再会への序曲
アクアマリンがいっぱい流れているかのように、煌めく水色の海。白い砂浜と同じくらい白い肌をした少女が金髪を風になびかせる。私の名前を呼ぶ透き通ったダイアモンドの声は、耳をくすぐって私の胸に落ちた。
──ナギ! 海が綺麗だよ!
青空に負けないくらい澄んだ青の瞳が、水平線の彼方を見つめていた。まだ若い私に少女への気持ちは無かったが、確かなときめきが私の胸で弾けていた。
漣が少女の声をかき消す。
◆
ほとんど意味を成さない目覚まし時計が鳴り響いていた。いつもと変わらない午前五時の朝は、爽やかでもない暖かさで目覚めが非常に悪い。まだ四月だというのに、夏並みの暑さで腹が立つ。夢の中も暖かい夏だったが、もっと乾いた空気だった。
アメリカの夏は日本の夏より遥かに過ごしやすい。四年前の研修旅行はとても快適に過ごせた。これであの時海に行っていれば良かったのだが。
──ナギ! ホームパーティをしましょう!
まだ母親は寝ているだろう。家を出て自転車に跨るも、今も煌めく海面の夢から目が覚めない。恐らく授業を受けても尚目は覚めないであろう。
今までも何度も有りもしない回想を夢で見た日は、一日中そのことで頭がいっぱいで、一日中を楽しめそうもなかった。何を考えるにも、あの金髪の少女の顔が見え隠れするのだ。
電車内で、働く人間その二十四くらいになって揺られていても、私は働く人間達の中に少女の姿を捜してしまう。もう私が二十歳目前なのに、少女は少女のままで居る訳が無いのだが。その証拠に、今日も私のスマートフォンはアルバイト先からのメールを通知する。
少女の名前は、エリアスといった。
私にも彼女が居たことは有るが、その時も有りもしない回想を夢で見たことが有る。今でこそ彼女の居ない日々故に見たのだと考えられるが、こんなにも長い間付きまとう回想にはやはり複雑な思いを抱かざるを得ない。
「あ、ナギ君じゃん。おはよ」
「え……おはよ」
普段顔も合わせない女子から声をかけられた故に、微妙な反応しかできない。挨拶すると、やけに近寄ってきて、私は避けようにも避けられなかった。一緒の車両で会わなければ、こんなことにはならなかったのに。
一方的に喋っている女子の話を聞きつつ、また回想に耽る。エリアスもこんな風によく喋る人だった。電車内では流石に喋らないが、電車を出た瞬間弾けたように喋り出す。電車内で話すにしてもあまり大きい声では喋らない。
本人曰く「外の景色が見たいの」だそうだった。笑顔が若草色に萌えて、青の瞳が煌めいて美しい自然に降り注ぐ。僕は拙い言葉を楽しむより、エリアスの美しい姿を見ている方がずっと幸せだった。
「ねぇ、どう思う? これぇ」
「それは災難だったね……」
「そうなの! もうホント最悪でさぁ……」
女性の愚痴というものには、共感してあげるのが一番効く。この、髪を茶髪に染めて、付け睫毛とカラーコンタクトで目元を大きく見せる女子は、同じくらい大きな態度で人の悪口をまるでこの世の常識を語るかのように大声でがさつに話す。
エリアスがたくさん話すのに私を疲れさせなかったのは、自分の好きなことをたくさん話してくれたからだろう。あまり理解できない価値観でも、エリアスが笑うと私も自然と心が弾んだ。
──あのね、私はあの海が好きなの!
