第九章:さよなら、アネモネ図書館

ヒマワリは太陽を向いて咲く

 部屋に散らばっているのはA4の紙。紙の中心には主題が載っていて、それから触手を伸ばすように矢印が続いて、次の紙へ、次の紙へ。広大なフローチャートという怪物の真ん中、主題のところで、私は座って思案を巡らせるブレインとなっていました。

 本日も作業が終わりました。今回の自殺志願者は私が担当でしたから、これほどの仮説とその結果を広げ、ようやく正解を見つけたのでした。この回答はまさしく今回のクライエントにぴったりで、適切な対応ができたと自分でも思っています。

 しかし、今回の分析には多くのエラーがありました。トライアンドエラーで得られた結果ともいえます。洞察学習をするほうがより賢いとは分かっていながらも、私には洞察ができなかったのです。

──諦めてた。でも、私は今度こそ自分の恋を叶えなくてはいけないんですね。

 数々の結婚詐欺に引っかかり、肉体的にも精神的にも消耗してしまったクライアント。それでもなお、彼女は恋を求めました。

 「恋に恋する」という言葉があります。恋をしているうちは幸せなのに、叶ってしまうとその幸せが消えてしまうという現象です。その現象は、蛙化現象とも呼ばれています。

 たとえどれだけ酷い目に遭っても、なお恋を求め続ける。あまりにも苦しくはないでしょうか。何かに飢えて何かを求めているという点では、底無しの容器に水を注ぎ続けるようなものです。

 やはり、恋というものは分からない。人間はどうしてこうも不幸になりたがるのでしょうか。人間はどうしてこうもイレギュラーに振り回されるのでしょうか。

 紙を片付け、シュレッダーにかけるために纏めていると、コンコン、と優しく扉が叩かれました。私が応答すれば、向こう側から、脳を撫でるような穏やかな声が聞こえてきます。

「やぁ、ヒマワリさん。そろそろ夕ご飯にしないか?」

 扉を開けると、真っ赤な瞳と目が合いました。彼は端正な笑顔を浮かべていました。

 まるで縛り付けられたように体がきゅうっと締まる感覚に襲われます。下から熱せられたように熱が顔全体に広がっていきます。この反応は緊張でしょうか、それとも性欲でしょうか。

「いや、他の人はもう食べたのだけれど、ヒマワリさんが出てこないってみんなが言ってたから、呼びに来ただけなので……後で良ければ、俺は戻るんだけど」

「いえ、アザレア様。お気遣いありがとうございます、食事にします」

「そうか。では、俺も夕ご飯にするかな」

「まだ召し上がっていらっしゃらなかったんですか?」

「まぁ、ほら、貴女とお話する良い機会かなって」

 そう言うと、アザレア様は赤い目を三日月の形にしました。私は思わずぶるっと震えました──彼は笑ってはいないのです。けれども、怒っていたり悲しんでいたりするわけではない。笑顔のようなものを浮かべているだけです。まるで笑顔の仮面を貼り付けたようでした。

 彼が先に歩き出し、私はその後ろをついていきます。彼の背中を追っていると、とても甘い香りがします。くらり、頭が揺れてしまいそうでした。何の香りなのか、そう考えているうちにリビングへと辿り着いていました。

 食事当番、と書かれた紙の下にあるのは、回せる仕様になっている丸い紙。カトレア様やキキョウ様、サザンカ様、シオン様の名前が書いてあって、今日は針のところにアザレア様が書かれていました。チーズの香りにキッチンを覗いてみれば、そこには良い加減に焦げ目がついたグラタンが置いてありました。

 ミトンを両手にして、二つのグラタンを机の上に置くと、アザレア様は私に向かいに座るよう指示しました。私も席に着くと、彼はにこっと笑って私にフォークを差し出してきました。

