ヨダツヤ様

 ステンドグラスが彩り豊かに、暗い顔をした人々を照らしていた。くたくたの本を膝に乗せた人々は、皆手を合わせ、延々と、滔々と、何かを呟いている。脂汗をかいて、念仏のように、呪いのように。懸命に、必死に。

 大きなシャンデリアの照らす下、赤いカーペットが続いている。その向こう、教壇の上で、黒い服を着た美女が微笑をたたえている。ベールから金の髪が豊満な胸元まで垂れている。まるで人形のように整った顔つきは、信者たちの衆目を集める。海色の瞳は、優しく信者たちを眺めていた。

 隣で私の母が、金のロザリオを握り、何度も何度も上下させて、ヨダツヤ様、ヨダツヤ様、と繰り返している。ああああぁ、と人々の声が大きくなる。ヨダツヤ様、ヨダツヤ様!

 信者たちは一丸となって、大きな十字架に歓声を上げた。一人は皆、皆は一人。黒い羊となった人々の中で、黒い毛皮を被った私は、錆びた十字架を握ったまま、大きく息を吐いた。

 くだらない。

 眉目秀麗の聖女に、ベールの下で、中指を立てた。



 私の父は、このシスターを連れてきた。

 この言い方には語弊がある。あんな呑んだくれのクソ親父に、女を連れてくることはできないに決まってる。

 あの下劣な男が、私の母を狂わせた。酒に任せ、日頃の鬱憤を晴らすように彼女を殴って、蹴って、謝らせて。彼奴に逆らえば、私の顔に痣が出来るから、私は黙って頭を下げた。何度も、何度も、祈るように。

 私が中学生に上がる頃、ようやく母は、あの男から逃げ出すことができた。友人のいない彼女が、自らの置かれた状況を異常と気がつくきっかけを得られるはずも無い。惰性のように暴力を受けては、依存して、醜く悍ましく頭を下げることしかできない母が、どうして別れを言い出せたのか。

 思えば、あのときから母は、このクソみたいな宗教にハマりかけてたのかもしれない。

 ある日、私の家に、とても美しいスーツ姿の女性がやってきて、離婚届を書かせた。自らの手で書くのよ、と母に優しく語りかけた。ぼさぼさの髪をした母とはかけ離れて、さらさらの髪に、真っ白な肌。ダスティーピンクの唇。私は彼女を見たとき、あぁ、満たされた人なのだな、と思った。

 羨ましかった。私もあんな人みたいに、綺麗になりたかった。

 生まれた頃から、母譲りのアトピー持ち。醜く湿疹の出来た肌を、人々は指差して嘲笑う。教室の机にはゴミが乗せられて、ばい菌扱いをされてきた。それが、私にとっての当たり前だった。

 綺麗な人しか、生きていく資格なんて無い。私には、生きていく資格なんて無い。

 離婚届は提出された。私は片親になった。母は夜は外出して、男と寝るようになった。父がいなくなっただけでは、地獄のような日々は終わってくれない。


「気持ち悪いんだよ!」


 私はそう言って、よれよれになった母を殴った。母は年甲斐も無く、わんわんと声を上げて泣いた。ムカついた。こんな惨めな母を持った自分が苦しくって仕方無かった。

 離婚してから一年、母は、あの女の人のように美しくなっていた。



「ナツキ。集会に行くよ」


 毎週日曜日になると、私の母はそう言って私を車に押しこんだ。そのときの母は、私に殴られていたときのように弱々しくなんてなかった。そうして連れていかれたところが、教会だった。

 教会には、たくさんの女の人が並んでいた。どの人も綺麗で、美しくて、いくら髪を整え、肌荒れの無くなった母だとしても、酷く浮いて見えた。

 キャンドルの橙色の光が、赤いベルベットの椅子を照らす。ステンドグラスの鮮やかな光が、女性たちを妖艶に照らしていた。木の扉を閉めると、顔を覆うようにして、ラベンダーの香りが包み込む。

