無題

 凄く綺麗だよ、と話しかけた。

 凄く、という形容詞は、本来悪いものに使う。それでも、ロマンチックの欠片も無い僕には、その言葉しか思いつかなかったのだ。

 そう、と言った彼女は、伸び始めた自身の黒髪に指をかけた。風になびく烏羽玉の黒。黄色の大きな満月にくっきりと浮かび上がる、お世辞にも端正とは言えない平凡な横顔。

 夜空は冷えて震え上がり、白色に瞬く。空に白い吐息が昇っていく。


「それ、変じゃない?」

「それ?」

「だって、君の方が綺麗だよ」


 彼女は僕の方を向かない。前に広がる、音の無いイルミネーションを見つめている。


「君は、私の憧れ」


 彼女の薄い唇が、赤いマフラーに隠れた。

 僕は何も言わない。何も言えない。代わりにコンクリートを叩く足音が会話を続ける。躓いてズレる僕の足音と、静かに一定のリズムを刻み続ける彼女の足音。

 彼女は僕の憧れだ。

 僕を見ずに、青と紫の安っぽいイルミネーションを見つめる明るい茶の瞳。透明で、煌めいて、瞬いて、空に上る星よりも美しい。

 彼女は確かに僕の憧れだ。いつだって僕は彼女と帰るこの時間を大切にしていた。


「どうして?」

「どうしてかな」


 告白みたい、と彼女は笑った。赤いマフラーの隙間から、ふつふつと白い息が漏れる。また黙ってしまった僕は、冬の痛い空気を吸って、ふう、と息を吐いた。今度は呼吸が会話を続けている。


「おかしいね」

「おかしくないよ」

「だって、私達、」


 彼女は一歩大きく前に出た。赤いマフラーがふわりと空に舞う。目がきゅっと細められて、きっと僕以外では分からない、くしゃくしゃで可愛らしい笑顔へ。


「同じだもん」

「同じ?」

「うん、おんなじ」


 つまりさ、と言って、彼女は斜め上を向いた。次は、月が彼女の茶色い瞳に映り込む。


「私は君が大好きで、君は私が大好きなんだ」

「ううん、違うよ」

「どこが?」

「僕の好きと、貴女の好きは違う」


 瞳をまあるくしてこちらの遠くを見つめる彼女は、歳に左右されないあどけなさを持っている。夜の冷たい空気を切り裂く音を上げて、車が隣を通っても、彼女は白い息を規則的に吐いて僕を見つめている。

 彼女はまだ幼いから、穢れないから、きっと本当の気持ちを理解できやしない。

 憧れというのは、同一視から成る支配欲と、嫉妬に近しい羨みから出来ている。


「そっか」

「そうなんだよ」

「私の見ている君と、君の見ている君は違うからね」

「え、うん、そうだね」


 言葉を詰まらせる僕と、目を細めないでにっこりと笑う彼女。

 まんまるな瞳は、まるで猫みたいだ。やはり、彼女には夜が最も似合う。


「じゃあ、君も私のことが好きでも、それは本当の私じゃないんだね」

「哲学めいてるね」

「おあいこだね」

「そうだね」


 彼女は後ろに手を回して、再び先を歩き始めた。耳元の羽を模したイヤリングを揺らして、マイペースに歩き始める。

 僕はそんな後ろを追いながら、ふと、道端の花に目を向けた。紫のコスモス。その先に広がる、色の失せた雑草。地平線を通って、大きな夜空が口を開ける。

 数年前、彼女に惹かれたときから変わらない。彼女は昔から、この静かな道を通るのが好きだった。雪が降れば、世界の全ての音を呑み込んでくれる。

 ねぇ、と彼女は僕を呼んだ。今度は、彼女の目には闇が映っている。


「本当の私を好きになるのって、怖い?」

「怖いよ」

「私も怖い」

「そっか」

「だから、好きにならないでいようか」


 彼女は振り向かない。結局、彼女の瞳に僕は映らない。

 だからこそ。だからこそ、そんな彼女は僕の憧れであり続ける。僕達はお揃いのスカートを揺らしてこの道を歩く。冬になれば、彼女は僕があげたマフラーを付けて、また僕と並んで帰る。僕は、彼女がくれたお揃いのピアスを揺らして歩く。


「私達は、永遠にお互いに憧れるんだよ」


 だから、互いの瞳に互いは決して映らないのだ。これまでも、これからも。

 肺に凍てついた空気が染み渡る。一息ついて、彼女は、道端のコスモスに目線を落とすと、凄く綺麗ね、と言った。

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