エリクソンと標本

「となりのとうにはおひめさまがすんでいるんだって」


 二人の少女はクスクスと笑いながら、赤と緑の目を輝かせて村人の隣を通り過ぎた。

 村人が俯いて通過して行く人々は、皆、綺麗なアイデンティティを瞳に宿している。その色も似たような色であるが、一人々々違う虹彩を持っているのだ。

 その花畑のような廊下をただひたすらに逆走していく村人は、まるで花畑にやってきた蛾のようだった。眼球から個性という名の色を放つが、それは酷く見窄らしい、グレーだった。


──何あの人、イロナシ?

──うわ、中年みたい。かわいそー。


 村人の耳には確かに、個性を花開かせた少年少女の声が届いていた。

 嗚呼、分かってるさ。

 授業開始のチャイムに走って教室に駆け込む民衆と村人は違った。長老達とも違った。

 当然色のことでもあるが、学校に来た目的が何より違うと言える。瞳にオーラの色を宿して歩く人々はそれぞれの個性を活かしてクラスで生きていくが、村人はこのグレーの瞳で終末を見据えるのだ。

 パタパタと自分の足音だけが色の無い世界に響き渡って、虚しく消え去る。一歩一歩着実に上って行く階段の一段さえ、村人には自分を嘲笑うように見えた。

 もしも足元に自分の個性があったら、座り込んで土下座したって土に向かって渡すよう懇願するだろう。

 村人にとって個性とは、精神的生命力に等しい。世界の全ては個性で決まるからだ。

 王様も女王も曲芸士も勇者も貴族も、皆、輝かしい個性を持っていた。鮮やかで濃い色だ。むしろ、濃い色を手にした者しか、人々の上に立てないのだ。次点が顔やコミュニケーション能力だろう。

 人々は瞳に美しい色をたたえ、笑顔で人々を魅了していく。

 古ぼけた扉に手を掛け、同じく錆びた鍵に力を加えて壊そうとしたとき、村人は宙に体当たりをしていた──否、あまりにも簡単に錠は開いたのだ。

 しっかりとした骨付きの指で鎖をなぞると、そこには既に壊された南京錠があった。はっとして村人が目線を向けた先には、屋上の柵に腰掛けて空を眺めるお姫様がそこにいた。


「……え?」

「あれ、お前も同じ用?」


 お姫様と言えるほどの美しい瞳は、透き通ったブルーだった。それこそ姫のような透明さを持った少女は、オーラが透明だと言ってもおかしくはない。人々は彼女を見たら、口々に、高貴な身分の方だ、と騒ぎ出すだろう。

 お姫様は、村人と同じ学校の制服を着ている。上履きの色は上学年を示した。お姫様は透き通る白い腕で村人に手を振っている。靡く髪は細く黒く、まるで高級な絹のようだ。瞳と同じくらい透き通った声で、もう一度村人を呼ぶ。


「ここに何か用があるの?」


 見る人は皆、言葉を飲むような美しい瞳は、悪意無き千里眼の様だ。青い蒼い空に浸したような淡い色はクスクスと笑う。


「貴女は?」

「まぁまぁ、同胞だよ。死ぬ前にちょっと話さない?」


 お姫様はぴょんと空の方に飛んで柵の向こうに座り込んだ。手招きされるがままに蛾は万人を魅了する蝶の方へふらふらと近づいていく。金銀の鱗粉に誘われ、そのまま身を投げてしまうのも悪くないかもしれない、と村人は思考を止めた。

 村人とお姫様が二人で見上げる空は、まるで明度を最高まで上げたかのように白く飛んでいた。制服よりもドレスが似合うお姫様は、立ち上がって、膝上まで上げられたスカートをそよ風に靡かせながら、村人の方を見るでもなく口を開く。


「お前、名前は?」

「……<ruby>安藤<rt>アンドウ</rt></ruby>光。ヒカルです」

「えぇ⁉︎ 私もヒカルっていうの!

