猛虎は月に吠える

「よくできました」


 受け取った答案用紙には、いつものように九の字が十の位にあった。ケアレスミスに付いたペケ印を恨むように見つめた後、先生に対して少し嬉しそうな笑みを作った。

 席に戻れば、クラスメイトが身を乗り出して私の答案用紙を覗こうとする。何点だった、どうせ満点でしょ、と口々に言及する皆の前では、少し惜しそうな顔を作る。


「ヤバいわ、全然取れてない」


──えー、嘘だー!


 そんな声が上がっても、動じずに着席する。答案用紙を得点を隠すように折って、祈って、順位発表を待った。九十点台が出るのは、私以外では珍しいことだ。あまり勉強できていなかったのにこの様は喜ばしいことなのだ。

 若しかしたら一位も目じゃない──そんな期待を、先生の声が引き裂いた。


「今回は満点が出ました」


 クラスメイト達は、まるで獲物を狙う鷹のように鋭い眼光を放ちながら辺りを見回して、挙って一位を探し出した。

 その餌を探すような眼光を持ち得ていなかったのは、何も言わず自分の解答用紙を見つめ続ける私と、もう一人、最前列で眠そうに欠伸をした生徒だけだった。


──え、マジで? ミヅキさんが?

──うわっ、百点だし!


 誰か一人が囁くと、その騒々しい発見は感染していき、ざわざわと教室を包んでいった。欠伸をしていた張本人は、慌てて解答用紙を伏せ、薄く笑って頷いた。


「二位も九十点台なので、最下位とは大きく開いた結果になりました──」


 その後の言葉は、最早聞こえなかった。

 自分が一番得意とする教科で、一位を取れなかったことで頭がいっぱいだったのだ。今学年最初のテストからはずっと全ての教科で一位を取れていたというのに、遂に越されてしまった。握り締めた答案用紙に小さなシワが付く。

 これが初めてではなかった。他のテストでも、安定して八割から九割の得点を維持しても、全てミヅキに越されてしまう。ミヅキはその度に興味が無さそうに眠そうにしていて、自分が一位と知るとガッツポーズをしてみたり、楽しそうに微笑んでみたりはするが、他人に自慢をする様は見受けられなかった。


──今んところパーフェクトじゃね?

──ヒナタみたーい!


 好奇心とひそひそ話で飽和した空間を拒むように耳を塞いで、私は口も聞かずに授業が始まるのを待つしか無かった。

 ノートも教科書も完璧に用意して、先生が話し出すのを待っているのに、何故だかいつもより授業開始の合図が長く感じられた。



「ヒナタ、ノート見せてー」

「また取ってなかったの?」

「あ、あたしもあたしも! 寝てたんだよねぇ」

「もー、いいよ。次は総合だもんね」


 今日は暑いな、と思いながら、上着を脱いだ。

 私のノートは欠けること無く作ってある。後で誰が見返しても分かりやすいように、字も丁寧に、でも質素になり過ぎないように書き込むから、いつもノート点は満点だ。それをいいことに、居眠りが趣味なのかと思う程に、毎時間毎時間クラスメイトはノートを見に来る。

 廊下へ歩く途中で、ふとミヅキのノートに目が留まった。ミヅキのノートには可愛いキャラクターの絵と、金釘流の字が並んでいる。私のノートとは大違いだ。


「ど、どうしたの?」


 ずっとノートを見ていて気が付かなかったが、昼寝していた筈のミヅキが此方を見ていた。眉を下げて困惑を前面に出した顔を見て、私は慌てて顔を作り直す。


「ミヅキさんのノートって、可愛いなって」

「えへへ、恥ずかしいなぁ」


 頬を掻いて照れるミヅキに対して、私はいたって冷静だ。顔を覗き込むようにして身を屈めて、にっこりと笑ってみせる。ミヅキはそれ以上何も言わずに、眼鏡を外してまたすやすやと昼寝に戻ってしまった。

 手を引かれて廊下に出ると、クラスメイトはクスクスと卑下た笑い声を出して、私を囃し立てる。


「ヒナタが言うと皮肉っぽーい」

「え、そう?」

「だってさ、ヒナタに比べるとミヅキさん字ぃ汚いし、ノートの作りもやっぱヒナタが一番って感じだよねぇ」

「ありがとー」


 私は物事を完璧にこなすのが好きだ。その上、人を導くのも得意だ。だから大多数の推薦で生徒会にも入ったし、吹奏楽部でも部長候補に挙がっている。ノート然り、成績然り、私は常に人前に立てるように努力してきた。