 私たちは教会の隅で、貧しく身を縮こめていた。黒い服を纏った人々が椅子に並んで座っていくと、ギィ、と音を立てて重い扉が開いて、細く背の高い女が歩いてきた。裾を引きずって、胸の前で両手を組んで、高い天井を仰ぎ見る。金の髪が垂れると、白く整った横顔が顕になった。

 私はしばし、彼女に見惚れていた。明らかに外国人といった見た目をした聖女は、一度頭を下げると、片言の日本語で話しはじめた。


「では、これから礼拝を執り行います」


 あぁ、私は変な場所に連れてこられたのだな、と思ったのは、彼女のその一言を聞いたときだった。

 部屋が蝋燭の炎でわずかに熱くなる。母の額には、一筋の汗が流れていた。


「救世主様は、皆様を決して見放しません。苦しみを奪い、喜びを与えてくださいます。『ヨダツヤ様』と敬意を込めてお呼びすれば、きっと彼は皆様にその機会をお与えになることでしょう。

皆様、奪ってほしい苦痛を、与えてほしい幸福を、高らかに告げるのです」


 そう言った刹那、信者たちは手元のロザリオを握り、一斉に声を上げた。ヨダツヤ様。ヨダツヤ様。私が聞き取れたのはそれくらいだ。

 隣の母も、苦悶の表情を浮かべ、低い声で何かを唱えている。耳を塞ぐことでさえ、私は怖くなって、強く目を瞑っていた。そうして、この奇妙な礼拝が終わることをひたすらに祈っていた。

 そう、私は、この礼拝を奪ってくれるよう、祈っていたのだろう。

 波が引いてくるように、次第に声は静かになっていく。目を開くと、教壇に乗った女性が愛くるしく笑い、黒いハイヒールを鳴らして、カーペットの上を歩いてきた。金の髪が揺れる度、星が弾けているようだ。すると、私の母の前で止まり、母に微笑みかけた。

 母の顔が明るくなる。母は、シスター・ブルー、と彼女を呼んだ。シスター・ブルーは、母の湿疹まみれの手を包みこみ、眉を下げて語りかける。


「新たな信者を、私たちは歓迎致します」


 シスター・ブルーの言葉に合わせ、信者たちは皆、歓喜にうち震え、手を打った。拍手に包まれた母の耳が赤くなっていく。


「貴女の奪ってほしい不幸を、述べてください」

「わ、私、私は……独り身の苦しさを、奪っていただきたい……私の孤独を、奪ってください!」

「えぇ、きっと神は聞き入れることでしょう。皆様、願いを斉唱しましょう」


 孤独を奪ってください、ヨダツヤ様。孤独を奪ってください、ヨダツヤ様。母も、その隣の女性も、その前の女性も、扉の前に座る女性も、全員が母にならって願いを口にする。

 私はそんな光景を、戦慄して聞いていることしかできなかった。喉まで這ってきた冷たさに、胃の中を戻しそうになる。体の奥底から震えているのに、体は熱い。人々の熱気が、外から私を熱している。

 怖い。怖い。怖い……私はきっと、恐怖を奪ってくれるよう、神様に祈っていたのだ。

 祈ることしかできなかった、小さな羊たる私。母に声をかけられ、手を引かれるまで、私はロザリオを握ったまま、その場から動けなかった。



 それからしばらくして、母が男を連れてきた。夜に出かけるならまだしも、家に連れこむなんて──そう思って怒ったのに、母はにこにこしたままだ。デパコスで顔を整えて、ブランド服で体を飾って。清潔そうな男は、爽やかに私の名を呼んだ。


「この人と結婚しようと思うの」


 耳を疑った。シングルマザーの汚名を被せた挙げ句、再婚するなんて。此奴だけ幸せになるなんて。


「嗚呼、きっとヨダツヤ様のおかげ。私の孤独を奪ってくれたの!」


 浮かれて明るい声で言う母が、妬ましくて妬ましくて、私は歯を噛みしめて立ち尽くしていた。

 何がヨダツヤ様だよ。何が救世主様だよ! あの金髪の女が、歯の浮くような台詞を語っているだけじゃないか。どうせ此奴だって騙されてるんだ!