彩度のサイ、って書いて、ヒカル。<ruby>八代<rt>ヤシロ</rt></ruby>彩。

同じ名前の人に偶然出会えるなんて、面白いね!」


 村人の方を向いて、お姫様は目をきゅっと細め微笑んだ。細く溶けそうな白い手を差し出され、村人は糸を引かれたように握手するに至る。しっかりと包み込むように結ばれた村人の手は少し日に焼けた、存在を顕にする、お姫様のものとは正反対のものだった。


「じゃあ、ヒカル君って呼ぶと被っちゃうし……コウ君って呼ばせて?」

「……そんな、初対面なのに」

「馴れ馴れしい? どうせこの後死ぬんでしょ? なら構わないじゃない。私のことはアヤって呼んでよ」

「……アヤさん」

「そうそう」


 話を持ちかけたお姫様だったが、平民相手に普通の話は通じない。それは反対も言えることで、村人は口をつぐむほか無かった。そもそも、色味の無い人間が貴族に近づいている、つまりエキストラが主人公に絡むようなシーンで、エキストラ側から出す言葉が無かったのだ。

 救いようの無い失望感に呆然と空を仰ぐと、お姫様は苦笑いをしながらまた話し始める。


「話の内容なんて無くてもいいんだよ。少しお前を知りたくて」

「なぜ、そこまで透明な貴女がこんなところに?」

「うーん、気分? 空を見てると落ち着くでしょ?」


 先程から村人の目を避けるようにお姫様は視線を泳がせる。透明な瞳には青白い空しか映らない。村人は口を強く一文字に結んで、地面を眺めた。

 この女は僕の目を見て避けたのだ。村人は確信していた。金銀の鱗粉に煽られて自我を失ってしまうほどには蛾は心が純粋ではない。自分が持っている羽はお姫様とは比べ物にならないほど汚いことは忘れてなどいなかった。

 グレーの瞳で見上げた地面は酷く閑散としていた。飛び降りるなら今のうちだと村人を下で受け止めようとしている。鱗粉に煽られ村人の中に生まれた気持ちは惚気ではなく仄かな憎悪と自殺願望だけであった。まるで自分を吸い込む黒魔法だ。


「お前、今まで見た誰よりグレーだよ。むしろ個性が強いよね」

「……馬鹿にしてるんですか」

「馬鹿になんてしてないよ」


 村人は結んでいた唇を噛み締める。

 少しも悪びれずに気品溢れる小さな笑みを浮かべたお姫様は、村人にはまるで虐めの対象が泣いた時の虐めっ子のような、つまらなそうな顔をしているように見えた。座り込み細い足を振って、空を蹴り飛ばす。お姫様にとってはこの異様な色をした空でさえも満足させることができないのだ。


「死ぬ前くらい重たくない話しようよ」

「……たとえば?」

「あのね、私、新しいショッピングモールに行ってさ、しかも初めてで!」


 お姫様はニューアトラクションについて語り始める。蝶々の集る場所について興味が強かったという話を心を閉ざして聞いていたが、お姫様はそんなことも気にせずに一方的に言葉をぶつけ続けた。

 お姫様の遊戯に人格の有無は問わない。自分が一人惨めにならなければ、たとえ相手がモンスターでも話し続けるのだと、村人は思った。

 村人の相槌を肯定と受け取ったお姫様は、まるで自分は演説をしているかのように会話に陶酔して数十分を遊戯に費やした。村人は背後で鳴り響くチャイムに自分の溜め息を重ね、重たい足で立ち上がる。

 不思議と村人の中に満ち充ちていた自殺願望は消え去っていた。しかし、それは波の満ち引きのように、また満ちることが決まっている。傾き始めた太陽の眩しさに一瞬、足元まで上ってきた死への誘いの手が逃げたまでである。

 南中以上日没未満の水色に橙を浸した日光にさえ溶けるような保護色のお姫様は、微かに髪を揺らす風に薄く微笑んで、村人の口内に憎き苦味を齎した。透明な瞳は太陽の光を七色に分解するかのように煌めく。誰もが息を呑むその輝きは、村人に息を呑ませるには至らなかった。