「そういえばさ、合唱祭の学年合唱のピアノのオーディションに出るんでしょ?」

「うん、運が良ければ受かる可能性もあるかもしれないし」

「大丈夫だよー、だってヒナタちっちゃい頃からピアノやってるんでしょ?」

「そうだね、もう十四年? かな? ヤバいわ」

「マジで⁉︎ だから上手いんだ!」


 それは、私が最も愛するピアノの演奏においてもいえることだ。十数年も続けられるのには、親から強いられているということもあるけど、私がピアノが大好きだということに理由がある。

 演奏には自信がある。コンクールは全国大会まで行ったことがあるし、音楽教室でもトップの成績だ。だから、その実力を遺憾無く発揮できさえすれば受かると思っている。でも、本当はそこが難しいのだ。

 それを難しいことにしない為に、私は人前に立つ努力をしてきたのだ。


「うちのクラスからはヒナタだけだっけ?」

「いや、ミヅキさんも出る筈だよ」


 え、と情けない声が出た。一瞬だけ窓の外からの太陽がギラついたように思えた。えー、知らなかったのー、と間の抜けた返事に、知らなかったー、と答えるのが精一杯だった。

 またあの子の名前だ。最近になって、よく名前を聞くようになった。

 クラスメイトはミヅキのことを空気のように扱っていて、嫌うでもなく好くでもなく、率直な意見として、「よく分からない子」と言っていた。

 私にとってもそれは同じで、クラスでもあまり喋らない方の子だから、「成績がいい方の子」と勝手に思っていた。

 暑いくらいの日差しを、まるで心地良いと言うかのようにすやすやと寝息を立てるミヅキを見ながら、舌打ちをしたい欲に駆られた。


「でもヒナタが選ばれると思うよ!」

「そうかな? 皆、上手だからなぁ……でも頑張るよ!」


数人の、ヒナタは謙虚だなー、という声を聞きながら、チャイムが鳴る前に水分補給をしておこうと思った。そうでもないと、私はミヅキのようにこの暑い日差しを穏やかな気持ちで受け入れられないだろうと、受け入れねばならないと思ったからだ。



 吹奏楽部は、練習前はグランドピアノが空いている。部長権限で真っ先に音楽室の鍵を開けて、まだ新しいグランドピアノに向かい合い、私は課題曲の練習をしようと思った。

 他の吹奏楽部員もピアノのオーディションに出たいと思っている人がいるらしいが、先手必勝、練習できるところではしておかねばならない。最近はテスト勉強で練習を疎かにしていたから、少しでも取り返さねばならないのだ。

 大きく深呼吸をして、硬い椅子に座る。決まった高さにして、演奏の空間を作り出す。一度白鍵に指を置けば、もう止まることはできない。あくまで学年合唱の伴奏であるから、自分の個性を殺して、敢えて単純な音で、肩の力を抜いて。一度もテンポを狂わせないように、音を間違えないように。合唱の強弱を導くように──

 最後に音が収束するまで集中は途切れさせず、手を膝に置いてやっと空間は閉じる。そして、大きく一息。これが私のルーティンだ。

 どの音を間違えたか、どの音が早くなったかを確かめようと楽譜を手に取る。余韻に浸っていると、摺るような足音が聞こえて、弾かれるように振り向いた。

 其処には、ミヅキが立っていた。私と目が合って、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして目を逸らす。後退りするように音楽室から出ようとするミヅキを呼び止めると、ミヅキは謝りながら私に話しかけてきた。


「ご、ごめんね、ヒナタちゃん。伴奏があんまりにも上手だったから、誰が弾いてるのか気になっちゃって」

「そっか、ありがとう! あれ、帰るんじゃないの?」

「私、演劇部だから……」


 活動数が少ない演劇部の部室は吹奏楽部の隣、第二音楽室だ。イベント毎に第二音楽室を使うから、決まり切った伝統として、演劇部はいつも吹奏楽部に頭を下げに来る。其処にミヅキはいただろうか、と思い出そうとして、ミヅキが再び口を開いた。


「あのね、ヒナタちゃんの音って、まるで美術品みたいだなって思ったんだ」


 美術品。音楽は確かに芸術であるけれど、音を美術品と形容するのか──何だか面白くて、思わず笑い出した。ミヅキはまた顔を真っ赤にして、ごめんね、と申し訳無さそうに目を逸らす。