「夕飯を作ってくださってありがとうございます。いただきますね」

「どうぞ。美味く出来てると良いんだけど」

 少し冷めたグラタンは舌に優しく、口の中にとろけるチーズの味とマカロニの歯ごたえを与えてくれます。私たちのような幽霊には食事は必要無いはずですが、一口食べただけで、もっと、とせがむようにお腹が鳴りました。アザレア様も一口食べて、うん、美味いな、と独り言を呟いていました。

 アザレア様が言ったようには、お話することもありませんでした。二人とも、フォークを置く暇も無く、気がつけばお皿が空っぽになっていました。アザレア様が、ごちそうさまでした、と言うのにつられて私も同じ台詞を言いました。

 私が立ち上がり、皿を回収すれば、アザレア様は感謝を述べ、キッチンに向かう私を目で追いかけました。キッチンが水垢一つ無いのは、カトレア様のおかげでしょうか。水を流し始め、皿をスポンジで擦っていると、不意にアザレア様が声をかけてきました。

「ヒマワリさんはいったい何に悩んでるんだ?」

「……えっ?」

「あぁ、いえ、さきほど部屋を訪れたとき、凄まじい数の紙が置かれていたじゃないか」

「悩んではいませんよ。あれはいつものルーティンですので」

「そうなのか? 凄いな。あれだけ分析していれば完璧だろうな。やはり、噂どおりの優秀な司書だ」

「そんなにお褒めにならなくても……ですが、ありがとうございます」

 嗚呼、またです。耳が熱くなるような感覚を覚えます。こんな感覚は、シオン様やアザレア様にしか感じません。いや、最近では特にアザレア様に感じるようになりました。頬杖をついて、私のことを蛇のような目で見つめてきます。ただそれだけなのに、私の胸は高鳴ってしまうのでした。

 私が黙り込んだからでしょうか、続けてアザレア様が口を開きました。なんとでもないような、そんな素振りで。

「それで、何について考えていたんですか?」

「何について、って……」

「仕事が終わってからこんな時間まで、ずっと研究していたんだろう? だとしたら相当だよ。なかなか苦戦しているみたいだな」

 言われてみればそのとおりでした。仕事をする時間とプライベートの時間は、分けることでストレスを軽減できるから、いつもは分けていたのでした。しかし、今日は夢中になっているうちに時計の針が二周していたみたいです。

 ここで、何でもありません、と言うことはできるでしょう。されど、とてもちょうど良いタイミングでアザレア様と出会ったとも言えるでしょう。以前恋とは何なのか、について意見を交わした相手です。私では知識が足りないのかもしれないので、話を聞いてみるのも一つの手でしょう。

 私は背筋を正して、アザレア様を見据えました。彼は私を誘惑するように、クス、と笑ってみせました。

「どうしたんだ?」

「申し訳ありません……もしよろしければ、もう一度『恋』というものについて話していただけませんか?」

「……あぁ、気になってたのか。なら、また話してみよう。どうかな、あれから進展はあったかな」

「進展は……あまりありません。結局、恋とはエラーであるとしか思えませんでした。緊張と性欲を足して二で割ったものでしょうか?」

「やっぱり、そう思うんだな。いささか夢の無い考えだな」

 アザレア様はそう言って肩を竦めました。彼の言うとおりでしょう、夢なんてありません。私が理解できるのは、恋という概念の下にあるより具体的な感情くらいです。

 私が皿を洗い終えると、アザレア様は私のほうへと近づいてきました。パーソナルスペースを侵され、私が一歩下がると、彼は口元を歪め、私の頬にそっと大きな手を当てました。

 その瞬間、どきん、と胸が跳ねたような感覚に襲われました。どくどく、どくどく。心臓の音が耳元で聞こえてきます。表情筋が固まります。熱が上がってきて、冷たい彼の手を温めます。唖々、何も考えられそうにない! ただ彼の顔を見上げることしか私にはできませんでした。

