言わぬが花

 曇天のスクランブル交差点にて、男は俯いて歩いていた。

 やけに急いでいるサラリーマンや、原型が分からないほどに化粧をした女生徒、ハイヒールをかつかつ音を鳴らして歩いて行く女性、等々、様々な人々とすれ違っていく。集団の中で、一見して、男は地味な格好をしていた。背を丸め、据えた目をして、まるで何もかもがつまらないと言わんばかりの顰め面をしているのだが、スーツだけはきっちりと着込んでいたので、サラリーマンの一人だろう。

 しかし実際には、男の体に花が纏わりついていた。咲き乱れる幾つもの花々は、人にぶつかる度に相手と花が絡まって千切れ、男の歩いた跡に落ちた。よくよく見ると、男の周りを歩いていた派手な女生徒は変わらないが、中年のサラリーマンには豪華な花が咲いていて、今までの印象とは逆転するだろう。

 ハイヒールを鳴らす女性よりも、少し疲れた顔をした灰色の女性の方が白い清楚な花を携えていて、無邪気に走り回る小さな男の子よりも、制服をしっかり着た眼鏡の女性との方が美しい花を咲かせていて、集団の中で一番地味だった男は、最も華美な存在となっていた。

 集団の中の誰かが自慢話を始めた。自慢話を聞く周りの人は相槌を打ったり、賞賛をしたり、その誰かの話を聞いてあげていた。こくこくと壊れた人形のように頷く周りの人の体には花が咲いて、低くどす黒い声が落ちる。


「誰もそんなこと聞いてないよ」

「お前の話なんてどうでもいいよ」


 男が集団の中で目立っていたのは、容姿だけではなかった。男は落ちた言葉を並外れた聴覚で拾い上げると、そちらの方に徐に振り向いたのだ。

 低い声が止むと、今度は集団の別の方向から聞こえてくる。今度は遠くから聞こえてくる。携帯を片手に持って走っている女性は、電話の相手に快活に話しているが、男の耳には、うるせぇんだよ、と唸るような低い女性の声が聞こえていた。制服を着た男生徒から、死にたい、と低い声が響いてくる。男はそのどれもを聞いていた。

 驚くべきことに、全ての人が渡り終わったスクランブル交差点に花が降り積もっていることを知っているのは、他ならぬ男だけだった。誰も、自分が優美に花を咲かせていることに気が付かないのだ。

 男は背を丸めて少し伸びた前髪を気にしながら、まるで鶏が歩くような姿勢で歩いて行くのだった。

 数時間後、男はオフィスで頭を下げていた。先ほどまでの姿勢はどこへやら、腰をすっと伸ばして立って俯く姿は、まるで別の生き物に変わったかのようだった。

 目の前にいる上司らしき人物は口角から泡を飛ばし、頬を紅潮させて男を怒鳴りつけていた。男はただただ、申し訳ありません、と言って何度も頭を振り、謝罪の限りを尽くしていた。

 何もしないでそこに座ってるだけのテメェに何で謝らなきゃならないんだ。

 ぽろり、と男の口から花が落ちた。けれども、上司はそれに気が付かずに語気を強めていく。男は顔を青ざめて頭を振るのだった。

 一番怒りたいのは俺の方だ。無能は俺に口を出すな。テメェは言いたいことを何でも言えていいな。どうせ俺がいなくたって会社は回るくせに。絶対に殺してやる。絶対に許さない。

 男の口から、耳から、目から、手から、足から、大きな花が顔を出した。上司は男の頭の先から足の先まで、粗探しをするためにスキャンするように見つめているのだが、顔を顰めて謝っている男を覆い尽くすほどの花々には気が付かない、否、花々など見えていないのだろう。

 上司はすっかり怒るのに飽きると、手をひらひらと振って男を追い払う。そこでさらに零れ落ちた花を見て、男は無表情に戻った。

 暫くして、男の元には同僚らしき男が近付いてきた。上司の機嫌を損ねたことについての励ましを口にしながら、今日は酒でも飲みに行くか、と誘う。少し迷ったあと、そうですね、と男は答えた。浅い笑みを浮かべた男の足元に花が落ちる。

 どうして酒が嫌いだって分かってくれないんだよ。酔っ払っては、今時の若者は、ってまた言うくせに。俺のことを馬鹿にしやがって。

男は気道が詰まるような息苦しさを覚えた。喉に花が絡み付いているのだろう。それでも、男は口角だけを上げて愛想笑いを続けていた。乾いた笑い声と、無知で大らかな笑い声が休み時間のオフィスに響き渡っていた。

 畢竟、全ては言ったもの勝ちなのだ。とある発言を咎めれば、咎めた側が損をする。しかし、黙っているだけでは花が咲くばかりだ。男はそれを、自らの体で表していた。

 けれども悲しいかな、花は他人には見えないのだった。

 男は常に、一つでは可憐で美しい飾りだが、多く集まれば人を殺すただの物体である花に囲まれ、何も言わないのだ。

 どうして俺ばっかりが気を使わなきゃならないんだ。どうして彼奴らばっかりが思いやりが無いんだ。どうして彼奴らばっかりが好き勝手言えるんだ。どうして俺ばっかりが苦しまなきゃならないんだ。どうしてこんなにも死にたくなるんだ。

