味見


 時はまだ真夏の暑さが残る秋の初めでした。

 私は夏休みも明けて気持ちも緩んでしまって、学校に来るのにも足がどうにも重たくて、先生のお話が珍しく念仏のように聞こえて、私は暑さにも怠さにも頭をがんがん殴られてバテてしまったかのようでした。

 周りの人のお話も、夏は楽しかったか、とか、彼氏は出来たか、とか、そういう在り来たりなものばかりで、私のように夏休み中はぼんやりと演劇部の練習に身を浸していたような人には気乗りしないお話ばかりでございます。

 私は派手で乙女らしい女ではありませんので、百点満点が付くような夏の楽しみ方などしなかったのです。

 どんどん熱を帯びる話題といえば、やはり恋仲のものとなります。

 担任がお話になることも全く聞かずに齢十六の女子生徒達は、あの人は隣のクラスの子が好きらしいよ、とか、あの人はやっと付き合い始めたらしいよ、とかお喋りが絶えないのですが、お恥ずかしいことに、私はどうもそういうものに疎いので、恋人と呼べるような人は今まで出来たことは有りませんし、ただただ窓の外を見て、夏なのに空が綺麗だったなぁとか、秋なのにこんなにもお天道様が近いなぁなどと考えている他無いのです。

 担任が、ほら前を向きなさい、新しい先生を紹介しますよ、と手を叩きながら言うと、新しい先生という言葉に反応したようにお喋りが止みました。

 私も前を向けば、其処には見慣れない男の人が居たのです。


「今日から副担任が変わりますので、挨拶と自己紹介をどうぞ」


 男の人は決してティーン向けの雑誌に載るような美形ではなく、中の上といったところでした。たいへんロマンティックな言葉を並べて、私達生徒に会えた喜びを慣れたように仰ります。

 笑いも巻き起こる中で、私はただただ、耳を澄まして強く集中しています。古風で丁寧な言葉の選び方は、今の季節にぴったりな紅葉の味を感じました。

 心地良く低い声に、秋の味を帯びた言葉。恋に無頓着な私には、そのロマンティックなスピーチと平均的な顔だけで充分でした。

 嗚呼、これが可愛らしい桃のような乙女の言う、「一目惚れ」というものなのでしょうか。

 自分の不細工な顔がどう歪んでいるのか恐ろしくて思わず寝ているフリをして顔を隠してしまいました。まだ年端もいかないような子どもみたいな顔が似合わない乙女の顔に変わったのかと思うともうお腹の芯がぶるぶる震えて冷たくなって仕方がありません。

 けれども、私は暫くすると顔を上げて、先生を目で追い始めてしまいました。一つ一つの仕草が可愛らしく、誇り高く見えて、ロマンティックでキザな姿が本当に恋しくてたまらなかったのです。

 だけれど、これが恋なのかは私は恋愛に長けていないので全く分かりません。自分のことだというのに。

 先生を見つめている時は、暑さも止んで、風も止んで、まるで時間が止まっているかのようでした。



「先生、知識って何ですか」


 慌てて俯きました。先生がきょとんとして此方を見つめてきたからです。

 完全におかしな人だと、狂っていると思われたのではないかと冷や冷やした所為で、先生の顔もろくに見られませんでした。

 少し上を向くと、先生の少し黒く焼けた肌に金の高級そうな腕時計が視界に移りました。

 恥ずかしい、恥ずかしいと顔を伏せて腕を後ろに組んでいると、先生は授業中と同じ少し低めの声で私に話し掛けてきました。

 瞬きができなくて、息もできなくて、乙女が胸がきゅんきゅんすると言っている感覚は息が吸えないからなのだと理解できてしまいました。


「面白い質問だね。うーん、俺は……お金を稼げるものだと思ってるよ」

「え……?」

「ごめんね、そんなに格好良いこと言えないんだけど」


 先程まで新しく始まって二回目だというのに自分のペースを守ったロマンティックな授業をしていたというのに、先生はあまりにも正反対なことを仰りました。寧ろリアリストが言うような発言でした。