 時が止まったわけではないと分かったのは、どこかで古時計が鐘を鳴らしたからでした。その音を合図に、アザレア様がすっ、と手を引っ込めました。

「どうだ? 今、何を感じた?」

「わ、私は、どうして……」

「俺には分かってるんだ、貴女が俺に恋をしていることを。だから試すような真似をした」

「そんな……でも、どうして……」

「どうしてか、知りたいか?」

 最初こそいたずらっぽく笑っていたアザレア様でしたが、私に疑問符を投げかけた彼の声は、やや冷ややかで、体中に伝って肌がびりびりしました。

 知りたいか、と聞かれれば。私はまるで黒い黒い穴の底を眺めているような気分になりました。いったいそこには、何があるのでしょう。心をぐっと掴まれるまま、私は穴に近づいていきます。歩みを止めたくても、止まれない。だって私は、知識欲の塊なのですから。

 すると、彼は顔を私の耳元に近づけて、囁くようにこう言ったのでした。

「教えてやるよ、貴女がどうしてそんな感情を俺に抱くのか。だから、ついてこい」

 とん、と背中が押される。黒い穴の中へと身が投げ出される。びりびりとした恐怖が体を覆っても、体の中は熱くて仕方がありませんでした。

 彼が手を引く。私はそれに、されるがままについていく。隷従する。一歩一歩足を進めるたび、体の内側から熱が奪われていくような気がしました。



 歩けど歩けど、続くのは本棚。インクの匂いが増せば、辺りの寒さも増していく。人の歴史を、人の物語を、人の人生を管理したこの図書館は、人間が増えるほどに広がっていく。

 アザレア様はやがて、一つの本棚の前で立ち止まりました。それから、適当に一冊本を取ったように見えました。しかし、その予想は呆気無く覆されます。彼が持っていた本の表紙には、よく見慣れた文字列が並んでいたのです。

 観月、玲奈。私のかつての名前でした。

 おかしな話です。本来、私自身を書いた本は読めないはずなのです。読んでも白紙になることでしょう。それでも、アザレア様が捲るページに何かが書かれているのは見えました。

 最初こそその文字は私には読めませんでした。けれども、彼が何かを呟くと、次第に読めるようになってきたのです。今まで記号の羅列だと思っていたものが、だんだんと、だんだんと、文字に変わっていきます。

 そして、完全に見えるようになったとき、アザレア様は私にその本を手渡しました。ぽん、と、軽く何かを渡すような動作でした。

「貴女の本は一つも改変されていない。これを俺の権限で読めるようにした」

「これは……私の、記録ですか?」

「そうだよ。アネモネ図書館に保管されていた、貴女の人生だ。貴女の人生に、貴女が出くわしたエラーの原因がある。

……知りたくは、ないか?」

 私はそのとき、すでに狂っていたのだと思います。だって私は、欠けた過去を有り余る今で塗り潰そうと決めていたはずなのに、勝手に手が伸びていました。

 ……私だって、スミレと同じ。存在しない過去を想うこともあった。だから、足を掬われてしまったのでしょう。

 彼に導かれるまま、私はページを捲りました。ただの文章だったそれは、程無くしてリアリティのある幻想へと変わっていきました。私の目の前には、とある大きな家で働く子供の頃の私が立っていました。

 あの私もまた、メイド服を着ています。そして、真っ暗な部屋の中、何かの映像を見ています。そこに映し出されていたのは、殺人事件の報道でした。

──これはかの猟奇殺人犯による犯行ではないかと推測されていますが……

 私はただ、部屋中に紙を散らしていました。まるで今の私と同じように。けれども、そこに記述されていたのは、SNS上の反応でした。

 アーティスティックな殺人現場の画像が上げられ、人々は不快感や嫌悪感を抱きつつ、不思議な魅力に取り憑かれていく。人々はあっという間に二つに分かれて、争いを始めました。デストルドーに呑み込まれた狂信者と、与えられた恐怖に呑み込まれた一般人へと。誰もが猟奇殺人犯に対し、畏怖の念を覚えました。