「あぁ、もう授業もお終いだね。私は帰るよ」

「そうですか」

「この後死なないなら、また明日も来なよ」


 お姫様は、ひらひらと羽ばたくように手を振って、お姫様は慣れた動作で柵を乗り越え、軋んだ南京錠が隔てる下界へと降りて行った。その隣に、付き添いはいない。村人は、ドレス代わりの短いスカートを翻して消えて行ったお姫様を追うように、柵を乗り越える。

 何だか、もうどうでもいい。

 その日、村人は身体を生かしたが、心を殺した。

 二度目のチャイムを聞いてから、村人はお姫様を追って、人によって姿を変える泥沼のような現実へと沈んで行った。



 民衆は相も変わらず村人を無視して離れていく。机に孤独に残された村人は、一切口を開くことは無かった。

 たとえ民衆に教えを解く長老であれど、見つめるのは黒板ばかりで、村人の名は呼びもしない。さらに、まるで村人の周りを笑い声が囲んでいるかのように、耳と頭が鋭敏さを失っていた。

 重怠い、村人の目と同じグレーの空間でも、蝶々達には花畑なのか、目がチカチカするような舞を見せていた。思わず目を瞑って視界をシャットアウトするが、長老の声は一言一言が黒い刺になって、暗く冷たくなった目蓋に突き刺さっていく。

 嗚呼、起きなくては。夢になど逃げられない。

 長い昼休みですらも、村人は黙りこくって宙を見つめていた。自分をわざわざ避ける視線を感じて、自らを遮蔽物と誤解しながら罪悪感に思わず歯を噛み締めた。

 数年前は同じ状況で、頭に紙飛行機が刺さり、紙屑を浴び、頬には殴られた痣があった。民衆も成長して、正しい迫害の仕方を覚えたのだ。息を吸うのさえ苦しくなるような重い空気の中で、村人は鉛になった口を動かそうとは思わなかった。

 逃げ込んだ廊下に聳える鏡に、村人は自分の目を見る。その目は村人を犯罪者とでも思ったような、傲慢で悲観的なものであった。

 どこかで、お前のせいだ、というどす黒い声が聞こえた。



 村人はチャイムの音を聞いて、また屋上へと這い上がった。否、舞い上がった。

 一日を耐え忍び、二日目にはまた足元に冷たい手が這い寄って、村人の心はまた満潮の自殺願望に浸かっている。休み時間の間、たった一匹、荒廃した「となりのとう」へと足を進め、徐々に寂しくなっていく足音を聞きながら、蛾はよろよろと羽を動かす。

 今にも壊れそうな鍵をこじ開けようとして、村人は先客を知る。冷風が足元を滑って、その先の鼻歌を届けた。呆れるほどの呑気な歌声は、村人の足を一度は止めたが、その戸惑いでさえ黒い手に押されて消えてしまった。


「あれ、コウ君! 昨日は来なかったね」

「……アヤさんはいつもここにいるんですか」

「あー、うん。気がつけば一日中とかあるけど」


 透明な瞳の奥で、半月型の目をした蔑みが笑う。心の底を映し出す瞳は確かに、色はつけど「透明」で、純粋に心の中を映すガラスそのものであった。

 村人は一昨日のように柵を乗り越え、座り込む。それに習って、お姫様は華麗にスカートを翻して村人から数歩離れたところに着席した。そこに椅子などなくとも、確かに村人の目には玉座が見えるような、品のある座り方である。


「ねぇ、聞かせてよ? 何で君みたいな人が自殺なんてしようとしてるの?」

「……貴女のような人には、分からないですよ」

「私だってここにいる人だよ、同じようなもんだよ」

「同じなもんか。少なくとも貴女は悩みなんて無さそうな色をしてる」

「えぇ?」


 村人が毒づけど、お姫様は苦笑いでかわす。しばらくの沈黙を噛み締めて、空を見上げた村人に、お姫様は小さく笑ってから、聞かせてよ、と駄々をこねる。その仕草さえも上品で、透明な個性そのものだと、村人は思わされた。