 そのまま理由を尋ねると、ミヅキは少し遠慮しがちに言葉を続けた。


「何というか、とっても清廉な、そうだなぁ、彫像というか、ガラスの結晶というか……」

「あはは、買い被り過ぎだよー」

「そ、それでもね、伴奏だとしてもね、音の根幹のイメージは変わらないの。とても綺麗な、美術品なんだ……だから、私も頑張らなきゃ、って」


 照れ臭そうに最後に呟いた言葉で、ミヅキが自分のライバルであることを思い出した。けれど、ミヅキ自身は全くそんなことを気にしないように尊敬心を丸出しにして私に話しかけて来る。面白いのに、だんだんと苛立ちが募ってきて、あははは、と笑い声を出すので精一杯だった。

 集中力の膜を突き破られて、私は床のタイルを見つめる。話の準備のための沈黙が訪れ、大して寒くもないのに、突然肌寒さで手を摩った。ミヅキが興奮したように口を開くと、少しうんざりするような心地になる。


「ひ、ヒナタちゃんって、勉強もできるし、リーダーシップもあるし、その、運動もできるし! 本当に凄いよね!」

「褒め過ぎだよ」

「ピアノはいつからやってるの? どうしたらこんなに上手になれるの?」


 ミヅキの質問に、私は気持ちが裏返った。


「私はね、十四年やってるよ」

「ホント⁉︎ 長いんだね!」

「親がやれって言ったからねぇ。でも、もうすっかりピアノの虜でね、全国大会にも行ったんだよ」

「凄い……! わ、私は小学校に入ってから始めたんだ、それで、私も何回かコンクールに出たことがあって……」


 そこで、ごめんね、喋り過ぎちゃった、と恥ずかしそうに下を向いて、ミヅキは私に頭を下げた。私は、そんなこと無いよ、と言いながら愛想笑いを浮かべる。

 勝負に勝ったような気がした。ピアノはキャリアがモノを言う。ここ最近は負け続きで、むしゃくしゃした気持ちだったから、今は愛想笑いも作りやすかった。

 それで終われば良かったのに、ミヅキは最後にもう一撃を加える。


「今はどれくらい練習してるの?」


 痛いところを突かれた。あまり練習してないなんて、恥ずかしくて言えない。


「テスト勉強があったからあんまりできてないけど、毎日三時間はやってるよ」

「さ、流石だね!」

「じゃあさ、ミヅキさんは?」

「えへ、それがその……私、ピアノが趣味だから、昔から塾に行ってる時以外はだいたいグランドピアノの前にいるんだ。それで思いついた曲を弾いて、練習する曲を弾いて……でもね、質のいい練習はできてないかなぁ」


 そんなの、普通じゃない。

 笑い飛ばそうかと思ったのに、喉から搾り出せたのは、か細くて乾いた苦笑いだった。

 ミヅキは目を三日月の形にして、照れ臭そうに笑っていた。

 何も言えずに立っていると、後ろから先輩達が入ってきた。それを見て、慌ててミヅキも部屋を出て行く。何事も無かったように元気に挨拶してみせたけれど、私は相変わらず声を出しにくかった。

 先輩達は私が楽譜をピアノに並べているのを見て、流石、ヒナタちゃんだね、と口々に私のことを褒める。

 今の私にはそれら全てが全く意味を成さず、ただただ右から入って左に出行った。



 最初はクラスメイトも、偶然だよ、とミヅキの成績優秀な様を見て言っていたけれど、今回の校内模試でその評価は一転した。

 圧巻の、全教科一位。しかも、満点も数教科ある。私の手にあるのは、二位や三位、挙げ句の果てに五位なんていう数字だ。

 ミヅキは一度だけ一人でガッツポーズをすると、その後は先生の解説がつまらないのか、頬杖をついて大きく欠伸をしていた。

 返却の後、ミヅキの机にはクラスメイトが押しかけた。それでも、ミヅキは驚いたように目を見開いているだけで、勝ち誇ったような顔はしない。クラスメイトは、まるで有名人へのインタビュアーのように、次々に質問をぶつけた。


──もしかして満点あるの?

──全教科一位って本当?

──いつもどれくらい勉強してるの?