 私は家を飛び出して、独り彷徨った。友達はいない。祖父母は信用できない。夜の街はあまりに孤独だった。遠くから聞こえてくる、バイクを蒸す音。酔っ払いの怒号。怪しく光る車のライト。足元から這い寄る、アルコールと冷気。雲に隠れた三日月──

 ジオラマの世界で、私は独りだった。大きく見える建物が、次第に怖くなっていた。

 歩き疲れて、私はある建物で足を止めた。あの教会だ。白い電気が点いていて、煉瓦の壁が黒く聳え立っている。静謐なその様は、集会のときのような狂気的な様とは大きく違って、冷ややかで理性的だ。仰ぎ見る私は、教会に威圧されて立ち尽くしているようだった。

 そんな私に、声をかける人がいた。月に照らされて、ゴールドがゆらりと光る。瞳孔が広がるように、目を見開いた。


「あら? 貴女は、タカヒラ様の……」

「シスター・ブルー……?」


 タカヒラ、と私を呼んだのは、あのシスターだった。時間外なのに、彼女はシスター服を着ている。膝をついて、低い私を見上げた。

 じっとコバルトブルーの瞳で見つめてくると、私は目を逸らせなくなる。奥の藍色の瞳孔が、私を捕らえて逃さない。こんばんは、と小さな声で言えば、彼女は目を細め、こんばんは、と片言で返した。


「どうかしたの?」

「……あんたのせいで、行き場が無くなった」

「私のせい、かしら……? 中に入りましょう、お話を聞かせて?」


 断りたかったが、この寒々しい夜空の下で話し続けるほど、私の神経は図太くなかった。シスター・ブルーに導かれるまま、私も教会の中に入る。

 教会の中は、キャンドルが灯っているおかげで仄かに温かい。奥の部屋に私を案内すると、私を椅子に座らせて、シスター・ブルーはホットミルクを淹れてくれた。白い煉瓦の壁を眺めて、私はぽかんと口を開けて待っている。木の机に引かれた、紫色の民族調のテーブルクロスの模様をなぞって、借りてきた猫のように静かにしている。

 緊張している私に、向かい側に座り、シスター・ブルーは柔らかく微笑んだ。


「迷える子羊を独りにしないのも、私のお仕事なの。貴女が悩んでいることを、私に教えてちょうだい?」

「……あんたのせいだ。あんたが変なこと吹きこむから、お母さんは男なんて連れこんできた。洋服とか、コスメとか買い漁った」

「タカヒラ様は、ヨダツヤ様に『醜い自分自身』を奪っていただくよう願ったの。きっと、ヨダツヤ様が彼女の苦しみを奪ってくれたのよ」

「ヨダツヤ様、ヨダツヤ様って! 神様なんていないッ! 神様がいたら、こんなに私を不幸にしない! 嘘に決まってる!」


 マグカップを置いて、私は俯いた。顔が熱くなって、シスターの顔を正視なんてできなかった。彼女の顔を見ていると、私には何も無いような気がして、虚しくなってしまうから。

 シスター・ブルーはしばらく黙っていた。しかし、私が何も言わないでいると、ナツキさん、と私の名前を呼んだ。いったい、どこで私の名前を知ったのだろう。


「一度、一度だけで良いの。貴女の苦しみを、救世主様に奪ってもらいましょう。救世主様は、決して人を選ばない」

「私は信者でもないし、神様なんて信じてないのに⁉︎」

「大丈夫、さぁ、一緒に祈りましょう。貴女が奪ってほしいものは、何ですか?」


 白く細い手が、私の手を包みこむ。湿疹が酷くて、膿が出ていて、汚い手を。私が手を引こうとしても、彼女は優しく手を握っていてくれた。温かくて、柔らかくて、優しくて──