 失礼にも無意識に戸惑う私を見て、先生は苦笑いしてしまいました。嗚呼、なんと情けないのでしょう、私は先生を困らせるようなことばかりを言ってしまっているのです。

 大して可愛らしくも無い不揃いな顔を上げて頭一つ分大きな先生を見上げました。また言葉に詰まって、肺がきゅうきゅう音を立てそうでした。


「先生はリアリストなんですね」

「本当はこんなんが国語担当とか怒られちゃいそうですけどね。文学は好きだけど、ロマンティックなことはあまり得意でないもので」

「私は本を読む度に物語に浸かってしまうので、いつも現実染みたことが言えなくて……」

「それって良いことだと思うけどな、俺は」


 先生は薄く笑みを浮かべて、教材を片付けながらそうお世辞を仰るのです。

 嗚呼、自称リアリストから何故、そして何処からこのような人を落とす言葉が出てくるのでしょうか。罪な人です。恋に未熟な少女には罪でしかありません。

 周りの人は皆、普段教室の端で静かにしている私が喋っているのが珍しいのか、まるで新しい動物を見るかのような食い入るような目で見てきます。私の後ろで組んだ手に力が入っていきます。

 先生は結局その後私が喋るのを待っていました。どうにかして私と先生だけの時間が欲しくて欲しくて、人見知りでコミュニケーション能力が微塵も無いような頭を必死に捻りました。つい私が自分のことを語ってしまっても、先生は優しく笑いながら私のことを見下ろしてくださいました。目の深茶色をより一層深くしてまるで海のような瞳をしていました。


「あ、そろそろ行かなきゃ。またね」


 小さく手を振って教室を出て行く先生を見届けて、私はチャイムが校舎中に鳴り響くまで心臓の鼓動を耳でずっと聞いておりました。

 本当に私はこのようなことは生まれてこの方無いもので、最初は風邪でも引いてしまったのではないかと本気で思ってしまいました。きゅうきゅう鳴りそうな肺は少し熱を持っているように感じます。

 先生の優しい声と愛らしさとが頭の中でぐるぐる回るばかりで、もう私の目は釘付けになっていました。次の授業が始まっても、これが本当に自分なのかと怪しくなって、まるでピンクのお茶に白いミルクをゆっくり注いでくるくる回すような色に頭の中が染まっているように感じました。



「先生は、どうして先生になったんですか?」


 この聞き方は良くなかったなぁ、と言ってから気付きました。国語の先生相手なので、この言い方ではまるで相手を非難するように聞こえてしまうことを知っております。ですから、きっと周りの目は一瞬で冷たくなっているでしょう。

 しかし、先生は一つうーんと唸って、生徒に貸していた教科書をひらひらと振ってから、溜めもせずにさっぱりと答えてくださいました。


「何となく、ですよ」

「何となく、ですか?」

「俺は文学が好きだったからそっちに進もうと思ってた時に、国語の先生もいいかなって思っただけだよ」

「全く先生の道は考えていなかったんですか?」

「うん。思い付きでなっちゃったんです」


 恥ずかしい程に驚いてしまいまして、その後の言葉が見つからないでいました。先生もそんな私を見て、困ったように眉を下げて笑うのです。

 慌てて何か言おうと思いつつ後ろの手をぎゅっと握っているだけになってしまいまして、この沈黙をどうしようか、とか、集まる女子生徒達の視線をどうしようか、とか、そういうことを考えて鬱々としておりました。

 すると、先生が明るく爽やかな声を再びかけてくださいました。


「別に、その時やりたいことをすればいいと思うよ。周りに反対されるとか、少し辛くなるとか有るけど、本当にやりたいと思えたことなら頑張れると思うから」

「本当に、ゆっくりでいいんですか?」

「気が向いたから勉強した、でも先生にはなれるし。でも、夢を持ってるなら今のうちから頑張っておくといい人になれると思うよ。って、君は先生になりたいなんて一言も言ってなかったっけ」