 ミヅキはそれらに、寝言であるかのようにぼんやりと答えた。


「こ、校内模試だからって張り切って勉強したよ。ピアノを我慢して、一週間は帰ってからずっと塾で……」


──え、ミヅキさんピアノやってたの?

──知らないの? ミヅキさんはオーディションにも出るんだよ!

──うわ、ミヅキさんって何でもできるじゃん!


「そんなことないよぉ、手先は不器用だし、運動できないし……」


 誰かがミヅキに対して賞賛すると、その他の人も友達だからといってオウム返しをする。そのざわめきは休み時間が終わるまで続いていた。


──あ、ヒナタはどうだったの?


 あまりにも茫然自失としていて、誰に言葉を返したかも覚えていない。


「ぜんっぜん、取れなかったよ」


──やだー、一桁なんて凄いじゃん!


 周りの音がまるでドームの中で反響しているように曖昧になって、私は自分の答案用紙を見つめているだけだった。八十点台が並んでいた。

 何も考えられなかった私の頭に、一つ、「許せない」という言葉だけが浮かんで、霧散した。



 私の家庭は、英才教育こそ施していないものの、常に一番を求め、教養を求めた。幼い頃から嫌がる私をピアノの教室に連れて行ったり、塾に連れて行ったりと、兎にも角にも「人の前に立つ人」を育て上げようとしていた。

 だから、私も中学も、高校も、私立で難関校に挑戦することを強いられた。

 結果は、どちらも惨敗。私よりも、できないできない、と泣きそうになっていた人ばかりが合格していた。

 私は小学校でも、中学校でも、全てにおいて学年で一位を獲る人間なのに、私立高校は私を受け入れなかった。

 そして、今。私は、家族に見下されながら、公立高校に通い、堕落した。


「どういうことなの、校内模試の点数が下がってるじゃない」

「手を抜いたんじゃない?」


 手を抜いた節は、確かにある。ピアノのオーディション練習に追われて、怠けていた自覚はあるが、私は私なりに、その分だけ質を優先して勉強をしたつもりだ。そして、一位を獲れる、という俄かな確信があったのだ。

 そもそも、私の両親だって「自称進学校」と嗤われる高校の出身で、大学も中堅どころで止まり、現在の私より更に下を行く人間だ。それなのに、何故私を嗤うのだろうか。嗤える方がおかしい。私の方が上なのだから。


──あんたはいつもそうやって詰めが甘い!


 グランドピアノに向き合い、母親の言葉を思い出した。言い訳にオーディションを使ってしまったからには、たった一つのその座を奪い取るしか無い。ルーティンをこなして、無音の空間を作ろうとした。

 然し、不思議と、白鍵に指を置いても弾く気にはなれなかった。それでも指を進めれば、縺れ、絡み、崩れ、止まる。集中力が続かない。そればかりか、ピアノの音色よりも、耳鳴りに気が向かって、三度目に止まった時には今までどこを弾いていたのかすら頭から抜け落ちてしまった。

 思い通りに弾けない。この後は生徒会で頼まれた仕事も、学校の宿題も、予習も、復習も待っている。それを思い浮かべるだけで気が重くなって、逸る気持ちを抑えつけ、座ってすぐにグランドピアノを離れてしまった。


──こ、校内模試だからって張り切って勉強したよ。ピアノを我慢して、一週間は帰ってからずっと塾で……


 今、ミヅキはどうしているのだろうか。ピアノの前に座って、やっと触れる喜びを感じながら、だらだらと意味の無い練習を続けているのだろうか。

 ミヅキがグランドピアノに向き合い、楽しそうに指を進めている様を考えるだけで、私は小さな苛立ちと遣る瀬無さを覚えた。



 私がグランドピアノと向き合ったり向き合わなかったり、少し乱れた練習ペースになっていた時、オーディション開催日が発表された。

 審査委員は立候補した合唱委員と担当の先生だ。合唱委員には私の友達が多数立候補しているし、先生とも仲が良い。私にとってホームであることは確かだ。

 立候補者は五クラスで六名。クラスで最低でも一人出るという決まりで、私のクラスだけ二人のようだ。ミヅキの方は、知らない人ばっかりだ、と慌ててはいたものの、オーディションを楽しみに待っているらしい。