 どうしてか分からないのだけど、涙が止まらなくなってしまった。こんなに優しく手をとってくれたのは、この人が初めてだ。皆私のことを汚いと罵った。父も、クラスメイトも、ご近所さんも。ふわりと天使の羽が撫でるように、シスター・ブルーに撫でられて、心で堰き止めていた何かが放流していくような気がした。


「シスター・ブルー……? 私を馬鹿にしたクラスメイトを、奪ってくれる?」

「いいえ、私が奪うのではありません。ヨダツヤ様が奪ってくださるのです。さぁ、ヨダツヤ様の名を共にお呼びしましょう」


 ヨダツヤ様、私を馬鹿にしたクラスメイトを、奪ってください。

 シスター・ブルーも、はらはらと涙を零し、私と同じ文言を口にした。私はそれだけで、どこか救われたような気がした。

 泣き疲れてしまった私を、シスター・ブルーは家へと送り届けてくれた。どうして私の家を知っていたんだろう、なんて、考える余裕は私には無かった。ただ、黒い車の中から見える夜景は、思っていたよりもずっと綺麗に見えたような気がした。



 数日後、クラスメイトの一部が謹慎処分になった。というのも、彼らはこっそり万引きをしていたらしい。その噂が知れ渡った頃には、母親たちは子供たちが非難されるのを恐れて、転校の手続きをしていた。

 私はその知らせを、ほくそ笑んで聞いていた。だって、彼らは私を一番に虐めていたグループだったから。毎朝毎朝早く来て、私の机にゴミを並べていく、御丁寧で汚らしい仕事をしていた彼らにはお似合いの始末だった。

 そのことを喜んでシスター・ブルーに話に行ったら、彼女は私の頭を優しく撫でてくれて、ヨダツヤ様に感謝しましょうね、と嬉しそうに話した。


「ヨダツヤ様、ヨダツヤ様。私の醜い容姿を奪ってください」

「ヨダツヤ様、ヨダツヤ様。彼女の醜い容姿を奪ってください」


 日曜の礼拝には、一人で行くようになった。必死で祈っている醜い雌豚たる母の隣にいるのが嫌になってしまったからだ。教会の隅で、周りの綺麗な人たちの真似をしながら、黒いベールの下でぶつぶつと願い事を唱える。

 ヨダツヤ様、ヨダツヤ様。私の頭の悪さを奪ってください。私の人当たりの悪さを奪ってください。そしてどうか、私に幸せを与えてください。

 二年生に上がる頃には、良い皮膚科の先生に出会えて、私の湿疹だらけの肌は、多少マシになった。少ないけれど、共通の趣味を持つ友達も出来た。ヨダツヤ様のおかげ、なんて彼女には言えないけれど、私はそう思うようになっていった。

 シスター・ブルーは、私の報告をいつも心から喜んでくれる。新しい男にかまけて話も聞いてくれない母の代わりに、私は彼女を母のように慕っていた。そうしていくうちに、教団の人たちとも仲良くなった。


「ナツキちゃん、メイク上手だよねー」

「え、そうかな。この肌だから、気にしてて……」

「ううん、全然目立ってないよ。凄いね!」


 友達にそう言われる度に、私は誇らしくなる。

 教団の人が、私にメイクの仕方を教えてくれた。黒い服に身を包んだあの人たちも、元々は自分の容姿に自身が無かったらしい。だからこそ、私のような若い信者を可愛がってくれた。


「ヨダツヤ様は、私たちに美しさを与えてくださいます」

「シスター・ブルーのように、永遠の美を手に入れたいものです」


 綺麗な人たちに囲まれて、私は美しさを手に入れた。美しくなければ、生きていく資格なんて無い。だとすれば、ヨダツヤ様は私に、生きる資格を与えてくれたのだ。

 毎週礼拝を欠かさない私に対し、母はサボり気味だった。夜遅くまで新しい夫と出かけて、土曜の夜は寝ないでホテルに泊まって。穢らわしくって、惨めったらしくって、隣に起きたくない醜いアヒル。