 私は、昔の私の顔を覗き込む。彼女は嗤っていました。顔を真っ赤にして、涎を垂らして、瞳孔を縮めて。感情は私にも伝わってきます。体が熱くて、疼いて、胸が高鳴って、震えて──

「嗚呼、美しい……!」

 人形から人間へと姿を変えた私が研究していたのは、人間ではありませんでした。たった一人のメアリー・スーでした。

 私は人形だったはずだ。御主人様が愛してくれて、それで感情を持つようになりました。人間になりたいと、願った。人間を知りたいと願った。その結果が、これです。

 もう、そこに立っていたのは、私ではありませんでした。怪物たる何者かに、狂信者の型にはめ込まれた、私を模したナニカでしかありませんでした。

「──大丈夫か? 少し刺激が強かったかな」

 突然後ろからかけられた声で、目を覚ます。自分の周りにあるのは本でした。振り向けば、アザレア様は神妙な顔をしてこちらを見ていました。

 体中を駆け巡っていた熱が、さあっ、と引いていきます。体を徐々に侵していた冷気が、ついに心臓にまで辿り着いたのです。心臓が脈打つたび、体中に冷たい血液が回っていきます。

 距離を詰めてきたアザレア様に対しても、一歩引いてしまいました。触られそうになれば、手を払い除けてしまいました。だというのに、アザレア様は何が面白いのか、よりいっそう愉快そうに嗤うのでした。

「思い出したか? 自分がどんな人間だったか。自分がどれほど愚かな人間だったか」

「……私は、この感情を封印していたということですか……?」

「そうだよ。さて、この感情を知った今、俺はどう見える?」

「……っ、近寄らないでください!」

 また一歩、近づいてくる。私は逃げるようにしてその場を立ち去りました。ハイヒールを鳴らして走っていると、途中で足を挫いてしまいます。じわり、足首が熱を持つ。それすらも嫌で、必死に足を動かしました。

 後ろのほうから、こんな愉しそうな声が聞こえてきました。

──図書館では走ってはいけないよ、なんてな。



 どれだけの時間が経ったでしょうか。

 私の部屋はまた紙だらけになって、私はその中心で座っています。部屋は冷たく、暗く、外の光とは隔絶されています。手は腱鞘炎になって、動かすだけで痛んでしまいます。

 きっとスミレならば、パソコンを使って同じことをするのでしょう。それでも腕が痛くなることに変わりは無いのですが。

 全てを書き終えて、私は理解しました。私がしていたのは、報われない恋だと。決してこちらを振り向かない怪物へ恋をしていたのだと。そうして、私は次第に心を打ち砕かれ、廃人になってしまったのだと。

 廃人になるまでに、いろんな罪を犯しました。特に酷かったのは、そのアーティスティックな殺人とやらを完全犯罪にするための証拠隠滅でした。私にとっては、それは至上の喜びだったのです。愛する人に必要とされる──それだけで幸せでした。

 翻って、今の私を見ます。昔と同じようにメイドをしています。そして、ダリア様やアザレア様という危うい人に心を奪われています。また自分を犠牲にするような人を愛しているのです。このまま暴走していけば、私は昔のように……

 思わず肩を抱き寄せます。なんて恐ろしいんでしょう。私はどこまでも人間を賛美することしかできないのでしょう。私は真の意味で人間にはなれないのでしょう。ただ、人間讃歌を謳う人形から抜け出せないのでしょう。

 さて、どうしたらそんな状況から逃げられるのでしょう? それもまた分析しなくてはなりません。解決方法が分からないままでいるのは、怠慢ですから。震える手でペンを持ったとき、軽いノック音が聞こえてきました。

「……姉さん、入っても良い?」

 スミレの声でした。私はふらふらと立ち上がり、紙を踏みつけて、扉へと向かいました。扉が開けば、外の明かりと一緒にスミレが入ってきました。彼は、うわ、と声を上げると、電気を点けました。一瞬目が眩み、世界が白に呑まれます。倒れかかった私のことを抱きとめ、スミレが私のことをじっと見つめていました。