「……そりゃ、この個性ですから。親にも非難されて、クラスに行けば苛められて、いいことなんて無いんですよ」

「かもしれない、ね。だって私が見たこと無いくらいグレーだもん。イロナシだってそんなグレーじゃないね」

「個性ばっかり見やがって、なんて言う色の無い高齢者と同じにされるのはもう嫌なんです。俺だって昔は綺麗な赤だった」

「赤。情熱家だったんだね」


 お姫様は足をバタバタさせて、上履きの赤を振る。その新品のような赤の綺麗さは、お姫様の清楚さと昔の村人の目の色を彷彿とさせた。

 ワイシャツにシワ一つ無く、髪は風で乱れど、その艶は変わらない。肌には出来物一つ無くて、スカートにもシワなど無い。髪を耳にかける手の爪でさえも、美しい形に整えられている。まさにお姫様だ。

 村人は口を噤んで経緯の説明を拒んだ。村人の頭の中には、中学の生徒から受けた暴力と罵倒から始まり、高校に至っては無視を決め込まれる記憶が頭を過ぎっていた。両親には心配と迷惑をかけ続けた。話すだけでもすぐに一歩足を踏み出して地面に落ちたい欲に駆られる。


「どうしてグレーになったの?」

「俺の知ったことじゃない。いろんなことを知って、いろんなことをしたくて、そしたら、いつからか色が陰り出したんだ。成長していくに連れて、って感じ」

「そっか」

「親は心配してくれるけど、まるで腫れ物に触るようで、とても申し訳ない。でもこんな色じゃ、社会に出たって職も得られなくて、親に恩返しなんてできやしない。未来が無いんだ」

「……そっか」


 お姫様はばたつかせた足を止め、軽く俯く。黒髪がお姫様の端正な顔を隠し、同時に日光は陰った。世界までもお姫様に味方しているのだ。

 足元は授業中の為静まり返っているが、それに寂しさは感じない。むしろ村人を歓迎して地面が渦巻いているかのようだ。珍しくお姫様は黙り込む。


「俺だけが取り残される。そんな気持ち、貴女には分かるわけが無い。きっと愛されてきたんでしょう?」

「……愛されるとか、関係無いよ。少なくとも、コウ君には親がついてるし、私だって応援してるよ」

「じゃあ、クラスで死ねと?」

「もしかしたら、グレーってよく怖がられてるし、皆はお前が怖いだけかもしれないよ?

コウ君みたいに欲がある人間はまだ死ぬべきじゃないよ。欲の無い爺さん婆さんになってから死んだ方がいいよ」


 お姫様は体育座りをして、村人の顔を覗き込むようににこりと笑った。そして、透明な目を大きく開いて、奥底の水色で村人を射抜く。村人は偶然強く吹いた風に気を取られたフリをして、思わず目を逸らした。

 まるで水に青の絵の具を浸したかのような、絵の具が落ちていく無作為の芸術を、村人はそこに見た。そして、暫く黙りこくった後、村人は小さく頷いた。


「良かった。クラスに行ったらどうなったか、また今度教えて? 放課後でもどうせ私はここにいるし」

「貴女は、何でこんなところに?」

「勉強がつまんないから、だよ」


 そう苦笑いを零したお姫様の後方でチャイムが鳴り響く。謁見はおしまいだ。お姫様は留まり、村人の方にひらひらと手を振る。御機嫌よう、と言えば本物のお姫様そのものだ。お姫様特有の香りを吸い込めば、ラベンダーの花畑の中に、お姫様という蝶々は待っているのだとすぐに分かる。

 蛾はひと羽ばたきひと羽ばたきを軽くして、徐々に加速し、階段を降りて行く。お姫様は、村人の足音がしなくなるまで手を振り続けていた。



 グレーは民衆に向かって羽ばたいた。長老の号令前は、たとえチャイムが鳴っても民衆は席に着きなどしない。一人静かに座って、グレーは長老の到着を待つ──いつもならそうだった。

 蛾は美しい色の蝶々に塗れ、コントラストで異彩を放つ。一声で、コントラストに気が付いた蝶々達はグレーへと振り向いた。


「おはよう」


 暫し沈黙が訪れる。周りから聞こえてくる笑い声を待ち構えて目を瞑ったグレーに、襲いかかったのは興味と驚愕のひそひそ話だった。


──喋った?

