幸せになれる三つの方法
「幸せ」とは何だろうか。
とある人は、個人個人が幸せであれば社会全体が幸せになると説いた。
とある人は、少数の幸せを犠牲にして多数の幸せを犠牲にすることを良いことと評した。
とある人は、誰かの幸せの為に他者が最大限関与すべきだと言った。
またとある人は、誰かの幸せの為に他者が干渉し過ぎるのは良くないと唱えた。
兎にも角にも、私には「幸せ」とは何なのかが分からない。
幾ら勉強しても、脳内に記憶した 幸せ の定義が増えていくばかりだ。実際に感じたことなど一度も無かった。僅かな嬉しいことはあれど、それが心を満たすことなど滅多に無い。最早紛い物の 幸せ は、自分に更なる巡り合わせを期待させておいて突き落とすものでしかなかった。
自殺を考えていたその時手に取った本が、酷く薄い本であった。
『幸せになれる三つの方法』。
三百円で買える程の簡単な本だったが、多くの人が読んで酷く傷ついていた。図書館の中で何故か古強者であるかのような素振りを見せるその本に強く惹かれて、思わずその本を借りていた。
惹かれた、というより、このように簡単に人々を騙そうとするこれを、少々憎んだのだった。そして、馬鹿にしつつ、興味に駆られて手にしたという、捻くれ者の所業だ。
家に帰って一ページ目を開けば、作者の前書きが書いてあった。
『この本を読んでいる皆様は、幸せになりたいと一度でも思ったのでしょう。
そんな皆様に、私は三つのことを、捨てる、ということをご紹介したいと思います。
これさえすれば、皆様は必ず幸せを見つけられることでしょう。』
だいたいこのような内容であった。
今まで多くの哲学者が長い間「幸せ」について考え、悩み、整頓して、その一部を我々に公表した。この偉業を、おそらく筆者は半分も経験していないのだろう。哲学者は一生を自己の探求に費やす決意ができるが、我々は自己の探求をそのうち諦めてしまうからだ。
然れど、私は読むのを止めなかった。これをやっても無駄なら「幸せ」など存在しないのだ、と、妙な確信を持っていて、私はこの本に載っている方法を実践しようとしていた。
『一つ目、地位を捨てましょう。
貴方が抱えていた地位を全て捨てましょう。会社の中の地位、労働者という尊厳を捨てましょう。貴方を縛り付けているのは地位故の向上心と優越感なのです。そのような無駄な束縛からは一度逃れてみましょう。』
私は書かれている通りに会社を辞めて、会社での立ち位置も降り、今までの栄光もかなぐり捨てた。
冠を投げ捨て、首輪を外せど、心に大きな穴を残していっただけであった。満たされない虚無感に、「幸せ」などという言葉は存在しなかった。
『二つ目、富を捨てましょう。
持っているお金も、物も、家も、才能溢れる成果物も、全て捨てましょう。貴方を縛るのは虚栄心です。物が無くなれば、最初は動揺し、不安になりますが、何かを得られるというありがたみを知り、貴方も幸せになれることでしょう。』
私は書かれている通りに金を、家具を、作った作品を、全て捨てた。成長していくにつれ、富を手に入れる方法を学び、這い上がって行ったが、それらの全てを捨てた。ただ一つ、拠点となる仮住まいは捨てられなかったが、部屋は空っぽになった。
自分の愛した成果物や金を捨て去り、自分の努力の結晶が燃え消えていく姿を見ても、心は救われなかった。苦しみと熱気と飛んでくる灰とによって、涙が止まらなかった。
『三つ目、人を捨てましょう。
貴方を愛した親も、友達も、同僚も、子どもも、全て捨てましょう。人を如何なる形でも良いので捨てましょう。貴方を縛り付けているのは責任感なのです。責任から解放された時、貴方は貴方の為だけに生きて行くことができます。』
私は書かれている通りに全ての連絡先を消し、携帯をも捨てた。そもそも家族もいなければ、私の家に友、即ち私を支えた仲間が来ることは滅多に無いので、電話線を切ったことにより、誰も私と話すことはできなくなった。
『全てを捨てた貴方は今、幸せです。』
本と二人きりになって、私は空っぽの部屋でぼんやりと宙を眺めていた。
生まれた時から支配されていた奴隷は、突然外に放されると混乱するというが、その時によく似た感情を抱いていた。自分から求めていた覚えは無かった仲間を拒絶して、途轍もない寂寥感に襲われた。
奴隷は解放されることが、必ずしも「幸せ 」には直結しない。
弱々しい手つきでページを捲り、筆者の後書きを見た。
『これを実践した皆様は必ず幸せになれます。然し、人には虚無感というものが存在します。
三つのものを捨てた皆様は、おそらく虚無感に襲われて悲しみを覚えることでしょう。
これは有り得ないことではありません。
ここで、最後まで呼んでいただいた皆様に、もう一つ幸せになれる方法をお教えします。』
最後のページには、もう一つの 幸せ の形が綴られていた。
『四つ目、自分を捨てましょう。
これだけは、貴方に虚無感を与えません。』
私は確かに「幸せ」ではなかったけれど、純粋に胸が躍っていた。
梁にロープを掛けながら、何故最後のページを最初に読まなかったのだろうかと唯一の後悔を思うた。
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