恋人になれない

 唇を奪われた。一瞬のことだった。

 彼は少し得意げな顔をして、やってやったぞ、って顔をしている。

 私は唇に再び触れてみた。ふわっとしたただの皮膚だった。何の味もしなかった。何の香りもしなかった。強いて言えば、鼻につんとくる臭いがしたかもしれない。

「ほら、恋人同士だったらキスくらいしてみたいだろ?」

 嬉しいだろ? と言いたい顔。私は少し考えたあと、うん、と頷いた。

 恋人同士がする行為にしては、呆気なかった。何のロマンスも無かったし、肉欲も感じなかった。

「なに、反応薄いじゃん。どうしたの?」

「ううん、何でもないよ」

 彼が手を伸ばしてくるから、私も手を伸ばす。握ると生暖かくてむずむずする。彼が笑っているから、私も笑っていた。

 何考えてんの、と彼が言うので、何でも無いよ、と答えた。彼は私の服の下へと手を伸ばしていた。私はそれを、どこか遠くから見ているような気がした。

 手に彼の体を触った感覚が残っている。目の前で快楽に酔っていた彼のことを思い出すと、私はなんだか胃がムカムカするような感覚に襲われた。

 だから、吐いた。

 彼がいなくなって一人きりになってから、私は悲しくて哀しくて何度も吐いた。涙が止まらなかった。どれだけ唇を拭っても、あの奇妙な臭いと粘膜の擦れ合う感覚が消えてくれない。

 恋人同士だから、簡単にできるものだと思っていた。けれどもそんなことは無くて、肉欲なんて無くて、それが悲しくて仕方が無かった。

 彼のことを愛している。恋人でいることに何も異論なんて無い。だから拒む理由も無かったし、嫌でもなかったはずだった。でも、思い返せば今日の行為は「無理」だった。一瞬で心に大きな傷をつけられた。その傷はじゅくじゅく痛んで何度も何度も胃を締め付けている。

 彼からメッセージが来る。今日はありがとう、なんて優しい言葉だ。でも、今の私には何の味もしない残飯と同じだった。彼の顔も、よくよく思い出してみれば、特筆するほど好みじゃない。きっと彼に会っても目を逸らしてしまうだろう。

 ……私には、恋人の資格が無い。

 「恋人」という夢を奪われた。一瞬のことだった。ドラマで見ていたような、漫画で読んでいたような行為は全て程遠く、あの熱情は私のものにはならなかった。ただ行為は私の胸に深々と刺し傷を残していった。

 別れようだなんて言うこともできず、されどあの「恋人ごっこ」を思うだけで身が震えて動けなくなる。そんな感情、誰にも話せない。だから私は、癒えない傷を抱えて、また明日も彼に会うのだ、きっと。

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