近未来的道徳

 下校最中に、小さい女の子が僕に近寄ってきた。ボロボロの服で身体中を乱雑に斬りつけたような痕が在る。

 僕自身、血を見ることは苦手だったので目を逸らすと、後ろの方からたくさんのボロボロの子ども達が現れた。

 そして、口を合わせてこう言った。


「お金を下さい」


 僕達によく似た姿をした野良ヒトはそう言って瓶を渡してきた。もう駄菓子一つ買う分は溜まっている。

 子ども達から離れたところで、子ども達の親らしきヒト達が獣のような目をして此方を睨みつけている。それも、僕ではなく子ども達を睨みつけていた。

 子ども達は俯いて身体を震わせる。僕はそっとその瓶の中に五十円玉を入れた。

 ありがとうございます、と言う子ども達の目が輝く。子ども達は急いで親元に走って行ったが、親は子どもを褒めるでもなく瓶を奪い取った。また子ども達の表情が暗くなる。


──マージナルマンからならもう少し貰えたでしょう。物乞いが足りないのよ!

──今日は六十円しか集まってないぞ、お前達は悪い子だな……


 親の醜い声が耳を掠めた。そして、汚れきって破れそうな服の端をぐっと握り締めながら涙を堪える子ども達を視界の端に入れながら、再び歩き出した。

 ロボットが首輪を付けられた丸々と太っているヒトを連れ回している。そんなヒトを羨ましそうに、子どもたちは見ていた。



 十クラスの学年に、一つだけ用意されたクラス。廊下を歩くヒトの形をした化け物達は、僕達が教室の外に出ることを許してはいるが認めてはいない。外に出ればたちまち見るのも恥ずかしいくらいの獣とされてしまうからだ。

 誰も望んでこの遺伝子を継いだわけでは無い。僕達、「マージナルマン」と呼ばれる生き物は、偶然にもまだまだ地球上にたくさん落っこちているヒトの遺伝子を持ってしまっただけなのだ。親もその親も、ヒトでいうハーフという人種になってしまった。

 マージナルマンは、廊下を煩過ぎない程度の声で、話しながら歩いている化け物とは違う生き物で、同じ知的生命体で同じ血が混ざっているのに、向こうからしたら「役立たずな人種」「格好悪い人種」なのだ。


──ごめんね、うちは贅沢ができないの。


 両親も共働きだが、普通の化け物達以上の生活はとてもじゃないができそうにない。化け物達からは「マージナルマンを雇ってる会社は儲かってる」と言われる様だ。

 これは決してマージナルマンを褒めているのではなく、マージナルマンを雇うような金が在るんですね、という皮肉である。それ程にも、マージナルマンへの差別は酷いものであった。

 僕自身、化け物達の中に友達は居ない。殆どのマージナルマンがそうだ。誰も、自分より身体能力も下がっていて、頭脳もコミュニケーション能力も計算力も低い、サルに近い生き物を格好良いとは思わない。成長が遅い故に僕達より幼い、ヒトでいう小学一年生程度の見た目だが、僕達との格差は酷くはっきりしていた。

 化け物の名は、通称アド──「アドバンスド・ヒューマン」という。


──では、授業を始めます。


 隣のクラスから聞こえてくる教師の声は、感情を含まない無機質な声だ。お願いします、と応える生徒も、皆、感情に操られない冷たい声をしている。アドは効率的な知的生命体になる為に、感情を殆ど捨てたと言われている。

 それに比べて、此方のクラスの先生はマージナルマンで、頭の悪いマージナルマン専用の──ヒト語で行われる──授業を行っている。

 マージナルマンはアドの言語も分かるため、アドの先生の授業も受けられはするが、理解できないからだ。勿論、ベースはヒトなので、機嫌が悪い日も在れば、機嫌が良い日も在る。

 授業の進みは僕には丁度良いが、アド達からすれば豹と亀との差だ──勿論、アド達が豹だ。アド達は人間の二倍生きることができ、成長が二倍遅いので、同じ学年のアドは見た目はまだ小学生、年齢は同じ年だ。

 まだ小さい子どもが僕より優れた頭脳を持ってるのだと思うと、眩暈がしそうな程気分が悪くなる。


「ノートを開いてください」


 僕が体育の次に好きな授業である理科では、最近はマージナルマンなりにアドより遥かに拙い言葉でアドの身体について学んでいく授業を行っている。

 僕はそうでないが、このクラスの生徒はアドを恨んでいる人が多いようで、皆、口を揃えて嫌がる授業だが、僕はその中でも楽しんでいる方である。隣に座っているミナトは秀才で、僕とミナトとで盛り上がっていた。