 どうしてでしょうか、スミレであれば怖いことは無いのです。スミレは私の同志だからでしょうか。ということは、きっとスミレも同じように心を壊した狂信者だったのでしょう。

 スミレは私をベッドに座らせると、自分は紙を纏め始め、空いたところにあぐらをかきました。

「姉さん。すっかり顔が青くなってる。あまり寝てないんだね?」

「……そうでした、私、仕事も出ないで……ずっと起きていたんです」

「まずは寝よう。それから物事を考えよう」

「いえ……頭が変に冴えて、眠れる気がしないのです。思考が止まらなくて……」

「そっか。それじゃあ、一緒に話そう。独りで考えていても、良い方向には向かない」

 不思議なくらいに言葉がすっと降りてきます。スミレの言うとおりでした。独りで考えているだけでは、論文にすらならない妄想になってしまいます。必ず他人との意見交換が必要です。私が司書になるときも、同じことをしたはずです。

 私は一息つくと、スミレにこの惨状を伝えました。できるだけ端的に、分かりやすく。こんなに膨大なフローチャートを伝えれば、いくら処理能力の高いスミレでもパンクしてしまうでしょう。

 ずっと頷いていてくれたスミレも、最後にはしばらく黙り込みました。たくさんの情報を取捨選択し、理解した上で、自分の意見を話す。それはとても難しいことであり、スミレが得意とするところでもあります。

 白手袋を眺め、暗くまぶたを下ろしていた私に、声がかけられます。スミレの声は揺らいでいて、それでいて冷静で無感情でした。

「アザレアに悪気があったわけでは無いと思う。むしろ、姉さんのためを思った行動なんだと思うよ」

「……えぇ、そうでしょうね。きっと、私に思い出させようとしてずっと行動してきたのでしょうから」

「その上で……姉さんは、人を盲信してしまう癖があって……その忠誠心を悪く利用されていただけだと思うんだ。人を崇拝することは、悪いことではないと思う」

 スミレの言葉には、何も言い返せることがありません。アザレア様は悪くないし、崇拝は必ず悪いことではありません。

 ただ、私の崇拝は間違っていたのでしょう。報われぬ愛となって、自らの体を呪ってしまいました。

「姉さんは何かを追いかけてしまう癖があるから、そこを自覚したらもっと良くなるんじゃないかな」

「どうしてそんなことが起こるのでしょうか……いえ、原理は分かっているのです。ただ、スミレの言葉として聞きたい。データではなく、人間から聞きたいんです」

「……俺は人間じゃないんだけどなぁ」

 私の言葉に、スミレは頬を掻きます。眉をハの字にして、困ったような顔をします。

 今まで思ってもみなかったような言葉が出てきて、私自身も当惑しています。データではなく、人間から聞きたい。今までデータとしか向き合ってこなかった私に、こんな気持ちがあったなんて。もしかしたら、それも過去の自分に戻ったからなのかもしれません。

 スミレはまたしばらく思案していました。その間に、私はデータの数々を纏め始めます。別にこの紙の山が無駄だったというわけではありません。私の頭を占めていた考えを纏めるのには必要だったのですから。

「姉さんは……いつも、自分自身にその研究欲が向けられることは無かったよな。姉さんが生涯覚えた感情は、崇拝だけだった」

「……そうですね。私自身には、何も無かった」

「姉さんはいつも自分のことを蔑ろにしがちだ。自分の全てを誰かに捧げて、何でも成してみせる。その結果、良いように利用されてしまうんだ。

だから、これからは自分のことを大切にすることも学んだほうがいいと思う。人をそれほどまでに愛せるというのは、良いことでもあるから」

「自分のことを、大切にする……」

 そうです、それこそ私に欠けていたことです。そして、その分析結果が分かったとしても、どうしたら良いか分からないものです。

 私には分からないのです、自分を大切にする、という意味が。私はメイドであって、主に仕えることを喜びとします。ですから、自分のために何かをするという経験が全く無いのです。