「大丈夫、あたし絶対にヒナタに入れるから!」

「あたしも!」

「ほんと? 頑張るね!」


 この頃になると、オーディションに受かるんじゃないか、と妙な確信があった。特に根拠は無いが、ミヅキ以外の立候補者の演奏を聴く限りでは、どうも私が全国大会で聴いたことのある演奏と比べて、遥かに基礎が出来ていないようだったことが根拠になるのかもしれない。

 ふと、視線に入ったミヅキは、最近になってクラスメイトにも興味を持たれてあわあわしながら喋っている。


「あ、おはよう、ヒナタちゃ……」


 声をかけられても、愛想良く答えてあげる気にすらなれない。イヤホンを付けているから、聞こえなかったフリをして通り過ぎる。席に着いてからイヤホンを外すと、、無視しなくたっていいじゃーん、と笑い声が背後から聞こえた。勿論、これは私を非難する笑い声ではなく、私を面白がる毒だ。


「あれ、何か言ってたの? ごめん、聞いてなかった」

「えっと、おはよう、ヒナタちゃん」

「おはよう、ミヅキさん」


 薄く笑って、一瞥。私にとって唯一の敵は、ミヅキだ。私の合格を脅かす存在、ダークホースになる可能性は充分にある。

 それでも、私は負けるつもりなど、負ける筈など無い。たとえ乱れた練習ペースだとしても、意味も無く時間を浪費した無駄な練習をする人には負けたくない。そして、私には勝たねばならない理由がある。

 オーディションは三日後だ。単語テストや小テストも満点を取りながら、オーディションで合格する──それが私の理想像だった。



 三日間の練習はやはり集中力が切れやすかったが、安心できるだけの準備をするのには充分だった。それに、単語テストや小テストに時間を割いたおかげで、相変わらず満点は取れたし、生徒会の仕事もそれなりにこなして、何とかいつものペースは崩さずに過ごせていた。

 人々は私を天才とか秀才と呼ぶが、確かに素質のようなものはあるらしい。

 放課後の音楽室は、太陽が南中の位置から外れ、徐々に光が柔らかくなっているおかげか、電灯も点けていないのに白く見えた。先生数人と、顔見知りばかりの有志が並んで座って、評価用の紙を持っている。

 そして、私達立候補者は並んで背筋を伸ばして立っていた。隣のミヅキが口を押さえて大きな欠伸をしている。

 私は四番目で、ミヅキは最後だった。最後になればなる程、評価がしやすく、前者との比較をしてもらいやすくなる。私の実力を見てもらうには良いチャンスだ。そして、ミヅキとの戦いに勝つ大きな機会だ。

 三番目までの伴奏も素晴らしかったが、練習不足なのだろう、やはり止まったりテンポが安定しなかったりと、まだ指摘できるところが多かった。私が完璧に弾きさえすれば、受かる。

 三番目の候補者に、お疲れ様、と余裕を装ってはにかみ、私はルーティンに乗っかった。大きく深呼吸をして、白鍵に手を乗せる。そして後は、流れるように、それでいて自分を表現し過ぎないような、完璧な伴奏を作るだけだ。

 指は今まで一番よく動いた。手を滑らせれば、響きのある音が流れ出す。見なくても分かる、私も、聴衆も、皆が私の音に聴き惚れていた。

 完璧だ。

 進み出したメロディは一度も止まらず、脱線せず、リズムもテンポもずらさずに、楽譜の指定したままに進んだ。

 私が弾き終わり、手を膝の上に置いた瞬間、先程の三人より大きな拍手が聞こえた。

 私が完璧に弾いてみせたのだから、負ける筈が無い。白く光る太陽の下、私はコンクールでの照明を思い出しながらお辞儀をした。

 どんなに小さなオーディションであれど、人の前に、上に立つのが私の使命だ。私の舞台のホールの中で、ミヅキは明るく輝いた顔で手を叩いていた。

 自分の椅子に戻る際に、すれ違ったミヅキはまるで星々が煌めくかのようなキラキラした笑顔で私を褒め称えた。


「お疲れ様、ヒナタちゃん! とっても素敵だったよ!」

「そうかなぁ? ありがとうね」


 謙遜も程々に、最後の演奏を聴く。太陽に慣れていないような真っ白な肌のミヅキは、黒いグランドピアノの前で白く飛んで見えた。細い足で歩いて行って、慣れていないかのようにぺこりとお辞儀をし、ぼんやりとした顔で椅子に座った。

