芸術的メタモルフォーシス

 男は何かが割れる音に飛び起きました。外では、車軸を流れるような雨の音が聞こえておりました。

 彼が先ず思うたのは、自らの宝物のことです。

 ガラスケースに入った蝶の標本は、男が幼い頃から集め続け、今では博物館の展示物の如くに集まっていました。

 教授の職に就いてからはそれもぱたりと止んだのですが、今でも知り合いの生物学者に時折珍しい蝶の標本を分けてもらうこともございました。

 男にとっては、死骸というゴミ同然の蝶々が、数億の値段がつく宝石に等しいのです。

 ガラスケースは湿気をも守ってくれる代物なのですが、割れてしまっては標本が湿気てしまうからでしょうか、男は暗い廊下を、隣の部屋の恋人を起こさぬようにと電気も点けずに忍び足で歩いておりました。

 彼にとって宝石に等しいものはもう一つ存在しました。それこそ、隣の部屋で眠っている恋人なのです。

 男はその恋人を「先生」と呼んでおりました。実際に教師の職に就いている訳ではない、いたって普通の女性なのですが、殊に史学と倫理学に長けた人でした。知人から恋人を紹介されて出会いまして、今に至るのです。

 二つの宝石を携えた男は、前者を心配して、展示部屋へと向かいました。じっとりとした自らの足音のみを聞き、背を丸くして忍び足をしているのです。

 男の湿った足音には、微かにガラスが割れる音が混じりつつありました。まるで自分が薄氷の上を歩くような悪寒を覚えながら、男は戸を少しだけ開いて、片目だけで自分の部屋をじぃっと覗き込みました。

 ランプは倒れて光を失い、月光のみが部屋を照らしておりました。男は、部屋の中で足元のガラスを踏み付けながら蠢く影を見つけ、目がこぼれ落ちそうな程に見開いて静かに身体を退きました。じゃり、じゃり、と冷たく響く音は、ガラスケースだけでなく男の心をもすり潰そうとしているかのように恐ろしいのです。

 恐々と再び顔を近づけますと、中の化け物は、うぅ、と唸りながら、鈍く光る針を持っておりました。男はそれを見て、目が覚めたように、自分が置かれた状況に気が付きます。男が意を決して足を踏み入れると、蠢く影は動きを止め、暗闇でも化け物が徐に視線を男の方に向けたことは察しがつきました。


「お前は誰だ、此処から出て行け!」


 男は腹の底から声を出しましたが、肝心の腹が恐怖で戦慄いて、震えた声が部屋に響き渡りますと、静粛で殴り付けた部屋には、荒々しく背を上下させる化け物の息遣いと、何もかもを流してしまいそうなざあざあという轟音だけがございました。

 アハ、ハハハ、と、息遣いは数を重ねるにつれて弱々しい笑い声へ変わっていきました。高笑いをしながら化け物は肩を上下させて、ぐるりと首を此方に向けました。男は慌てて覚束無い手で、足元に落ちていた標本用の針を手に取り、威嚇するように目を吊り上げます。それを見た化け物は口を開け、少し低い声を出しました。


「教授、あたしの声が、分からないのですか?」


 「教授」と呼ばれた男は、腕の力を緩めて針を落としました。化け物は月の光に照らされて、美しい女の姿に化けたのです。

 化け物の、瞳は男が愛したタイガーアイ、茶の髪は男が愛したライトブラウン、歪んだ唇は男が愛したダスティーピンクでした。額には男が持っていた物とよく似た針を突き刺していました。

 前髪の下から流れる鮮血を拭い、化け物は男の目を覗き込むように見上げました。


「そうです、あたしです。貴方の愛した『先生』です」


 化け物は喉をくつくつと鳴らして笑い、夜空に輝く三日月と同じ目をしました。


「何故、君が……」

「あたしが、全部全部、壊してやりました。アナタの一番の宝物だったでしょう。とっても、とっても綺麗で、美しい蝶々達でした」

「……あれは、僕の宝物なんだ」


 不気味な笑い声は、またアハハハ、と笑い袋が壊れたような声へと変わり、益々化け物の月は欠けました。


「それはそれは、残念でしたねェ。あたしのせいで、全部全部、粉々になって、本当に、本ッ当に、可哀想ですねェ」


 化け物は華奢な指を、割れたガラスの方へと向けました。その手にも、標本に使う太い針が刺さっていましたので、男は絶句しました。

 足の先から頭の先までを食い入るように見てみれば、化け物の両足には二本ずつ、化け物の両腕にも二本ずつ、胸元には一本、額には一本と、針が刺さっておりました。

 男は、イトで引かれるように、恋人の顔をした化け物へと足を進めました。豹変した顔付きにも、男は目を奪われていました。男は、まるで赤子を抱くかのように、優しく優しく化け物を抱き寄せると、アイに表情を染め上げました。


「可哀想、可哀想。結局、アナタの手元に残ったのは、何れ死に行くちっぽけな石っころなんですもの」

「嗚呼、そうだとも、儚く無常な、宝石だけなんだよ」


 化け物は、アハハハハ、ともう一度狂笑した後、徐々に笑い声を萎ませて、縋るように男の背を抱き締め、打ち震えて涙を流し始めました。ガラスの破片で傷付いた化け物の指は、真っ赤に染まっておりました。男もカナしそうに眉を下げて、化け物の乱れた髪を柔らかく撫で付けていました。

 男にとっては宝石と呼ぶのに相応しいのは、恋人の知識より、人格の方であったのでした。男は芸術の道を志していた訳ではなく、凡人の目で判断したものですが、男は先生に可塑性を見出したのでした。

 原石同然に見えた、極普通の人間である先生は、良いもので研げば、キラリと煌めく宝石に開花します。鋭く磨けば、ギラリと鋭い光を持ちます。他の介入によって益々輝きを花開かせる、変わり行く美しさを持っているのでした。

 二人の目の前で、たった今、一つの蛹から新たな蝶が生まれました。妖しく羽をはためかせる蝶には敢えて針を刺さずに、針を抜きながら、救急箱を手にして傷口にガーゼを貼りました。

 ヒステリーの波が引き、突然崩れ落ちた恋人を抱き上げて、男は恋人の部屋へと歩いて行きました。屋根に止み始めた雨がぽた、ぽたと打ち付けて、鼓動のようなリズムを奏でています。痛みに小さく呻く恋人の頭を撫でながら、男はチープな笑みの下で、「永遠」に嫉妬した「流転」にエクスタシーを噛み殺していました。

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