 勿論、そんな僕とミナトを見て、クラスメイトは、秀才カップルだ、地味なカップルだ、と騒ぐが、ミナトは気にしていないらしい。ただ、僕に少し高度な話をしてくるだけだ。


「アドバンスド・ヒューマンにはヒトと同じように2つの性が有る。それぞれの性の顔は2種類有るが、その2種類の名前は?」

「男性はアダム、女性はイブ」


 当てられたらしいミナトは素早く、そして素っ気無く先生に答える。先生の方をちらりとも見ずに、ノートや教科書を見ているのだ。僕は思わず隣を見てしまったが、いつも通りのミナトを確認して、直ぐ自分のノート取りに戻った。

 ミナトのノートには、文字が小さく書き込まれ、一ページ一ページが丁寧に使われていく。

 ヒトは、ヒトを顔で判断しないようにと、実験で二つの端正な顔に分けた。その結果、アドはパートナーを子供の産み易さで決めることになったのだ。効率的な知的生命体になった故の選び方である。マージナルマンはヒトのように顔は一人々々違い、個性溢れる姿になっている。


「アドバンスド・ヒューマンの特徴と言えば、背に付いた羽とか同じ顔とかカラフルな髪や瞳も在るが、一番の特徴は優れた運動能力、知能だ」


 マージナルマンですら、アドを誉め讃える授業を行う。自分達の種族を大切にしてしまえば、アドからの非難が殺到するかららしい。

 ヒトがそれをやった時は、その親達をモンスターペアレントと呼ばれていたが、今ではそれが普通なのであって、マージナルマンが偉い口を叩けたものではないと言う。

 ただ少し顔や思考が違って身体の構造が違って、少し遺伝子を弄っただけで、自分より上の立場に君臨する化け物。それに嫉妬や憎悪を覚えるクラスメイトは悪いとは言えない。

 クラスメイトの顔がだんだん暗くなる。先生がアドバンスド・ヒューマンを誉めるばかりで、眠気を感じる人も出てきたようだ。隣のミナトは小さく溜め息を吐いて、もう大分小さくなった鉛筆を転がしていた。自分の貧乏揺すりで、もう使い古された机はガタガタと音を立てて揺れている。



「理科って宿題在ったのかよ!」

「えー、宿題写させてよ」


 無論、大好きな理科の課題だ、僕がやらないわけが無い。

 隣のミナトも、つんと澄ました顔でキャアキャアと騒ぐ女子達を見つめる。

 ミナトはアドの女性の顔、イブに近い美形ではあるのだが、性格に問題が有るようだ。性格もアドに近く、効率的なことを好み、大人数で群れるのを嫌う──大人数は個人での勉強には非効率的だからだ。そして、真面目で冷めていることから、ノリが悪いとされて関わるのを厭われているようだ。

 僕はと言うと、アドには近くない上に、効率的な生き方などしていない。しかし、ノリが良い方でもない。クラスでも浮いているような、でも攻撃は来ないような、そんな存在であった。不思議と寂しさは無い。


「ミナトさん、あのさ」

「……何か用? 『サトウ』君」

「いや、宿題、やってきたかなって」


 名字で呼ばれて苛立ったらしい、ミナトは眉間に少ししわを寄せて此方をちらりと見た。慌てて口をつぐむ。僕も名字で呼ばれるとは思ってなかった故に、声が上ずってしまった。

 ミナトは女子達から名字で呼ばれて蔑まれているのが気に食わないらしい。普段はしっかり名前で呼ぶのに、余程腹が立ったのだろう。


「……ごめん」

「いいよ」

「アリサさんは、どうして理科が好きなの?」

「ヒトの過ちを実感できるから……って、……ごめん、イタいこと言ったね」


 ミナトは此方を少しも見ず、ぼそりと呟いた。伏せた目蓋が悩ましげで美しい。

 こんなミナトを拒む女子達は、人種も違わないのにアドと同じことをしているのだ。散々アドの文句をヒトの言葉で呟く癖して、アドと変わらないマージナルマン。卑怯で醜くて、本物の化け物は何方なのか疑いたくなる。


「あのさ、アドはヒトの実験で生まれたんだよ? 遺伝子を組み替えたり、脳に電気信号を流したりして……そして、その被験体をそのままにしておいたんだよ? 