 私はその一つ一つの動きから目を逸らせなかった。

 ぼんやりとした揺らぎが、徐々に空気を動かしていくのだ。

 白鍵を一度押すと、一音目から流れたのは、夜空を思い起こさせる耽美で甘美な音だった。伴奏らしからぬ表現的な音でありながら、伴奏曲になぞって空気は動きを増し、失っていく。けれども、ダイナミックというわけではない。どこを取っても純粋で、煌めいた繊細なガラスの音で、静かな夜によく似合う音だった。

 ピアノを大して長い間やっていない他の人には分からないかもしれない。実力でいえば、まだまだ荒削りかもしれない。けれど、憎たらしい程に、美しく弾き語ってみせるのだった。

 ミヅキがお終いのお辞儀をして、隣の席に帰ってくる。拍手は私の時より、より一層大きくなっていた。

 周りの人達に何が分かるというんだ。私を友達だからと支持したいと言ってた審査委員にも分かる程の美しさだというのか。ミヅキの横顔が、柔らかい光に照らされて、昼間なのに月光が差しているようだった。私はその光に眩暈を覚えて、俯いて拍手を続けた。



 結果が発表された。選ばれたのは、ミヅキの方だった。教室では形式的な賞賛が行われて、クラスメイトの眼光はギラつき、新たな素質に歓喜する。

 これからはクラスにおいてのミヅキの存在意義が「音楽が得意で頭がいい人」に変わるだろう。今まで私がそうだったように。

 私の元には、残念だったね、私ならヒナタに入れるのにな、と言うクラスメイトがやってくるが、それも私の周りにいる極数名の話で、残りはミヅキが余程興味深いのか、ミヅキの周りに集まっていた。

 きっと一日だけの話だろうと思っていたのだが、数日後にはミヅキはクラスの大きなグループの片方に混ぜてもらっていた。私はその反対側だ。

 進学校のクラスにおいて、存在感を示す双璧。小さなオーディションだけれど、それを勝ち取り、私の自慢であるものを潰したミヅキと、敗れた私。その場所に立っても、ミヅキはまるで立場には興味無さそうに欠伸をして、友達との話にはのんびり乗っかって、今日も眠そうに小テストで満点を取っていく。


──まぁ、ミヅキさんだからね。

──どうせ満点でしょ。


 その言葉に冷たさは無い。皆の諦めだけが入っている。かつて私に向けられていた言葉だ。私はそれらを、九十点のテストの端を折りながら眺めていた。

 背後から聞こえる友達の声にも耳を貸さずに、私はあの日以来、ミヅキにばかり目を奪われていた。

 家に帰れば、両親の失望したような白い目が待っている。テストも惨敗、言い訳にする筈だったオーディションも惨敗。いつもならば口煩く私を罵り、見下す筈なのに、両親は最早目も向けず、何も言わなくなってしまった。その度に、あの日の放課後に感じたような眩暈を覚えるのだった。

 ピアノの前に座って、深呼吸。声に出せない苛立ちと焦燥感で指は滑り、メロディはどんどん脱線していく。指を動かせば動かす程に麻痺する感覚に陥って、気が付けば旋律が止まっている。そうして一時間近く弾いていると、背後から母親の声が聞こえた。


「明日は小テストなんでしょ、勉強しなさいよ」


 叫んで追い払いたかったけれど、反論すればさらなる頭の悪い応酬が待っている。返事をする気にもなれなくて、黙って手を下ろした。腕が彫刻の物に変わってしまったかのように重たくて、口の中で沸々と湧き上がったマグマのような何かを飲み込み、ただただ項垂れていた。

 この間もミヅキは楽しそうにペンを走らせているのだろうかと考えると、その憂鬱はより一層重たくなる。やっとのことで伸ばした手も、結局ペンを手に取ることは無く、疲れ果てベッドに身を投げた。

 目を瞑れば、何度も課題曲が頭の中で流れている。キラキラと輝いた音色と、月光の下でピアノを弾く少女。私はそれを、真昼に見た。

 ミヅキの音色を思い出す度、私の音色を「美術品」と称した理由を思い知らされる。

 私は伴奏の為に単純な音を選んだから、ミヅキからすれば機械的な死んだ音だったのだろう。

 それに比べれば、煌めき揺れていたあの音は、私よりも洗練されていなかったとしても、人を惹きつける音をしていたのだ。

 私はあの音を、弾けない。少なくとも、たった今、憂鬱に浸された指では、到底あんなに感動させるような音は弾けないだろう。それに圧倒されるというよりは、何度も何度も答えが明らかな疑問に呑み込まれているのだった。