 それでも、私にヨダツヤ様を教えてくれた人でもあったし、結局は私には母しかいないし、見捨てることはできなかった。これがきっと、父を見捨てられなかった母の気持ちなのだろう。



 ヨダツヤ様に祈りを捧げて、賢さを手に入れて。その分頑張って勉強して。私は気がつけば、クラス一位にまで登りつめていた。

 素点表を持って、軽い足取りで家に向かう。家に着くまでの世界はいつもより彩度が高く見えた。花は鮮やかに咲き乱れているし、黄昏の空は甘い蜂蜜のよう。涼やかな風が、葉っぱを揺らして、青々と光らせる。世界はこんなに美しかったのだ、と思い知らされる。

 ただいま、と言っても、返事は来ない。代わりに、ギシギシ、と何かが軋むような音がした。ドアノブを握った手から、痺れるような寒気が込み上げてくる。ドアの向こう、黄色い光が漏れていて、軋む音に、紛れるような喘ぎ声。鼻を突くような甘い臭い。私は扉を開けないまま、お母さん、と呼びかけた──震えて弱い、か細い声だった。


「もう、ナツキが帰ってきたじゃない」


 たぶん、母はそう言った。

 手提げ袋が、自分勝手に地面に落ちた。ファイルに挟んであった素点票が折れてしまう。私は唇を強く横に引いて、拳を強く握りしめた。綺麗に伸ばした爪が食いこんで、痛くて、じわりと涙が滲んだ。

 私はそのまま、踵を返して、玄関扉を開けた。鍵も締めないで、財布とスマートフォンと鍵だけ持って、日が沈んでしまった街を無我夢中で走った。聞こえてきた気持ち悪くねっとりとした声を、今すぐにでも払い除けたかった。

 さっき通ってきた道は、夜になってすっかり彩度が落ちて、さきほど見たようには魅力的ではなかった。暗くて、つまらなくて、怖い。遠くでカラスが喧しく鳴いている。車が飛び出してきて、私の目の前で煩いくらいのクラクションとライトを浴びせた。

 汚い。醜い。鬱陶しい。

 重苦しい鉛色の世界から逃げるようにして、辿り着いたのは、煉瓦の教会。白い光が、私を手招いている。重たい木の扉を開いて、足を踏み入れた。

 教壇の上で、聖女が祈りを捧げている。キャンドルに照らされた部屋は暗く、されど温かい。黒に差した、炎の橙色。ステンドグラスが私を照らして、カラフルに染めあげる。レッドカーペットを踏みしめて、私は聖女に近寄った。


「ねぇ、シスター・ブルー」

「あら、その声は。どうかしたの?」


 振り向いた金髪の女性は、長いまつ毛を瞬かせ、艶美に微笑む。彼女の微笑みは、サファイアの色。首を傾げて、静かに笑う。

 私は、ばっ、と顔を上げ、彼女の美麗な顔をしっかりと見つめた。そして、力を込めて、こう言い放った。


「お願い。私から、お母さんを奪って」


 シスター・ブルーは、眉をハの字にすると、膝をつき、私の体を緩く抱きしめた。もう中学生にもなったから、抱きしめられることなんて無かった。彼女の首筋から、甘いバニラの香りがして、酩酊してしまいそうだった。


「大変だったね。辛かったね。私も一緒に祈りましょう」


 私はこくんと頷くと、いつものように、祈りの言葉を口にした。

 ヨダツヤ様、ヨダツヤ様。我らの苦しみを奪い、我らの喜びを与える、ヨダツヤ様。我らの救世主様。どうか我らの願いを聞き届けたまえ。我らが願うは──



 タカヒラナツキが私のもとに駆け込んできてから、数週間後。彼女の母・タカヒラアカネが、覚醒剤を所持していた疑いで逮捕された。どうやら、彼女の付き合っていた彼氏が持ってきていたらしい。