──安藤が喋った!

──久しぶりだ!


 そこからは一瞬で、玩具を見つけた民衆は一斉に声を上げた。


「おはよう!」

「おはよう、安藤」

「びっくりしたじゃん!」


 民衆は皆、面白そうに、塗りたぐったようなグレーの瞳を覗き込んだ。そして、悪気の無い笑いを巻き起こす。

 グレーは唇の内側を噛んで、ぎこちない笑顔を見せた。



「見世物だなんて自意識過剰だよ。確かにお前の個性に興味津々だろうけどね」

「じゃあ、何だって言うんですか」

「お前の色を面白がってるんだよ」


 全校生徒が帰った後、お姫様は屋上へは上がらずに二年生の教室に居た。机に座って足を組む姿は気品が無いようで、その他の動作が品がある故にその姿さえも上品に見える。

 お姫様はお付きでも待っているのか、隣に可愛らしい流行りのデザインのバッグを置いて、既に帰る準備も済ませていた村人を見下ろすばかりだ。

 綺麗な黒髪は今日はポニーテールにされているが、屋上のように風に靡きはしない。ただ夕日の影のごとく黒く佇んでいる。


「それにさ、初めましてのことを考えて?

皆、最初は知り合いじゃなかったら『おはよう』の挨拶にすら応えない。『さよなら』すら言ってくれない。素性の知れない人間を迎え入れようなんて、してくれない」

「なら、貴女のような人なら迎え入れてもらえるんでしょうね」

「そうかも。少なくとも皆は私に嫌な顔しないし」


 少しも悪びれずにそう言うと、お姫様はティアラ代わりのシュシュで髪を結き直した。


「お前は面倒臭いもん」

「言いましたね?」

「言ったよ」


 お姫様がクスクスと笑うと、最終下校三十分前のチャイムが丁度鳴った。チャイムですらお姫様には味方をするのだ。挨拶をして去ろうとする村人に、未だに机から退こうとしないお姫様は手をひらひらと振っていた。


「そうだ、貴女の好きな色は何色ですか?」

「特に無いよ」



 明くる日も明くる日も、放課後にお姫様は玉座にも見える机に座っていた。

 もう屋上のお姫様の噂は立たない。色とりどりの蝶達は御伽噺に飽きたようで、次はまた違う蝶のことを噂に出しては盛り上がっている。


「なんでもできたけんじゃが、いなくなってしまったんだって」


 村人からお姫様についての疑問を受けても、お姫様は大抵の場合、特に無いよ、と答えた。好きな色も、好きな食べ物も、得意な教科についても、お姫様の返答はグレーなままだ。お姫様は様々な才能を持ち合わせていて、どの分野にも器用であったが、その一つ一つにこだわりは存在しなかった。

 反対に、お姫様からは一方的に質問が押し付けられ、村人は次第にお姫様に自らを明かすようになっていた。好きなこと、好きな色、好きな食べ物、親とのやり取り──全てに、尋ねたお姫様自身はさほど興味が無いようだった。


「何で俺と話し続けるんですか」

「お前が来るから。それ以外に特に理由は無いよ」

「何で貴女は何でもできるんですか」

「昔からやってたらできちゃったんだよ」


 教室での愛想笑いと家庭での親の温かい目を受けることを交互に繰り返して、村人は下界にも慣れ始めていた。

 鏡の向こうの没個性な自分は限り無いグレーの瞳をしているが、それでも一村人という見世物に民衆は目を奪われている。もう最早個性など民衆にとってはどうでもよく、ただただ村人という存在が愉しくて仕方が無いのだ。

 色濃い長老に話に行く気にはなれなかったが、蛾は蝶として誤解され、花畑に入ることができた故に、村人の生活は依然よりも軽いものとなった。

 所詮、自分の身は見世物だ。空気が奴隷になったまでだ。

 無個性な発言をすれば、民衆、ヤミセンしか──色の暗い人を好きになる人のことだ──そんなこと言わないでしょ、イロナシは面白いな、と大笑いするのであった。お姫様が言ったように、取り残されることは無いが、ゴシップという蜜に飛び付き囃し立てる蝶になることは無いだろうと村人は自分を見ていた。