 曇り空の放課後、音楽室にて再びグランドピアノと対面した。今日の練習は部室でなくあの音楽室でやることになったらしい。

 ルーティンが崩れていることは分かったけれど、敢えて崩したまま私は椅子に座った。無音の空間は想像通り出来上がらず、それでも私は指を動かした。そしてその空間は呆気なく崩れ、指が縺れ、旋律が止まる。

 いつも通りだ、と息を吐き出した。集中できなければ曲を奏でることに何の意味も無い。集中できなければ勉強することも何の意味も無い。

 ピアノに突っ伏したその時、突然後ろから明るい声をかけられた。


「あの、ヒナタちゃん、何か弾いてほしい、な」


ミヅキの相変わらずふわふわとした声だった。徐に振り向くと、ミヅキは一瞬驚いたようだったが、すぐにまた笑顔に戻る。


「私、ヒナタちゃんの演奏が大好きなんだ」


 その笑顔の下には、勉強やオーディションですら合格できなかった私への軽蔑があるのだろう。追い詰められもせずに一位ばかりを獲って、雲の上から俗民を見下しているんだ。


「だから、もう一回弾いてほしいなぁ、って……えっと、その、別にちょっと思っただけだから、気にしないでね」


 卑屈を装って、本当は私を誘導したいだけだ。私は自分より馬鹿だから、無能だから、自分の謙虚な演技に乗せられてくれるだろうと、思っているのだ。

 そうやって、自分に酔いしれているのだ──まるで、私みたいに!


「……ふざけないでよ」

「え、ごめん……」

「ふざけないでよ! オーディションに落ちた私を馬鹿にしてるの⁉︎」


 許せない、許さない。私より何でもできるあの子が憎い。誰からも何の努力もせずに好かれるあの子が憎い。こんなに努力して、親からも嫌われて、やっと手に入れたこの立ち位置を奪われて、憎くならないわけが無い!

 腹の底が震えて、じわりと目に熱い涙が込み上げてきた。握り締めた拳も僅かに揺れて、もう一度出した声は覇気がなくて、弱々しい虎の鳴き声のようだった。


「どうしてあんただったの⁉︎ テストの首位だって、オーディションだって! どうしてよ⁉︎ どうして私じゃないの⁉︎ 皆がおかしいんだ、私はこんなに頑張ったのに!」


 ミヅキはぽかんと口を開けて、私が泣き叫ぶ姿を見ていた。そんな反応をされてもおかしくはない。私にだって、この問いの答えは分かっているからだ。

 私が中途半端な努力で、中途半端に自分の才能を信じていたからだ。ミヅキのように楽しくやり込めば、私だってオーディションに受かってたし、勉強だって言い訳を探さずにやれば一位に返り咲いていた。

 それなのに、他の人を見下して、適当に自分より駄目な人だという言い訳を探す。自分のそういうところを見て見ぬフリをしようとした。

 自分が努力から逃げていることを指摘する人々を軽蔑して、私は常に人の前でなく、上に立とうとしていたんだ。

 一頻り叫ぶと、憎悪より恥ずかしさが大きく膨れ上がって、顔を隠して涙を拭った。ミヅキはきっと、私のことを見下すような顔をしているだろう。

 何故なら、人は皆、上に立つことを望むからだ。他人より優越することを望む生き物だからだ。それなら、ミヅキなんて大嫌いだ。

 ごめんね、を繰り返して、熱い雫を拭って俯いていると、ミヅキはすう、と息を大きく吸い、小さな声でこう言った。


「私も、努力、したんだよ」


 何で、そうじゃないでしょう?

 再び羞恥心が込み上げてきた。完全に負けたと思った。「貴女より」でもなく、私の努力を否定するでもなく、私の描いた理想像を壊した。ここは、私を見下して、鼻で笑ってしまう程のところなのに。

 相対評価を嘆いた私に対して、絶対評価で言い返してきた。

 涙で潤んだ視界でミヅキを見ると、泣きながらも笑っていた。怒るでもなく、呆れるでもなく、私の覇気に圧されて泣いているけれど、自分を誇りに思っていた。自分の才能を信じ、自分を磨き上げているのだ。