 祖父母に引き取られることを拒んだタカヒラナツキは、結局施設に送られることとなった。この教会からさほど遠くなく、将来はこの教団の経営する寮に寝泊まりすることを望んでいるらしい。


「お姉さん、ここはキリスト教の教会なの?」

「そうだよ、でも、ここでは『ヨダツヤ様』と呼んでいるの。せっかく来てくれたあなたたちに、栞をプレゼントするね」

「わぁ! ステンドグラスだ!」


 黒い服に身を包んだ彼女は、一般公開された教会にやってきた子供たちと遊ぶ役目を果たしている。栞には教義が書いてあるけれど、子供は物語の一種か何かと捉えて真面目には取り合わないだろう。それでも、若き芽に水をやるのがこの教団であれば、きっといつかはこの教団らしく美しく花開いてくれるのだろう。

 シスター・ブルー、と私のことを呼ぶ彼女の顔は、確かに初めて来たときよりはるかに美しくなっていた。我々のスポンサーとなっている化粧品会社のコスメを使って、我々のスポンサーとなっているブランドの服に身を包んで、他の信者に早変わり。

 若く熱狂的な信者は、いつの時代も必要とされてきた。無神論者が蔓延る現代社会において、その熱こそが宗教という炎を消さないでいてくれる。


「シスター・ブルー、何かお手伝いできることはある?」

「そうね、庭の水やりを頼めるかしら。私は少し、お出かけに行ってくるわね」


 タカヒラナツキに手を振って、私は裏口から教会を出る。今日は、ヨダツヤ様との交渉があるのだ。

 予定時刻よりも早く向かったのに、スーツ姿の少年は笑みを絶やさないで待っていた。どれだけ早く向かっても、彼は決して私よりあとに来たことが無い。思わず苦笑しつつ、ティーテーブルに彼を座らせた。


「お待ちしておりました、ブルー・ウィリアムさん」

「いつも貴方の方が早いのね」


 髪を綺麗にセットした彼は、顔さえ見なければ営業マンのようだ。しかし、その顔は酷い童顔といって差し支えない。ポケットからシガレットを出すと、ライターで火を点け、口元へと運んだ。


「日頃から多くの『与奪』に感謝しております」

「そうね、タカヒラナツキの件も早く対応してくれて助かったわ。まさかヤク漬けの事実を作り出すなんてね」

「我々は、ブルー・ウィリアムさんのオーダーどおり、タカヒラアカネさんに『表の世界で生きていけないほどの不幸』を与えただけですから」

「タカヒラナツキには『親との不和』なんて生易しいものを与えておきながら、大人相手には手厳しいのね」

「貴方がオーダーしたとおり、タカヒラナツキさんに『ありったけの幸運』と『信頼できるものの崩壊』を与えただけです」


 機械的な返答に、私は呆れて溜め息を吐く。まったく、この「与奪屋」という輩は、不幸という病の患者につけこんで、勝手に人生を操るなど、外道にも程がある。

 されど、私は永遠に「不幸」だから仕方無いのだ。


「ところで、次の与奪はいかが致しましょうか?」

「そうねー、まだ前の神父が残した借金の返済には時間がかかりそうだから、また信者をいただこうかしら。まったく、あのクソ男は、自分もヤク漬けになるなんて」

「『麻薬の商売相手を与えてほしい』という願いで宜しいですか?」

「えぇ、それで」

「承知致しました。日頃からの御愛好、ありがとうございます」


 そう言うと、謎に満ちた少年は、真昼の月に溶けるようにしてすっと消えてしまった。

 神様なんていない。神様がいたとしたら、こんなクソみたいに重い借金なんて抱えないし、宗教は栄えるし、麻薬なんて売る必要も無い。でも、私たちには与奪屋様がいる。

 嗚呼、麗しの与奪屋様。私たちから苦痛を奪い、幸福を与えてくださいな。

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