 白い歯を少し見せて笑顔になる先生を見ておりますと、見栄とか不安とか、心の中に在るもやもやした重い塊が微風と共にすうっと透き通った宝石になるような気がしました。

 金色の腕時計が先生の細い腕で光っております。それさえも愛しく思えてしまって、きっとそれは羨望とか、格好良いとか、そういう気持ちを纏めたものなのでしょうが、ただただ溜め息を吐いてしまいそうな熱い燻りが心の中で溜まっていくのでした。

 先生はチャイムが鳴る数分前まで私に話しかけて、また一度目のお話のように慌てて中断させて、小さく手を振って教室を出て行きました。今度は焦って席に着いて、何事も無かったように地味な女子生徒を演じます。そうでなければ、私がこうして浮き沈みしている間抜けな顔が見られてしまうからです。

 これも全て、あの先生がいけないのです。耳には爽やかな声が残って、息が詰まってぎゅっと自分の身体を抱き締めたくなってしまうのです。



「あまり関係無いことなんですが、先生」

「どうしたの?」

「その金時計って何ですか?」

「あー、これか」


 眼鏡の奥の目が細くなりました。あまり言いたげでないことを聞いてしまったような気がします。

 風が外から強く吹き付けて、開けっ放しだった窓が大きく開いてしまって、置いていたプリントがばさーっと宙に浮いてしまいました。直ぐに拾うのを手伝い始めると、先生は私に軽く礼を言って、窓を閉めました。

 入り込んできた小さな紅葉を見つめながら、先生はそれと同じくらい赤と黄が混じったような色の溜め息を吐きました。


「……これ、元々付き合ってた人から貰った時計なんですよ」

「えっ……つまり、前、これくらいまで付き合ってたってこと、ですか?」

「浮気されてたんだけどね」

「……そ、それは、大変でしたね」

「で、折角貰ったんだから使おうかなって」


 そう笑顔で言う先生を見て、女子生徒達は、どんな人だった、とか、今でも好きなのか、とか囃し立てるように先生を見つめてクスクス笑っていました。私は団結した女子生徒達に気圧されるように黙って、後ろで組んだ手を握り締めることしかできませんでした。

 嗚呼、この爽やかな青年も他の人に抱かれたことが有るのでしょうか。今でも愛する気持ちを持っているのでしょうか。

 そうだとしたら、このやりきれない心の刺々しいものは何処に追いやればいいのでしょう。金時計が途端に鍍金の塗られた物にさえ見えてしまいます。嗚呼汚い、汚らわしい。きっと私の顔は般若のように歪んでいるのでしょう。

 ほんの少し耳を傾けるだけで、私はもう話せません。ふつふつと盛り上がって落ち着かない、この黒い惨めな黒い薔薇を隠すのに精一杯なのです。


「今はもういいかな。それに皆、俺の恋愛話に興味有り過ぎじゃないの?」

「良かったー、先生がまだ好きとか言ったら狙えないじゃん」

「何それ、告白?」

「嘘だけどね!」

「えー……」


 困ったように笑っている先生を見ていると、胸に挿した黒い薔薇で女子生徒達の喉をかっ切ってやりたい衝動に襲われます。眼鏡の下から覗く細めた目が私の方を向いていればとも思ってしまいます。私はなんて醜いのでしょうか。

 金時計を手首から抜いてしまいたくなる気持ちを抑え込んで、私は静かに席へと戻りました。

 爽やかな声が耳に貼り付いて、足が固まってしまったようでした。もう女子生徒の甲高い声に頭痛が起きてしまって、先生の笑顔が少し霞んでしまいまして、私は何をしてるんだとか、馴れ馴れしく話している私って何なんだろうとか、そんなどうしようもないことをぐだぐだ考えてしまいました。

