可愛いあの子の灰色の部屋

「いいなぁ、あたし、マユの家行ってみたい!」

 少し前に体を傾けて、じっとマユの目を見つめる。くりっとしててまつ毛がばちばちで、まるでお人形さんみたいな顔だ。

 マユはもじもじとして下を向いてしまった。公園の砂で何か模様を書いている。今の発言の何が悪かったんだろう。

 最初はただ、マユがいつもあたしの家に遊んでくるから、たまには交換しない、なんて話だったのに。マユはふりふりのスカートの裾を握って俯いてしまった。

 あたしは沈黙に耐えきれなくなって、的外れなことを言った。

「あ、もしかして部屋が汚くて見られないとか。そういうこと?」

「……そんなことは、無いんだけど……」

「じゃあ今度遊びに行かせてよ! 明日にでも!」

 マユは、うん、と重暗げな顔をして立ち上がり、スマートフォンを片手に廊下に出ていってしまった。

 約束をするとき、マユは必ずこうやって部屋から出ていく。いつも「ママ」と連絡を取っているらしい。一方のあたしは、適当に扱われているから門限なんてものは無い。そう思うと、マユも大変だなぁ、と思う。

 マユは、おまたせ、と弱々しい声で言うと、頭を下げてこう答えた。

「ママは、ぜひ来てください、って言ってた」

「そっか、やったぁ! じゃあ明日行ってもいい?」

「うん、大丈夫……」

 マユがやや落ち込んでいるように見える。声に覇気が無いし、作ってる笑顔も下手くそだ。

「何かあったの?」

 咄嗟に出てきた言葉はコレだけど、マユは頭を横に振った。

「ううん、何でもないよ。楽しみにしてるね

「……そっか。ありがとね」

 そんな会話を後に、あたしたちは別れた。去り際に見たマユの背中は、少しも砂に塗れてなかった。というより、洋服に気を使ってたのかもしれない。

 あたしはそんなマユを見送って、帰途に着いた。



 朝倉マユはとにかくお金持ちだった。同じ制服を着ていても、その裕福さは端々から滲み出ていた。

 ぴかぴかのランドセルに、つやつやのローファー。いつも髪の毛はさらさらで、三つ編みにしてある。筆箱の中身も、香りペンとか色ペンとかダッサイ少女趣味でなくて、実用的な物が多く入っていた。

 だから僻まれた。物を盗まれたり、上履きを下水に放り込まれたりした。でも一度も親との面談になったことは無いらしい。

 ……マユの口癖はこうだった。

「私は可愛い子なの」

 だからめげない。前を向く。そんなところがカッコよくて、あたしも朝倉マユという存在に惹かれていった。

 マユの部屋はいったいどんなに可愛いんだろう。豪華なベッドが置いてあったりするんだろうか。マユが習ってるらしいピアノなどが置いてあるのだろうか。

 期待に胸を膨らませつつ、その日は寝ることにした。



 マユの家はやっぱり豪邸だった。

 そこの家だけ大きな庭があって、白い柵で囲われている。インターフォンから扉までも遠い。きっと使用人が出迎えてくれるのだろう。

 あいにく、今日は雨だ。ずっと待ってていたら冷えてしまう。すみません、とインターフォンに声をかければ、背の高いおばさんがこちらへ歩いてきた。

「どちら様ですか?」

「朝倉マユの友達です、黛ミヨっていいます」

「あぁ、マユ様のお友達ですか……これは失敬しました。ご案内します」

 使用人の背中を追っていけば、ふわりとバラの香りに包まれる。綺麗に手入れされた庭が広がっていたのだ。こんなところで住んでいるマユは、さぞかし深窓の令嬢なのだろう……と考えを巡らせていると、あっという間に部屋に辿り着いてしまった。

 扉の大きさを見ただけでも、あたしの部屋より何倍も大きい。使用人がノックしているのを、あたしは緊張して聞いていた。

 中からか弱い声で、はい、と聞こえてきた。少しして扉が開く。

「マユ! 遊びに来たよ!」

「うん、ありがとう。もし良ければゆっくりしていってね」

 マユはそう言って笑った。私を引き入れて、その豪華な部屋を見せてくれる。

 大きいシャンデリア、真っ白で統一された家具、グランドピアノに立てかけられたヴァイオリン、本棚に収まるたくさんの本。ベッドの上にはたくさんのぬいぐるみ。まさにお嬢様といったところだ。私は唖然としてそれを眺めていた。