指差す先に見えたのは、何処までも続く水平線と、キラキラがいっぱいに広がる青いカーテンのような海原だった。車窓を開けて顔を出して海を覗くエリアスも、それと同じでキラキラ輝いていた。白い砂浜はエリアスの肌のようだったのだ。
今、車窓から外を見てみても、立ち並ぶ無機質なビルだらけだ。隣の心が汚い女子は口を閉じることが無い。少なくとも、アメリカの夏の方がもっと涼しくて、色が付いた日常を送れていたのに。
「だけどぉ、ナギ君っていい人だよねー。だって前の彼女のこと大切にしてたじゃん。何で別れちゃったワケ?」
「どうやら俺は2番目の奴だったらしいんだよね」
「うっわぁ、何それ! 何、その女……」
変に同情する黒い女は、どうやら私のSNSでの情報を見ていたらしい。同じ学部だとはいえ、交流も無い男をよく知っているとは、なかなか不思議な気がするが、恐らくそれが普通なのだろう。ついて行けないのは、私だけのようだ。
電車が止まる。ドアが開いてくれたおかげで、女を振り切れる、そう思ったのだが、女はそれでもついて来た。誰にアピールするのかも分からない胸元の少し開いた服が揺れる。
「一緒に行こうよ、ナギ君」
「えっと、いいよ」
まだ時間には余裕が有る。ついて来る女子を横目に、また歩き出した。
今日は授業も少ない。ゆっくり歩いて行って、ゆっくり現実に戻っていこうと決めた。女子の話を片耳で聞きながら、灰色の日常にやっと足を踏み入れる。
◆
人間は時に明晰夢を見る。私が今回夢を明晰夢にできたのは、昨日火傷してしまった筈の手が無傷だと気付いたからだ。側でエリアスがふわふわと笑う。また有りもしない回想の海で泳いでいた。
エリアスは夕日を浴びて白い肌を一層輝かせる。私はせっかくの明晰夢を利用して、自分の望んだ質問をエリアスに話した。未だに英語はしっかり覚えている。
「エリアスは今、どうしてるの?」
「私? 私は、前に言った夢を叶える為に大学に行ってるよ」
「そっか。一人で住んでるの?」
「うん。もうお母さんとお父さんとは住んでないの」
今聞いても所詮夢の中、全く意味が無いことだが、どうしても聞きたくなってしまった。今聞いておかないと、もう二度と聞けないような気がしたからだ。
エリアスの微笑みも、もう夢でしか見られない。ブルーの憂鬱と煌めきは夢だからか、軽くくすんで胸に落ちた。
じっとエリアスの顔を見つめると、曖昧に笑う度に肺が温かくなる。心臓が耳元に在るみたいに身体中が鼓動する。本当に、今になってエリアスに恋をしているらしい。これが明晰夢であれど、本当の気持ちだということはしっかり分かった。
「ナギ、ナギはどうしてるの?」
「え……普通に大学で勉強してるよ」
「そうなんだ。また会いに来てくれるの?」
「でも、君の住んでる場所が分からないから」
エリアスは切なそうに海を見つめ、そのまま目の前で砂に変わって消えてしまった。その砂にダイアモンドが落ちているかのように、細かく輝いている。
エリアスが消えたことに本当に慌てた私は、明晰夢から目覚める方法と言われているものを試した。思いっきり転がるというものである。砂に思いっきり転がって、近くの物にぶつかった。すると、痛みと同時に、視界が閉じた。
◆
「もう講義は終わったぞ」
隣で友達が私の身体を揺すっていた。講義最中に眠ってたらしい。自分のノートには途中までしか書かれていない。友達が差し出したノートにはちゃんと最後まで書かれていた。私に見せる為に書かれているかのように分かりやすく綺麗にしてあった。
次の授業は休みなので、ノートを受け取って写し始めた。時間は有り余っている。ノートには美術系の大学なだけあって、そういう難しそうな単語が並べてある。廊下に出れば、飾られているたくさんの美しい絵が私を見下ろしていた。
──また会いに来てくれるの?
夢で何度も会えるから、エリアスのことは描ける。しかし、生き生きとしたエリアスは、夢の中で惚気でぼやけて全く憶えてない。もし次に会えたなら、エリアスのことをしっかり写真に、絵に──何にでも、収めたい。
「ナギさ、次授業なんでしょ」
「そうだけど、ユウは?」
「俺はこれで授業終わりだから貸してやるよ。明日持ってきて」
「そう? ありがとう」
ユウがノートを置いて机を離れた。ユウの絵は実に写実的で、講師達の評価も良い。ユウが描く美しい景色は私も大好きだ。
絵の描き方を教えてくれ、と頼んだことも有るが、ユウは、感覚で描いてるから、と冷たく返した。私も絵は描くが、あまり上手ではない。その度に美術系の学校に入ったことを後悔したくなる。
高校一年生の時に、難関校に受かったご褒美だと半ば強引に親に送られたアメリカへの研修旅行で、一ヶ月のホームステイを経験した。その時はただスポーツと同じくらい美術が好きで、少し点が取れる程度で、何をするかも決めていなかった。
英語もあまり上手く喋らず戸惑ったが、同い年のエリアスはジェスチャーを使って私とコミュニケーションを取ろうとしてくれていた。ホストファミリーは皆 優しくて、私にひたすら英語を教えてくれた。
エリアスは今、何をしているのだろうか。
エリアスと過ごした一日々々がとても貴重なもので、その頃は恋慕こそ抱いていなかったが、その頃からエリアスは私にとってとても大きな存在であった。
水色のシンプルなワンピースに、靡く金髪。何故日焼けしていないのかと疑ってしまうような白い肌に、海の底のような青。エリアスはどうも一般人離れしていて、私がもう少し小さかったら女神と見紛うところだった。
さらさらと砂になって消えたエリアスは何を思ったのだろうか。例え私の妄想だとしても、夕日を浴びて憂うエリアスは、今何をしているのだろうか。会いに行ける程の資金も、エリアスの居場所も分からないというのに。
──今、どうしてるの?