 それと同時に、村人は民衆の関心が瞳から村人の様へと変わっていくのを感じた。初日こそ民衆は色の話をせど、日を重ねるにつれて村人の内面に興味がそそられていくのだ。自虐的で悲観的な姿を見て、民衆は享楽に酔う。

 所詮村人にとって、未来の話など偽りの理由でしかなかったのだ。村人を取り巻く孤独に怯え、周りを見下したグレーな心が、村人を死に向き合わせただけであった。

 心労が限界に達したとある日に、村人は橙色をした放課後の教室へと向かった。お姫様は白く透き通る肌を夕日の色に溶かしてこちらを向いて微笑んでいる──筈だったが、その日はそこにお姫様は座っていなかった。座っていた玉座には何一つ荷物が残されていない。

 その日を境に、お姫様は玉座から姿を消した。



「なんでもできたけんじゃが、いなくなってしまったんだって」


 少年少女は蜜に集ってクスクスと笑い羽ばたく。また同じ話をして、同じような仕草だ。そして、時折狂ったような高笑いが聞こえる。

 放課後の橙と灰の混じった色の廊下を歩いていくが、お姫様の所属するクラスに近づけば近づくほど話し声は少なくなっていった。そして辿り着いた教室にて、一人残された生徒を目にする。

 しかし、その生徒はお姫様ではない。ごく普通にクラスの一人だろうと思われる人間であった。茶の髪に似合わない緑の瞳で村人をちらりと見ると、苦笑して目線を逸らす。軽蔑を示されても、屈辱が好奇心を上回って、村人は思わず口を開いてしまった。


「あの、アヤさ……八代彩さんは最近どうしてますか?」

「彩ちゃん? 最近来てないんだよね」

「病欠ですか?」

「ううん、噂では家にも帰ってないんだって」


 背筋に冷たい指が這ったかのようだった。そして、村人は頭の中で賢者の姿がはっきりと想像できた。

 それだけ言うと、下品に、アハハハ、と笑って教室を出ていった。緑は心の広さと優しさを兼ねると言われているが、逆に嫉妬を司るとも言われている。所謂仲間内、というグループでの姿であって、排他的だということもあるのだ。

 それに比べてお姫様は、協調に長けている。色に囚われた発言で村人を困らせることは多々あれど、初対面の自殺志願者を馬鹿にして退けるような真似はしなかった。それゆえに、村人はお姫様に様々なことを話しかけるようになったのである。

 家以外の、お姫様が住まう場所──向かうは一つであった。

 「となりのとう」への道は村人にとって常に静かな場であった。乾いた足音と軋んだ扉から風が吹き込む音だけが聞こえる、教室前に比べれば色の無い場所だ。それが村人には親しみやすさを感じる一因となっている。一段一段を踏みしめていけばいくほど、お姫様の鼻歌が近くなっていった。

 だんだん空気が冷えてきて、自分は空高き塔に登っているのだと、村人は錯覚していた。

 続く先は天国か、地獄か。

 扉の向こうから差し込む夕日と雲を混ぜたような色の光は、確かに村人を招いていた。

 どこかで聞いたことがあるクラッシック音楽に釣られて、壊れた南京錠を弄ると、扉はひとりでに開いた。一気に吹き込んだ強い風に思わず目を瞑る。

 次に目を開いた時、そこには眩い光を浴び、自らも夕日に溶けて同化してしまったかのような少女がいた。


「あぁ、久しぶりだね」


 柵の向こうで、迎え入れる地面と夕日とを背にして、お姫様は笑っていた。

 逆光と荒く靡く髪のせいで表情は見えないが、村人にはお姫様が笑顔なのだと確信できたのだ。いつもと違い、髪はボサボサに乱れ、スカートは風でぐしゃぐしゃ、靴は泥塗れで、光で飛んでもなお分かるやつれた身体だったが、お姫様には相変わらず気品であり、プライドである輝きが備わっている。