 このくだらない嫉妬心と自己嫌悪が恋だというなら、恋とはまさに難病でした。この病気には薬など有るのでしょうか。齢十六の私には分かりそうにはありません。たった一年で変わってしまうかもしれない先生への想いがこれからも続くのなら、私はどんな顔をして先生の声を聴いていれば良いのでしょうか。



「私、人見知りなんです」


 先生はまたいつもの爽やかな笑顔で、そうなんだ、と答えてくださいます。

 前回はタイミングを逃して話せなくて、他の女子生徒達と話に花を咲かせる先生を見つめていることしかできませんでした。

 もう出会った頃の残暑は嘘のように無くなって、すっかり空気は焦げ茶の涼しさを連れてきます。

 生徒達はまだ夏の匂いをさせているのに、先生はいつもいつも秋に染まった紅葉の香りをさせているので、先生のお話を聴いているだけでどこか赤く熟した空気を感じるのです。それが非常に心地良くて、ただの女子高生のフリをするのは容易いことでした。


「そうなの? 俺はそうじゃないと思ってたんだけど」

「私、先生と話せるとか思ってなかったんで……」

「先生も人だからさ。それに、多分この高校の先生は割とお話好きが多いと思うし」


 本当に先生の言う通りでございます。先生は私に授業の話を教えてくださる時も、とても楽しそうになさっていました。

 話す時も、先生の頭一つ分高い顔を見上げて、黒板に何か書いてくださる時もとても私との距離が近くて、迷惑なのではないでしょうかと思いつつも、何かを書く度に振り向いてくださって、それを想うだけで綿菓子と生クリームとキャラメルとマシュマロと、この世のいろんな甘い物を混ぜ合わせた味のする桃色の溜め息が出てしまいます。

 奥に在る黒い色の液体が、こんがりと焼けたキャラメルで、苦い物だと言うならば、恋とはスイーツのようなものなのかもしれません。くどくて胸が痛くなりますが、とても甘美で美しい、でも無くなってしまう時が来てしまう、切なくて惜しいものなのでしょう。


「先生になると忙しいんですよ? だから、教員同士のコミュニケーションとか疎かになってしまうけど、生徒達とは話せる時は話そうと思ってるよ」

「毎回話しかけたりしても、迷惑じゃないんですか?」

「多分、大丈夫だと思うよ」


 先生はにっこりと笑いますと、外から吹き込んできた枯葉を手に取りまして、窓に近寄って枯葉を下ろしてやりました。

 ふふふ、と小さく笑う先生は非常に愛らしくて、深い深い秋の色を帯びています。きっとまた月日が過ぎて、白い冬に包まれたとしても、先生はいつまでも紅葉の香りをさせるのでしょう。

 そんな先生のお側に、少しでも長く居られたならば、それ程嬉しいことは無いのでしょう。


「どんどん話してみると、いろんなことを学べると思うよ」

「そう、ですか。私も、先生方のこと、好き、だし、いっぱい話してみようと思います」

「そうだね。そうするといいと思うよ」


 慌てて口をつぐみました。もしももう少し言葉を選び間違えれば、恥ずかしい思いをするところでした。先生は優しく笑ってくださるばかりで、たいへん心が暖かくなりました。

 甘い甘いスイーツを口にしたような陶酔に陥ってしまっても、これが恋なのだと思えば思う程、浅くなってほんの少し苦しくなる呼吸が心地よくなってしまいます。

 先生は金時計を見つめて焦りつつ、私に小さく手を振ってくださいました。私も俯くこと無く手を振りますと、先生が僅かに笑ってくださったような気がしました。先生が去った後にも、鬼灯の色が残ったように見えまして、私はきゅうきゅうと鳴いているような胸元を押さえまして、移動教室で静かになりました教室で一人、陽だまりに照らされていました。

 次に会った時には感謝を告げようと決めました。馬鹿みたいに頬を赤くした拙い私でも、先生をお慕いしておりますと伝えられる日が、いつか来ると信じております。

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