水曜日の惚れ薬

 ビル街にひっそりと建っているカフェからは、排気ガスやコンクリートの臭いに隠れるようにして、コーヒーの優しい香りが漂ってくる。その香りを手繰り寄せるようにして向かえば、ウェンズデイ、という文字と、オープンドという文字が書かれた白い札が掛けられている。

 扉を開けば、カランコロン。軽い音がして、その直後にぶわっとコーヒー豆の香りが顔に吹き付けてくる。周りを見渡しても客はあまり座っておらず、カウンター席の向かいにいる蛇喰さん――マスターが見える。

 彼は蛇のような目でこちらを見てにこりと微笑むと、いらっしゃいませ、と鼓膜を低く揺らした。僕は誘われるようにカウンター席に座って、マスターの顔を見上げた。微かにタバコの香りが差し込む。

「いつものだね、霜月くん」

「は、はい、よろしくお願いします……」

 そう言ってマスターは奥へと引っ込んでいく。一人、赤くなった頬を押さえる。名前を呼ばれるだけで、もう、顔がかあっと熱くなった。

 僕がいつも頼むのは、ブラックコーヒーとガトーショコラだ――後者に関してはマスターが作っているわけではないけれど。それを待っている間、一眼レフを握って、子供のように待っている。

 しばらくすると、引いていったタバコの香りが帰ってくる。目の前にコーヒーとガトーショコラが並べられて、僕はそれを撮るのだ。

 ……本当は、マスターの顔を撮りたいのだけれど。

「君はいつもうちの料理を撮ってくれるね。SNSに上げたりするのかい?」

「え、あ、はい」

「そうかそうか。有名になってしまうかもしれないね」

 はは、と笑うけれど、これは嘘。本当は全部家に飾るために撮っているのだ。一週間に一回しか会えないこの逢瀬を思い出すために。

 ブラックコーヒーの苦味が舌先を痺れさせて、惚れ薬みたいだ。たぶん美味しそうに食べている僕のことを見てくれているのだろう、優しい視線がこちらに向けられる。そうすればもう、心臓がバクバクして止まらなくなってしまう。

 これが惚れ薬の効果でないなんて、ずっと前から知っている。でもあの日逃げ込んだときからずっと僕はマスターに惚れている。マスターに会える水曜日を心待ちにしている。片想いでも構わない、ただこのどきどきを味わっていたい。

 僕がコーヒーとガトーショコラを頂いたあと、マスターはこんなことを言った。

「そうだ、霜月くん」

「ふぇ、はい、何ですか」

「写真をSNSに上げるんだろう? 私の写真を載せてくれてもいいよ」

「……えっ!?」

「君だけだからね」

 僕の写真コレクションに、マスターが入る――聞いただけで卒倒してしまいそうだった。嗚呼でも、それならば、あの写真だらけの壁の真ん中に貼ろう。そして毎日毎日眺めるのだ。安っぽいコーヒーと吸い慣れないタバコを代わりに用意して、あの人でいっぱいになって――

 一眼レフに力を入れる。マスターは頬杖をつき、カッコつけたポーズをして見せた。完璧に撮らないと――そう思ってシャッターを切ろうとしたとき、その瞬間。

 被写体のマスターが、見たことも無いような妖艶な笑顔を向けた。それは、撮影者に向けた視線だった。

 呆然としてシャッターを切る。するとそこにはもうあの妖艶な人はおらず、いつもどおりの快活な顔があった。

「上手に撮れたかな?」

 僕はその場で崩れ落ちたくなった。それでもなんとか持ち直して笑顔を作った。きっと気持ち悪い顔だっただろう。

 一眼レフを大切に握り締め、立ち上がる。お金を払って、感謝とともに足早に外へと出る。

 しばらく歩いてから、体中が熱くなって、あの人を求めていることに気がついた。あの人に触れたい。あの人が欲しい。あの人があの人をあの人に……!

「……狡い、蛇喰さん……っ」

 たとえるなら、ファム・ファタール。あの人は人を狂わすんだ。そう、今の僕みたいに。

 ふらふらとした足取りで帰る。今の僕はどう見ても不審者だろう。でも、そんなふうに僕を高揚させるなんて……とても、とても刺激的で蠱惑的だ。僕は口角を上げて手で隠した。

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