葉は絶対。必ず薬は必要になると思いなおす。

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