 お姫様はまるで足元に這う黒い無数の手達に愛されているように見えた。地面がお姫様を抱きしめようと手を伸ばしているのである。胃に冷たい刃が押し付けられたような痛みを感じ、村人は落ちてしまいそうなお姫様に駆け寄った。

 お姫様は大声で問いかける。


「ねぇ、知ってる? とある国ではアルビノの人間が手足を切り落とされて売買されてたりするんだって!」

「……詳しいんですね!」

「じゃあこれは知ってる? 美しい個性の人間には値段が付けられるんだってさ!」

「……初めて知りました!」

「目なんてくり抜いて売った日には! 億単位の収入が得られるんだって!」


 耳元の轟音が止むと、やっとお姫様の顔は顕となった。村人の予想通り、確かにお姫様はにっこりと笑っている。最初はいつもの呑気な笑みだと勘違いしたが、開かれた瞳を見て村人は絶句した。

 黒い瞳孔が、ぐしゃぐしゃに見えた。

 村人には、その黒が透明な虹彩に徐々に溶けていくようにも思える。青が透けたような笑みはすっかり暗く黒く色褪せてしまっていた。民衆に見せれば、きっと瞳が影で光を失ったのだろうと口々に言うだろうが、光を失ったのではなく、これが本来の光なのだと、輝きなのだと見せつけられた。


「何をするつもりですか、先輩」

「飛び降りるんだよ」

「なぜ行ってしまうんですか」

「だってさぁ、考えてみてよ」


 お姫様がばっと背を向けると、同時に風が強く吹き出す。まるでお姫様によって地球が回されているかのようだ。後ろで手を組み、美しい姿勢で直立したお姫様は、何事も無かったような笑い声で面白そうに話し出す。


「何も楽しくないんだよ。たとえ大金をかけられるほどに綺麗な目をしてたって、それを喜んだ親にいっぱい習い事をやらされたって、テストで満点を取ったって、クラスで姫だなんて崇められたって、先生が私に頭を下げたって、親の人形でいたって、生徒の模範でいたって、美しくあったって、注目されたって、何も楽しくないんだよ。

好きな食べ物も好きな色も好きな言葉も趣味も無いよ。

だって全ては私じゃないから!

全て、私に押し付けられた設定でしかないから!

お前には分かるかな、この気持ち。皆、私の個性を、いや、眼球を崇めてるんだ。

勝手な武勇伝をつけて!

勝手に機能を付けて!

親の当たり前に沿って生きて!

親の望むままに成果を上げて!

私のしたいことはイメージに違うからと却下される!」


 再び耳を風が打つ音が聴力を弱めた。その代わりに村人の視力ばかりが研ぎ澄まされて、お姫様が世間に背を向けている図さえ、バックにした夕日に映って見えた。

 お姫様は地面を目の前にしてるのではなく、興味の目を目の前にしているのだ。この後落ちて砕け散った残り物一つ一つに値段が付けられる作り物になることに、直面しているのだ。

 それ以上お姫様は言葉を発さなかった。ただただ暗い地面を見つめて、民衆の声の幻聴を聴き、目を瞑っている。村人にもその幻聴は聞こえたかのように思えた。

 塔に立つ透明の少女を、人々は求めている。崇めている。そして面白がっている。少女が一言話せば、皆が盛り上がり、少しでも動けば尊敬という無責任をぶつけて黄色い声を上げる。もしも塔から落ちたら、無意識の落胆と誹謗を残していく。

 人々は人の命──眼球に秘めたる個性を、博物館に展示された蝶の標本でであるかのように眺めるのだ。割れた一欠片一欠片を惜しみながら、無関心さを恥じず、死んだ蝶を冒涜する。

 村人の時も、地面は受け止めるように構えていたが、お姫様ほど邪悪のこもった手は差し伸べられていなかった。むしろ抱き寄せるような引力があったが、それも後から思えば珍しいグレーの蛾の標本が欲しかったのかもしれない。