だから、マージナルマンが生まれて、マージナルマンから、アドが産まれたんだよ。

ヒトは今、ペットとして扱われたり、野良ヒトになったり、丸々と太って動物園で過ごしてたりするけど、自業自得だと思わない?」


 ミナトはそう言って手に持ったシャープペンシルを回した。その目には感情の色は映らない。ただただ、真実だけを吐き出す灰色が見えた。憂いと哀れみが暗いエメラルドグリーンになって混ざっていく。

 曖昧な返事を返すことしかできなかった。重たい憂鬱の声と真実を映す目が此方を刺して、嗚咽代わりに呟くことしかできない。ミナトはまた鬱々とした目で続けた。


「ヒトは、意志を持った化け物を作ってしまった。その後始末もしないから、新文明に呑み込まれていったんだ。地球上唯一の知的生命体だなんて傲慢を振りかざしたから。むしろ、私達は被害者なんだよ──って、本当にごめん。こんなこと聞きたかったんじゃないでしょ」

「いや、いろいろ知らないことが知れたし、別に嫌じゃないよ」


 ミナトはその後少し話すと、また黙り込んでしまった。ミナトは酷く冷めている、ということが再び確認できたような気がする。酷く濁った灰色の憂鬱を湛えた瞼は斜め下を向かせる。

 極めて丁寧で事実に基づいた理解。しかし感情論が無い。全てがミナトの言う通り進めばきっと世界はさらに秩序的に変わるだろうが、それはアドの世界での話──感情を持ったマージナルマンは、アドのやり方にはついて行けないだろう。無駄な機能の多いヒト紛いの分際でアドについて行こうと思えど不可能だ。それは、僕自身が一番知っていた。

 そう考えれば考える程に、ミナトのようにグレーの重たい気持ちが肩にのしかかっていく。



 アドは道徳教育などしない。心が無くとも秩序立った行動はできるのだ──否、心が無いからか。ヒトは厄介で無謀な生き物で、感情を持つ故に道徳教育をしなければ良いことと悪いこととの区別が付かない。

 分別の有る大人──これは時代遅れの言葉である、現代では成人という言葉を使うことが多いらしい──でさえも犯罪を犯したり他人の利益を失わせたりするような役立たずなヒトは、道徳教育というものを怠ってはいけないらしい。

 昔は、毎日々々手で数えられない程の犯罪が起きていたが、新文明になってからは一年に一度起きれば珍しい程度になっていた。アドは犯罪の非効率的さに気がついたのだ。

 道徳教育などしなくとも、ヒトと比べて卓越したコミュニケーション能力が有れば、効率的な友好関係も育めるのである。


「じゃあ、送迎係、行ってきて」


 アドから学ぶ道徳など、魚から教わる雲のようなものだ。それでも、マージナルマンはヒトから学ぶことを嫌悪し、アドに縋り付くと言う。ヒトは犯罪と差別と争いの絶えない生き物だからだと言っていた。

 送迎係に半ば強引に任命された僕は、縋り付く間抜けなマージナルマンに見えていないだろうか。

 職員室で待っていた今回の講師は、長い赤髪を持ったイブだった。見た目はまだ若い女性だが、マージナルマンで言えばもう齢50程度である。白い肌に黄緑の目は本当に美しい。イブの顔はヒトの望んだ美人だ。


「……あぁ、マージナルマンクラスの子ね。どうも、今日はよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 本能がアドを避ける。背に生えた少し着色された羽と、白い肌が天使を彷彿とさせる。

 けれども、それ故に、口元は重くなって愛想を保つのが大変だ。恐らく、このアドもそんな僕を見抜いているだろう。そう考えると、益々警戒心が顔の周りを覆っていくのを感じる。


「一番奥の教室なんて、貴方達も苦労してるのね」

「……はい」


 その言葉に引っかかる物を感じてしまい、返答が遅れた。

 イブと呼ばれる顔を微笑みに歪ませて、心が広いフリをして、マージナルマンとの差を圧倒的に付けていく。全てにおいて完璧なアドバンスド・ヒューマンは、一時期、世界を支配すると恐れられていた高度なロボット達を飼い慣らし、心を持たないことをいいことにして奴隷のように働かせている。マージナルマンよりも効率的らしい。今もこうやって、ヒトが作り上げた文明を踏み躙ろうと、マージナルマンを見下すのだ。