「今お茶淹れるね」

「え、あ、あたしもやります!」

「お客さんだからいいんだよ」

 椅子に座って大人しく待っていると、目の前にティーカップが出された。どこの国のものだろう、まるで砂時計みたいな形をしていた。そこに赤い液体が入っている。

 マユは反対側に座ると、カップに両手を当て、ごめんね、と言った。

「ここ、何にも無いの。ゲームとか、遊べるものとか。強いて言えば、お菓子を出すくらいしかできないの」

「お菓子貰えるの!? 嬉しい!」

「うん。ちょっと待っててね」

 あたしの間髪入れない言葉に、マユはほんの少しだけ口角を緩めた。そうすると桃色の香りがぱっと咲いてどきどきしてしまう。

 はい、どうぞ、と言われて紅茶を差し出されたとき、あたしはついこんなことを言ってしまった。

「……ズルいよね、マユちゃん」

「え……?」

「こんなに可愛くて何でもできちゃうのに、欲しいもの何でも買ってもらえるし。きっと毎日が楽しいんだろうなぁ」

「――そんなこと、無いよ」

 マユが唐突に低い声でそう言った。あたしの横隔膜が震えて言葉を失う。あたしが理由を聞こうとするより先に、マユは遠い目で部屋を見渡した。

「ねぇ、やっぱり分からないのかな。分からないミヨが悪いって意味じゃないんだけどね」

「な、何が、って……分かんないよ……!」

「この部屋ね、全部ゴミだらけなの」

 あたしは驚いて振り返る。グランドピアノも、ヴァイオリンも、本棚も、シャンデリアも、確かにそこにある。何らおかしくないはずだ。

 背中を向けたまま固まったあたしに、マユは次のように告げた。

「私が買ってほしいって言ったわけじゃないのよ」

「……ま、マユは……これ、全部、要らない、ってこと?」

「うん。私が欲しかったのは、ごく普通にサッカーができるお洋服なの。ピアノもヴァイオリンも興味無いのよ。

でもね、私は可愛い子だから。可愛いお洋服で、可愛いことをするだけの存在意義なのよ」

 ひやり、背筋が凍る。瞬けば、一瞬で世界が白黒の無彩色になったようにさえ感じた。そうだ、マユの目には、これが要らないもの――ゴミに見えてるんだ。

 存在意義なんて難しい言葉は分からない。でもきっと、マユから見たこの世界は、つまらないものなんだ……

 マユは静かに口を開く。

「だからね、つまらないと思ったら帰っていいよ。私もつまらないと思ってるから」

「つまらなくは、ないけど……マユが可哀想」

「ううん。私はいいの。ママが可愛いって言ってくれるから」

 そんなのダメだよ! と口を開きそうになって、やめた。本当は今すぐこのゴミ屋敷から連れ出してあげたかった。このまま綺麗なものばかりと住んでいたら、マユがどこかに行ってしまいそうで怖かったんだ。

 ティーカップを握っていた拳を握りしめ、いっぺんに飲む。優雅に飲んでいるマユを傍目に、あたしは自分のママに連絡した。強く握りしめたスマートフォンは冷たかった。

「……何の話、してたの?」

 マユが大きな目でこちらを見上げてくる。あたしは一度頷くと、マユの白くて細い手を取った。

「うちで遊ぼう! 最近買ったゲームがあるんだ、一緒に遊ばない?」

「で、でも、ママがなんて言うか……」

「そしたら、あたしも謝るし、ママも謝ってくれるって! だから、たまには『普通の子』っぽいこと、しよ?」

 マユは最初こそあちらこちらへと目線を動かして困惑していたが、あたしがぎゅっと手を握りしめると、その震えは収まっていった。その代わり、大きくて真ん丸な目からぽろりぽろりと涙が落ちてきた。

「……わたしね……しんどかったんだ……」

「そうだよね。いつでもおいで、うちに」

 あたしはマユの背中を撫でて、泣き止むまで待っていた。あたしが親に対して泣きつくのが当たり前だけど、マユはママの前で泣けないのだ。

 散々泣いているうちに、マユの可愛い目は腫れぼったくなってしまった。それもまた可愛いのであたしが笑うと、マユはムッとした顔になってしまった。

 二人で手を繋いで、黛家に向かう。最初はどんよりしていたマユの足取りも、家に近づくにつれてふわふわと軽くなっていった。

 蹴っ飛ばした水たまりに、虹が映っていた。

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