「アヤさんも、グレーだったんですね」

「何で私は、こんな世の中に生まれてしまったんだろうね!」

「でも、違うんです」


 村人が大声を出すと、お姫様はゆらりと振り向いた。瞳はもはや青の色彩を完全に失い、お姫様の心持ちを透明で素直な眼球で映し出す。


「人々にとって、色なんてきっかけでしか無かったんです」


 村人が異端扱いされたのは色のせいであった。幼い頃から色について笑われ、やがて民衆は無抵抗な村人の蝶の羽をもぎ取って遊ぶようになった。それからのことは全て自分の色のせいとしていたが、口を開いた今だけはそうではない。自分の臆病さと周りへの傲慢さが瞳をグレーにしていたのだと、村人は自らを顧みていた。

 無数の蝶は必ず美しいとは限らない。羽の色は美しい自分の個性であり、素直な自分の邪悪なのだ。


「貴女が親や民衆の目から逃げることはできます。だから、俺を救ってくれたように、俺は貴女を引き止めたい」

「こんなに見窄らしい私を?」

「どうか、この後死なないなら、また明日も来てください!」


 村人が吐き出した言葉は沈黙を生み出した。少し弱まった風の音が耳を打つだけで、逆光に照らされたお姫様は口を閉じてこちらを大きなグレーの瞳で見射抜く。

 瞳に自分の姿が映り、村人は自分の目を見た。べたりとアクリル絵の具単体を塗りたぐったような灰色の虹彩が村人を睨んでいる。水の無い絵の具のような目であったが、確かに輝いていた。少なくとも、村人が自らの守護に没頭していた時のような暗い瞳ではなかった。

 唾を飲み込んで視線に耐えた幾つかの刹那の後、沈黙を破ってお姫様は真っ白で可愛らしい笑い声を上げる。


「ふふふ、お前は本当に面白いなぁ」


 村人が恐る恐る手を差し伸べると、お姫様はきゅっと二重の目を細めて笑ってから白く細い指で村人の手を握り、一度離してから柵を乗り越えた。天国へと羽ばたいた蝶は、皮肉にも地獄からの使者のような蛾に引き戻される。

 自殺という話題を求めた幻の民衆に背を向け、二人のグレーは手を取り合う。いつもは口が閉じないお姫様が、静寂に身を浸して村人をずっと見つめていた。窶れた二人組に、容赦無く夕暮れのチャイムは鳴り響く。



「アヤ先輩、ここが分からないんですけど」

「えぇっ、これ? 簡単な方だよ?」


 お姫様は世話になることになった女官の迎えを待ちながら、余ってしまった時間の活用法に頭を悩ませていた。今度は自分が村人の女房となり、勉強を教えるに至っている。

 村人は自分が王家の者ほど頭が良くできていないことを知っていた。王家の者は幼い頃からのレッスンの積み重ねで様々な才能を持っている。しかしながら、村人にそのような機会など与えられない。代わりに、親からの温かい愛を受けられるという特権を持っている。


「ほら、これでどうかな」

「字が綺麗なんですね」

「そこ?」


 ノートにすらすらと筋道を立てた計算を一度下書きしてから、また別の紙に数式を書いて村人に優れた説明をしていく。絵画を描くお姫様の姿を連想させる姿に、村人は思わず感嘆の溜め息を吐いた。

 お姫様が呆れて苦笑を漏らすと、透明な瞳に青が透けて光る。お姫様の内面を偽り無く映し出す羽は、確かに人々に崇められるほどに美しかった。

 二つのグレーの蝶以外消え去った青空の下、立入禁止となった屋上の代わりに教室が二人を匿う。村人は、色彩が無いようにも見える白く飛んだ教室に、透明とグレーの鱗粉が飛び交って、雪降る白銀の世界に足を踏み入れたような感覚を覚えていた。

 雪の降る永久凍土は、緑と白が花咲いて民衆とは違った色を醸し出す。アイデンティティの束縛というピン、拘束から逃れた二人は、傷ついた羽で強く強く空へと羽ばたいていった。


「コウ君、もしかして瞳が赤くなってきたんじゃない?」

「そうですか?」

「うん、雪兎みたい」


お姫様が取り出した可愛らしい手鏡に映った村人の瞳は、羽は、僅かに色付いていた。

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