何気無く手に取ったスマートフォンが、私の行き先を示す地図になるかもしれない――そう気付いた時には、SNSを開き、エリアスの名を探し始めていた。見つからなければ、エリアスの親の名前を探した。今時、調べようと思えば、せめて私がホームステイした家くらいは住所が分かるだろう。ストーカー紛いの行動だが、こうすればエリアスが何処に居るのか分かるかもしれないのだ。
大学に居るなら、大学に。就職しているなら、手紙を出してから会いに行ける。連絡も取れないのだから、消息だけでも知りたかった。ノートを投げ出し、スマートフォンを船にして大西洋を渡った情報を探し始めた。
◆
「こんにちは」
エリアスの家を訪ねる。中からはエリアスの綺麗でダイアモンドの輝きを持った歌声が聞こえてくる。夏の白い砂浜を思い出させる透き通った声だ。一度チャイムを鳴らしても気付かないようで、懲りずにもう一回チャイムを鳴らすと、ドアが勢い良く開いた。
エリアスは髪をポニーテールに結んでいて、昔見たエリアスよりずっとずっと大人びた姿になっていた。エリアスは澄んだ笑みを浮かべて口を開いた。
「久しぶり、ナギ」
◆
目覚まし時計がけたたましく鳴る。今日は珍しく涼しい。しかし、外を見れば日本らしい灰色の世界が広がっていて、何も変わらなかった。まだ四月だというのに、暑い日々が続いていたが、今年は去年と違っていつもいつも暑いわけではないようだ。
夢の中のアメリカはもう少し寒くて、長袖を着ていて丁度良い程だったというのに、日本の春ときたら。
いつもと変わらない午前五時。土日だというのにバイトの所為で休めそうにもない。まだ母親は寝ているだろう。冷たい風を受けて自転車に跨り、道路へと漕ぎ出すと、夢の中に似たような気温になって、ほんの少しだけ心地良くなった。
──また会いに来てくれるの?
アメリカに発つ為の資金集めのバイト故に、文句は言えるが行動はできない。これは自分が飛行機に乗る為、少し向こうで生活する為の苦労だ。
電車に揺られるのも、暑くて怠くなる春を過ごすのも、全てはこの為なのだ。エリアスの笑顔が青を帯びて灰色の世界をちょっとずつカラフルに変えていく。
相変わらず、私は色の無い人混みの中にエリアスを捜してしまう。こんなところに居る筈も無く、アメリカの大学で勉強をしているのに。
昨日、やっとのことでエリアスが通うのは何処の大学なのか突き止めたところだ。しかし、まだ学部は分かっていない。
エリアスの両親はまだホームステイ先に住んでいるらしい。エリアスが一人暮らしなのかまだ実家に居るのかは把握できていないが、両親は変わらず住んでいるようだ。住所も分かったので、今年にでも手紙を送ろうかと思っている。消息も掴めなかった一年前に比べたら、相当の進歩だろう。
「もしもし。今 何処に居るの?」
「ごめん、電車の中だから。また掛け直す」
ユウに紹介されて新しく始めたバイトはそんなに難しくなく、給料も普通なのでとてもやりやすい。帰りにはユウと勉強をして帰ったり、絵を教えてもらったりできるから、本当に助かる土日だ。強いて嫌なところを挙げるのならば、土日も早く起こされて電車に乗らなければならないことくらいである。それを考えても、プラスになることをしていると思えた。
親も、久しぶりにホストファミリーに会いに行きたい、と言って自分で貯めたお金を出せば、文句は言えない筈だ。目的地も決まっているのだから、お金さえ貯まれば実行は目の前である。
キャンバスを持って、エリアスの美しい姿を描いて、エリアスに今の気持ちを伝えることは、そう難しいことじゃない。
──久しぶり、ナギ。
灰色の世界に、すうっと通る声が風に乗って飛んで行く。その先には、夢で見た海辺が在ると信じて。
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