「俺は、姉さんのことが大切だよ。でも、姉さん自身が自分のことを大切にしてくれないと意味が無いんだ。

姉さんはメイドでも人形でもない。人間なんだ。誰かの意思に従わなくて良い。誰かのために生きなくても良い。自分のために生きて良いんだよ」

「……そんなことを言われましても……私には分かりません。権威に従っているほうが、私には合っているような気さえします」

「姉さんのためになるような言い方をすると……それは、権威主義的パーソナリティだよ。権威に縋って思考停止するのは、人間としての生き方じゃないんだ」

 ぐさり、スミレの言葉が胸に刺さります。血は流れているのに、不思議と怖くありません。むしろ、その血が冷たい心臓を温かくしているようにすら思えます。

 思考停止、それは怠慢。人形として生きるのは、随分と楽をしているようにさえ思えます。私は結局、人形だった頃から変わっていないのでしょう。

 だとすれば今、私は大きな転換点にいるのではないでしょうか。人形として何も考えずにただ息を、生きをするままこの図書館に居続けるのか、それとも、人間として新たな道を切り開くのか──

「どう生きるかは、姉さんが選ぶんだ。俺はその道を応援するよ」

「……ありがとうございます、スミレ……いえ、聖夜。聖夜はいつも、私の助けになってくれますね」

「いいんだ、俺にとっても姉さんは助けになってるんだから。お互い様だよ」

 スミレは目を細めてにこりとあどけなく微笑みました。私はとても良い弟を持ったのでしょう。

 紙を片付けて、スミレに向かい合います。スミレは優しく、ご飯にしようか、と声をかけました。人間と違って、別に食事は必要無いのですが、欠乏した糖分を摂るのは大切なことです。

 少なくとも、人間として生きていくのならば。



 アザレア様はソファで本を読んでいらっしゃいました。机の上に置いてあるのは、角砂糖の瓶と赤い紅茶でした。もう湯気は立っておらず、砂糖が沈殿して揺らめいていました。

 話しかけようとしたとき、彼は顔を上げました。まるで私が来るのが分かっていたかのように。彼は口角を上げると、ようこそ、と甘ったるい声で言いました。

「どうしたのかな、ヒマワリさん……いや、観月玲奈」

「先日の無礼を謝罪したく思い伺いました。誠に申し訳ありませんでした」

「あぁ、いやいや、俺が悪いんだ。人を揶揄うような真似をしたのは俺のほうだからな」

「でも、貴女様のおかげで考えを纏めることができました」

「そうか。もし良ければ、お聞かせ願えるかな?」

 アザレア様は本を閉じ、手を組みました。私はその向かいに座りまして、足を揃えて、手を揃えて。できる限り、背筋を正して。最大限の礼儀をもって。

 だって、それほどに愛していたのですから。

「まず、恋についてですが……アザレア様のおかげで、理解することができました。上手く言語化はできないのですが、自分の中で纏まってはいます。

恋というものは、その人によって捉え方が違います。元を正せば、おそらくは生殖本能。ですが、元々人形であった私にとっては、それは崇拝でした」

「そうだな。貴女はそのために身を滅ぼしたんだ」

「はい。私は狂信者になりました。そして、再び人形としての生を歩んでいたのです。私は結局、自分で考えようとしないで、あの化け物に従っていただけだった……そうやって導いていてくれた人を、刷り込まれたように愛していただけでした」

 私が静かに申し上げれば、アザレア様は満足げに頷いて微笑みました。よく分かってるじゃないか、と言って、冷めた紅茶を口に運びました。それから、少し顔を歪めて、また薄笑いを作りました。

