産道から巣立つ

 我々は昔、母胎にいた。

 温かく、優しく、愛と安定性のある空間にて、我々は永住を望んだ。世間の母親達は、我々胎児が望んでこの世に生まれたと言うが、まさにその通りだと思う。

 矛盾しているようだが、我々は胎盤の中に永遠に留まり続けた場合、胎盤機能は低下し、羊水は減り、我々は死んでしまうだろう。

 だから、永劫の温もりを求めていたが、それ以上に生存することを望み、外の世界に怯えながら、期待しながら、我々は産道を通ってきたのだ。

 さて、さらに遡れば、我々は卵子と精子とでバラバラになっていた。我々という生命は受精をした瞬間に生まれるというのが一般的な説だが、そんな正論はどうでもいい。とにかく、我々は安寧の地である親の卵巣、精巣から、生きて行くために放たれた、否、望んで出て行ったのだ。

 生きる為に結ばれた我々は、生きる為に一歩を踏み出した。それは太古の地球──そもそも生命というものが発生した時──から変わらないことだ。

 然し、大抵の人間はそれを分かっていない。何故なら、我々は今、安全で、優しい世界に生きているということを考えたことが無いからだ。もう生きる為の一歩を踏み出す必要は無いという傲慢に満ち溢れているからだ。

 猿だって鳥だって魚だって、今もゆっくりと別の個体に進化し続けているというのに。進化し、生き続ける為には、苦難が伴う。

 さて、人間はどうだ。苦痛や試練はあれど、我々に待っているのは「死」という概念らしい。

 勿論精神的な進化は苦痛や試練の後に待ち受けているが、我々の身体的な進化は何処に待っているのか。我々の身体は、死ぬ為に苦難を乗り越えるのだろうか。

 そんなのはおかしい。何の為に我々は苦痛を味わうというのだ。人間社会においてはヒエラルキーなどという簡単な構造では言い表せない階級があり、それによって生と老と病と死に怯えながら、精神的には愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦に悩まされる。天敵のいない安全な世界に我々は存在する。

 つまり、我々に待つのは「死」などではない。我々は現在、天敵のいない温かい大きな胎盤の中にいる。そして、「死」という終わりではなく、新たな世界に旅立つ為の始まりを目指して、我々は四苦八苦を乗り越えるのだ。それはまるで、鯉が滝登りをして龍になるように。

 我々は苦悩を避けてこの世に居座った時、初めて「死」という生命の終わりを迎えるのだ。

 然すれば、どうして私がビルの屋上の柵を乗り越えたことが、狂人じみた所業と言えようか。私はたった今、まるで巣立ちをする雛のように、高くて危険の多い場所から飛び立とうとしている。

 卵の中で丸くなっていた雛は、翼を広げた瞬間に進化するのだ。それと私の、何が違うというのだろうか。

 恐怖に打ち勝ち、苦痛を乗り越え、新たなる生命へと進化をする。我々は天敵のいない母胎に今もなお存在する。其処から、新たなる誕生をするのだ。

 我々の決断と進化は、常に生命をより良いものにして来た。それなのに、何故人々は自らもう一度望んで新たな世界へ進もうとしないのか。

 もしも──勿論、無神論者の私なりの考えではあるが──新たなる世界など存在せず、我々の生命は、生きたいという意志は、今度こそ終わりを迎えるのならば、生命は最早進化しないということなのだろう。

 私はどうすれば良いのか。

 そしたらそこまでだ。私は、我々は、今までずっと、危険の無い優しい世界で生きていながらも、無数の苦痛に襲われてきた。せめて何か報いがあったっていいじゃないか。おそらく私が人間でなくなることは確かだが、その先に待つものこそが私にとっての、我々無知な人間にとっても、報いなのではないだろうか。

 然らずんば、どうして「死」の瞬間に痛みがあるというのだ。当然、赤子が頭蓋骨を変形させて狭い道を通り抜けてくるのと同じ原理だ。これは未来への順応だ。だから、たとえ目の前に地面が近づいても、何も恐れることなど無い。そもそも、恐怖は進歩において必須なのだ。

 自殺は迷惑で、誕生は歓迎などというこの世の中に、これら二つに違いなど無いことを、私が、私自身が、証明するのだ。だから、ぐちゃりと何かが潰れる音がしても、何かが折れる音がしても、意識が遠のいても、大丈夫。次に目を覚ます時には、私はきっと

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