 教室に着くと、クラスメイトが能面の面で機械的に拍手をしていた。おぞましい程の憎悪は、感情を殺すまでに至った。講師もそれに応えるかのように、恐らく心に秘めているだろう差別心を抑え込んだ苦ったらしい笑顔でお辞儀をした。


「今日の道徳の授業では、保健所の話を用いて、命の大切さを話したいと思います」


 赤髪の講師はそう言うと、マージナルマンには実現不可能な技術で作られたスクリーンを出してきた。何かに貼るのではなく、触れるものでもない、空中に映し出されたスクリーンだ。其処にはしっかりスライドショーが映されている。

 最初の画像は、アドがヒトを飼っている絵だ。丸々と太ったヒトが安っぽい首輪を付けられている。それは女性でも男性でも有り得ることだった。


「皆さんのご家庭では、ヒトを飼っているところも在るでしょう。それは前文明でヒトがイヌを飼っていたように……」


 僕の家では、イヌもヒトも飼われていない。否、何処の家庭でも飼われていないだろう。貧しいマージナルマンに対しての嫌味とも取れる内容だ。ミナトが死んだ魚のような目で講師を見つめる。

 見回せば、皆 ミナトよりも感情の無い目で講師を見つめていた。興味深いと思っているのは僕くらいのようである。アドの言語は聞き取れるが、話されても通じるのは、講師ができるだけ簡単な言葉を選んで話しているからだろう。


「また、今ではアドの食卓に並ぶ安価な肉として育てられることも有ります。アドは食べ物の質は問いませんが、代わりに資金を節制できるよう安い物を食べます。

ヒトの肉は有り余っている上、いざとなれば男性と女性、合わせて二人を拉致して少し世話をすれば、子供はいくらでも産まれますから、ヒトの肉はとても効率的な物と言えるでしょう」


 えっ、とクラスメイトの中から声が上がる。勿論、僕もその一人だった。ヒトの肉の話など聞いたことも無い。講師が目を丸くして此方を見つめる。ミナトは知っていたらしく、無反応である。

 スライドショーの画像が直ぐに閉じられた。講師は溜め息に呆れと哀れみの濃い紫を称えて話を続ける。


「マージナルマンには知らされないようになってるんですね。把握しました。

新たな産業として、ヒトの肉を売る農業が在ります。農業って分かりますよね? 私達アドバンスド・ヒューマンは、節制できる且つ栄養分が豊富なヒトの肉を好みます。貴方達も、将来を安定させたいならその仕事に就くといいでしょう。

話を進めたいので、ヒトの肉の話は後で質問を聞きましょう」


 絶句したまま動けなくなる。次の話は動物園で飼われているヒトの話だが、それも頭には入らなくなっていた。よくヒトはブタやウシ、ニワトリの死ぬ姿を見てそれらが食べられなくなると言っていたが、アドにはそんなことが無いらしい。僕はもうヒトを見るということにも悪寒がしてしまった。

 恐らく、多くのアドにマージナルマンを食べない理由を聞いたなら、働いてくれるから、と答えるであろう。働かないマージナルマンは、アドにとって家畜同然なのだ。此処に居る講師も、隣のクラスで授業を受ける生徒も、皆、マージナルマンをそういう目で見ているのだ。


「では最後に、最近増えている野良ヒトについて話したいと思います。

ヒトは雑食ですが綺麗好きで好き嫌いをします。したがって、世話が面倒になって飼っていたヒトを捨ててしまうアドやマージナルマンが多いようです。

それは、心の有る貴方達が許して良いことなのでしょうか」


 ただでさえ画面を見るのが嫌になっていた僕達に、さらに突き刺すように画面が変わった。狭い部屋に閉じ込められたヒトの写真だ。上にシャワーのような形の水を流す物が在る。しかし、其処から水は流れていなさそうだ。講師の合図で、写真は動画へと変わった。

 ヒトの叫び声が聞こえる。聞き取れる範囲では、助けを求める言葉が飛び出していた。どうやら上から噴出されているのはガスらしい、ヒト達はだんだん過呼吸になり、そのまま鈍い叫び声を上げて声を止めた。その様は、ヒトが産み落とした負の遺産を思い出させる。ヒトが産み落とした物にヒトが殺される。それはアドとヒトとの関係そのものだ。


「私には何を叫んでいるか聞き取れませんが、貴方達には分かるでしょう。心を持つ知的生命体である貴方達なら、心を痛めてヒトを捨てるような非効率的なことはしないと信じています」