「自意識が薄い人は、権威を持つ人間に良いようにされがちだ。特にそれが生殺与奪の権を持っていたりすると、なおさらな。ああいう奴らは、自分の世界に不満を持っていたり、退屈していたりする人々を湧かせる。貴女もその一人だったわけだ」

「そんな、メアリー・スーを賛美するだけの私ではいたくありません。自分の意思で、自分の感情で生きていきたいのです」

「その言葉が聞きたかったんだよ」

 アザレア様がそう言い放つと、まるでぴたりと世界が止まったかのように静かになりました。遠くから聞こえてくる時計の音も、近くから聞こえてくる呼吸の音も、聞こえなくなっていました。

 彼が持っていた一冊の本。その表紙には、観月玲奈と書かれていました。他ならぬ、私の本でした。

「なァ、この図書館の本来の働きを憶えているか?」

「本来の働き……ですか?」

「そう。この図書館は、自殺志願者から記憶を預かり、現世へと戻すのが目的だ。もしくは、こうして司書として働いてもらっている。

では、記憶を取り戻した貴女は、司書と言えるだろうか?」

「……そうか、私は……」

 なぜだか、ふっ、と、体が軽くなるような心地がしました。今まで冷えきっていた体が、まるで温かくなっていくような、そんな感じです。

 私は。記憶を取り戻した、私は。司書でなくなることができるようになるのでしょう。私は、司書としての在り方以外を選ぶことができるようになるのでしょう。

 このまま司書として、人でなしとして生き続けるか。もう一度人間の形を取り戻し、生きていくか。今の私に未練があるとしたら──スミレのことでした。

「私は、新たな運命を受け入れる覚悟ではいます。しかし、」

「スミレのことだろう。分かってるよ」

「……本当に、何でも考えていらっしゃるんですね」

「彼とはもう二度と会えないかもしれない。それに、貴女の中からアネモネ図書館での記憶は消える。

だとしても俺は、彼のこともこの道に誘うよ。だからきっと、生きていれば、どこかで会える。

──さぁ、今こそ選択の時だ。人形として生きるか、もう一度人間として生きるか」

 アザレア様が、私に手を差し伸べました。

 その手を取れば、もう一度私は過ちを犯すかもしれません。人形としての生をまた失うかもしれません。けれど、全てを忘れることなんて無いのでしょう。きっと私の中に、自分の意思だけは残るのでしょう。

 頭の中に、シオン様が初めて手を伸ばしてくれたときのことが思い出されます。病んでいながらも、とても優しい笑顔で私のことを見つめていてくれました。今、目の前のアザレア様も、私を穏やかな目で見つめています。

 どうしてでしょうか、偽物の心臓がドクドクと鳴り止みません。でもそれって、とても人間っぽくはありませんか。

「……ありがとうございます、アザレア様。私に転換点を与えてくださって」

 手を握ります。その刹那、足元から黄色い光がふわふわと浮き上がり始めました。まるで自殺志願者を送り出すように、私の体も消えていきます。痛みも苦しみもありませんでした。ただあるのは、安らぎだけでした。

 嗚呼、こんなふうに幸せを掴めるのだとしたら、自殺志願者に対して今までしてきたことは、間違いではなかったのですね。

 アザレア様がゆっくりと手を離します。頬杖をついて見つめてくる視線には、どこかヴァイオレットの妖しい雰囲気があったのでした。

 消えゆく意識の中、それでも残ったのは、黒髪で赤目の、背の高い一人の青年の姿でした。

「アザレア様。どうかスミレを、幸せにしてあげてください」

 私が最後に言ったのは、そんな言葉でした。



 体が鉛のように重くて、首をもたげるのも億劫でした。それくらい長い眠りに就いていたのでしょう。口が乾いて喉が痛みます。

 やけに長い夢を見た気がしました。

 立ち上がって水を一口飲むと、その頃には何の夢を見ていたかなんて忘れてしまいました。その代わりに思考を支配したのは、彼からの電話でした。

「もしもし、姉さん──」

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