 あんなにも美しい音色を奏でられるのは、自分の音色を愛して、より良いものにしようと常に努力しているからだ。

 つくづく、自分は虎に成り果ててしまうところだったのだろう、と思った。昔読んだ本に、傲慢の限りを尽くして虎に成り果てた男の話があった。

 世の中全てが自分の世界観で動いているわけでもないのに、私はミヅキに自分の世界観を押し付けて、最後の悪足掻きでどうにか嫌いになろうと、見下そうとしたのだ。


「そうだね、ミヅキさん、頑張ったもんね」


 自分はミヅキの努力の何を知っているんだろう、と思いながらも、咄嗟に出てきたのはこの言葉だった。ミヅキは嬉しそうに目を細める。


「ヒナタちゃんも凄いよ、私はヒナタちゃんの演奏が大好きだよ」


 自分の浅はかさと虚しさに、月に照らされたように柔らかく明るい笑顔を浮かべたミヅキの顔を、見ることができなかった。

 私がミヅキに夜空を見ていると、厚い雲が退いたのか、微かに太陽の光がグランドピアノに差していた。



 今回の校内模試は、日本史と理系教科で一位を獲り、残りは二位という結果になった。

 結果を見るミヅキが隣でにこにこと笑っている。どうやら国語、世界史、英語で一位を獲ったらしい。私が声をかけると、私の点数を見てさらに笑顔の明るさが増した。


「わぁ、ヒナタちゃんも凄い!」

「んー、ミヅキには敵わないなぁ」

「そ、そんなことないよ」


 ミヅキは頬を掻いて照れた。これがミヅキの癖だ。

 私が機嫌を取るために少しでも褒めると、ミヅキは素直に喜ぶ。いつでも素直で、私のことも捻くれた色眼鏡越しには絶対に評価しないし、それは自分自身についても同じだ。

 見たままをそのまま答えるので、ある意味物をズバズバ言うタイプとも言えて、最初は人気だったけれど、次第にクラスメイトはミヅキを苦手だと思って離れて行った。

 勿論、そこに悪意は全く無い。今度は鷹のような目で、また話のネタになるような逸材を探し出すのだろう。

 私の周りには、もう今まで私を囃し立てていたクラスメイトはいない。いるのは私と正反対で、様々ことへの共感もあまりできない人だ。

 たとえば、私が「感じが悪い人」と称した人に対してミヅキは「カリスマ性がある人」と褒めたり、私が面白いと言ったものにミヅキは首を傾げたり、その反対もあり得る。

 それでも、ミヅキは私の本性をしっかりその目で見た唯一の人物で、初めこそ気は使ったけれど、今では私が気を使うことも無かったし、マイペースなミヅキも私に気を使うことは無かった。

 オーディションから一ヶ月後、学年合唱の練習は着々と進んでいる。指揮者があまりに下手なので悪態を吐くと、ミヅキは苦笑いをして、ヒナタちゃんには合う職だと思うよ、と言った。

 最初は皮肉を疑ったけれど、ミヅキが有りの侭を口にするタイプだということを思い出せば賛辞だということだった。

 人はそんなにすぐに変わらないし、変わろうと思っても変われるわけではない。内面が変わるのはいつも何かの刺激がある時だ。

 急がなくても、受け入れてくれるミヅキがいれば、私が自分自身を知っていれば、ゆっくり変わっていくことができる筈。

 常に人目を気にして無理に人の上に立とうとしなくなって、気も楽になった。変わり始めている私の隣で、ミヅキはまるで触媒のように変わらず静かに微笑んでいる。

 少し前、ミヅキは自分のことを、受け入れてくれる人がいて初めて存在する、と言った。

 確かに、独特なミヅキを受け入れる人は少なかったが、私のように変わり者はミヅキの友達になっていたらしい。自分のことを月に過ぎないと考えているところは、私より先に自分自身を知っている面でも、ミヅキの賢明さが伺えた。

 触媒という例えは正しいのかもしれないけれど、きっとミヅキの中では私は触媒なのだろう。

 太陽はそれ自身は変わらないけれど、月を満ち欠けさせるのだから。


「学年合唱、来週だね。やっと忙しいのが終わるね」

「ミヅキは伴奏、頑張ってね」

「ま、間違えないようにしないと……わぁ、緊張してきた」

「私なら頭真っ白になっちゃうね」


 柔らかい光に包まれた廊下を歩きながら、私達は学年合唱についてずっと話していた。

 その光は、私がオーディションで見た優しい月明かりにも似ていた。

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