 女子が泣き出した。男子が青ざめ始めた。それぞれヒトの言葉を把握したのだろう。その中、ミナトはまた変わらない鬱々とした顔でスクリーンを見つめていた。そして、講師は──美しいイブの顔を保ったまま、スクリーンを見つめていた。

 僕はその彫刻のような顔に、深い深い冷たさを覚えた。美しく歪むが故に、そこに温かさは生じない。瞳が完璧な輝きを持ち、口元は何処から見ても美人に見えるよう上がっている。完璧な造形は、僕達に軽蔑や哀れみや同情するような、そんな青く物悲しい光を帯びていた。


「短いながら、まとめに入らせていただきます──」


 喉に氷が張ってしまったかのようだ。話し終えた時の拍手も、僕だけが忘れていた。否、できそうになかった。僕はいろんな意味でアドに圧倒されてしまったのだ。息を呑むようなあまりの冷徹なる美しさに、心も身体も凍りついて動けなくなってしまいそうだ。

 僕にとって大切なのは、ヒトの結末などでは無く、ヒトやマージナルマンを従えたアドの心なのだ。何かを従える者の、心を垣間見たのだ。

 送迎係の仕事の為に立ち上がったが、講師の形作られた笑顔相手に感謝の気持ちすら喋ることができなかった。座っているミナトに目で急かされ、慌てて口を開く。事前に作られていたお礼の言葉を淡々と話す僕に、講師は微妙な反応を示して満面の笑みを浮かべた。

 廊下を歩く間も、講師の方は少しも見ることができない。講師も此方を見るつもりなど無いようだった。


「ありがとう、ございました」


 講師がアドだらけの職員室に消えていくのを、ただただ動けないまま見つめていた。足が動かない故の不可抗力だ。凍った足を動かすこともできず、僕は講師の凍てつく笑顔に途方に暮れていた。



「へぇ、満点取ったんだ」

「まぁ、ね。理科の問題は暗記だから、ケアレスミスはあまり無いし。アリサさんは?」

「あまりいい点とは言えなかったかな。満点じゃないし」


 ミナトは片手に九十点台のテストを束ねて持っていた。僕の手には、七十や八十というパッとしない点数が書かれたテストと共に、1つ百と書かれた紙が在った。皆の羨望の目線を感じる。

 さらに言えば、これはアドと共通のテストで、マージナルマンは二十点程度が平均点とされている。

 ミナトは本物の秀才だ。高校卒業後も恐らくアドと同じ大学で同じように学べるだろう。

 マージナルマンの中にも、アドを越える知能を持つ者が居るという事実に最初は驚いたが、そもそもアドとヒトとのハーフなのだから、アドの知能を持っていてもおかしくはないのだろう。

 僕も、そんなミナトに追いつく為にかなり勉強して、将来の夢に近い生物のテストは満点を取れるようになった。


「ねぇ、タクト君は結局どうするの?」

「僕は生物分野の研究員になりたいな」

「マージナルマンを調べるの?」

「いいや、アドもヒトも調べるよ」


 僕の結論は、アドを生み出したヒトも、ヒトの心を失ったアドも、被害者面をするマージナルマンも、全てを悪いとすることだった。つまり、僕にとってこの三つの生き物は、全て平等なのだ。だから、全て愛することにした。

 ミナトが考える価値観とも、アド達が考える価値観ともまた違ったものである。


「私は、経済学者になりたいんだ」

「なれるよ、アリサさんなら。見た目もアドみたいだし」

「嬉しいけど喜べないなぁ。私はアドが嫌いだからなぁ」


 ミナトは相変わらずの憂鬱そうな笑顔を黒い目に宿して、誰も寄せ付けないような灰色に沈んでいた。しかし、近くで見れば、ミナトはサファイアのような輝きを持った美しい人なのである。

 今でも、赤髪の講師のことが忘れられない。何人ものアドに会ってきたが、皆 講師程の本心はマージナルマンには晒さなかった。緑のエメラルドが冷たく非情に光る笑顔を見せた講師は、今でも僕を恐怖で震え上がらせる。

 けれど、あの講師と会ったからこの道を選んだことは確かだ。僕の知らない、アドの心のずっと奥を覗いてしまったからだ。


「でも、アリサさんは何とかやってけると思うよ」

「マージナルマンの本領を見せてやらないとね」


 アドバンスド・ヒューマン──進化したニンゲンと名乗るアド達の、大元に有る心は何なのか。何がアドを動かすのか。僕だけでも、その真実に足を踏み入れようと凍りついた足を動かすと決めた。

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