 男の歩いた跡には、無数の花々が続いていた。その花々を踏んでいくのは、まず花を纏わない地味な人で、折角美しく咲き誇っていた花々は、千切れ、潰れ、無残にも、ただの色付いた道へと変わっていく。花を纏った人々も、見なかったふりをして花を踏んでいく。

 人々は皆、自分だけが花を吐き続けているのだと信じ込みたいのだ。

 されど、男は違った。人々が本音を言わずに花を吐き出すのを、何年と、何十年と眺め続けていた。見た目の見窄らしさとは反対に、清楚な花を大きく咲かせた人々を眺め続けていたのだ。

 男のくぐもった光を持つ水晶体には、また一つ、ひらひらと落ちていく花弁が映っていた。

 すっかり雲が晴れた漆黒の夜空は、梅雨の湿った空気で潤んでいた。星々も僅かに己を主張しているだけで、まるで豆粒が空に飾られているかのようだった。

 男は背に重たい花々を抱えて、猫背になって歩いていた。

 人通りが少なくなったスクランブル交差点はいつの間にか綺麗になっていて、花の残骸は見当たらなくなり、帰路または会社に向かう数人が口を開けて唸りながら花をぽろぽろ吐き出しているだけになっていた。

 嘔吐するような潰れた声を上げて男も花を落としていると、男の目の前には一人の少女が現れた。少女はジメジメと暑い夜なのに、厚手の上着を着込んで、素足でコンクリートを踏んでいた。

 その瞬間、男はまるで別の世界に飛んでしまったかのような目眩を覚えた。足元から身体がふわりと浮いて、辺りの音がほとんど聞こえなくなった。周りを見回しても、あるのは無感情なコンクリートだけだった。

 髪がボサボサな少女は、細い手を差し出し、乾いた唇を結んだ。

 男はまず、売春の類を疑った。いくら治安が良いと謳われるこの国でも、人生を金で買わせんとする少年少女は後を絶たない。男はこの手を取ってしまえば可愛らしい子どもの仮面を被った化け物に喰われてしまうだろうと、だらんと手を下ろした。

 少し眉を下げ、落ち込んだように俯いた少女は、拳を握り締めると、意を決したように顔を上げた。


「おじさん、お花をちょうだい」


 少女はつぶらな瞳に宝石のような雫を溜め、今にも泣き声がはち切れんばかりの震え声でそう問うた。頬が熟れた果実のように染まっていた。男は僅かに躊躇ったあと、何かを咀嚼するように口を動かして、死んだ目で少女を見下ろした。


「どうして」

「私もお花、欲しいの」


 少女は眉を寄せ、膨れるような顔をして、男の抱える花を指差した。男は手を離して、コンクリートに花をぶちまけた。いかにも重たそうな音を立てて落ちた花々を惜しそうに見ながら、少女は時々しゃくり上げ、男に訴えた。


「あのね、みんな、お花を持ってるの。でもね、私、持ってないの。みんなに聞いても、わかんない、って言われるの。だから、私も何で花を持ってないのかわかんないの」


 男はすぐに、少女も自分と同じで、他人の花が見えるのだと悟った。勿論、他人に花々が見えることは無い。

 同時に、少女は正直者なのだろうと男は思った。嘘をつかずに言いたいことだけを言う人間に、花が咲くことは無い。そして、不満を隠して優越感に浸る偽善者に花が咲き誇るのだ。

 男は少女から目を逸らし、後ろに腕を回して掴んで、低い声で答えた。


「好きなだけ、持って行っていいよ」


 少女は一粒だけ雫を頬に伝わせると、目をごしごしと擦って、乾いた唇を開け、目を細めて笑った。弾かれたように花の元に駆け寄ると、選べないという様子で男の花を拾い上げた。もう他の花に押し潰されてしまった花ですらも、少女は喜んで手に取った。

 男はその様子を眺めて、ゆっくりと口を開く。


「こんなもの、要らないから」


男は目を伏せ、猫背のままその場を立ち去ろうと足を動かそうとした。そのとき、少女は男の腕を細い手で掴み、丸い目を大きく見開いて男を見上げた。


「おじさんのお花、とっても綺麗だよ」


 男はまじまじと少女の顔を見て、微かに口角を上げた。下目蓋を上げて目で弧を描き、ありがとう、と呟いた瞬間に、少女は手を離した。花を両手いっぱいに抱えて歩いて、少女は夜の街に溶けるように消えていく。

 男は小さな後ろ姿が見えなくなるまで手を振ったあと、前を向いて一歩を踏み出した。

 刹那、人々の雑踏が交差点を包んでいく。男は、化け物が唸るような声で花を吐く人々に囲まれていた。空を裂くような本音の轟音に、男は思わず足を止めて耳を塞いだ。男の口からも、一輪の花が落ちていく。

 男は一瞬手を引いて躊躇ったが、しゃがみ込んで落ちた花を手に持つと、耳から手を離して再び歩き始めた。

 男を含む集団が青信号のうちに渡りきってしまうと、交差点には花々が降り積もり、その上を車が通っていった。やがてその花々は、黒くくすみ、千切れ、風によって飛ばされていく。そしてそこに残ったのは、本音の無い真夜中の静寂だけだった。

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