終わりの始まり
コンコン、と優しくノックをする。優しい木がくぐもって、柔らかい音となった。しばらくすると、足音も開閉音も無く扉が開いた。
冷たく見下ろす濡鴉色の瞳が、ノックの主を捉えると、緩く笑みを描く。そっと後ろ手に扉を閉め、彼は静かな声で言った。
「先輩」
「やっぱり、アネモネの部屋にいたんですね」
「あぁ、先輩の世話は俺の仕事だから。生きてるときも、死んでるときも」
「邪魔してしまいましたか?」
「邪魔じゃないさ。紅茶を淹れるよ、一緒に飲もう」
ヒナゲシとキキョウの二人は、近くのティーテーブルに着くと、茶菓子を机に並べ、アールグレイを淹れた。赤茶の水面からふわりと白い湯気が立つ。
口をつければ、鼻腔を満たす芳醇な香りに満たされる。ヒナゲシは凝り固まっていた肩が温められて軽くなったような心地になった。もちろん、そうなったのは向かいに座る相手がキキョウだからというのもあるだろう。
「やはり、あんたと飲むととても安心しますね」
「そいつは良かった」
「で、本題ですが……どうですか、アネモネは」
「あぁ……先輩のことか」
キキョウが紅茶を一口飲んで、渋そうに顔を歪める。ヒナゲシはきょとんとしてから紅茶にくちをつけるが、別に苦くも渋くもない。
それから改まって、キキョウのほうを正視した。キキョウはというと、言葉を選ぶように、絞り出すように、丁寧に言葉を紡いでいった。
「先輩はさ。アネモネがどういう存在か、分かるか?」
「救われたくない僕がいるって、言ってましたね」
「なんか難しいな……そうだな、アネモネは、死ぬ前の先輩だ。全てに絶望していた、抑鬱状態の先輩だ」
「……そうですか」
「俺には分からないけれど……先輩は何かしらの要因で、自分の感情を発露できるようになった。それまではああやって感情を不要なものと見なしてたんだ」
「何かしらの要因」に思い当たらないわけではない。ヒナゲシの頭を過ったのは、最初の最初、もう思い出したくないくらい昔の話だ。
── 叫べ、慧ッ! 自分に嘘吐いて逃げてんじゃねぇよッ! 叫べ! 唸れ! 吠えろ! 目ェ逸らすなッ!
目の前に現れた謎の少女が言った言葉に、ヒナゲシはこう叫んだ──理不尽だ。黙れ。あのとき、ヒナゲシが自己否定で閉ざしていた心がこじ開けられて、醜い中身が出るようになったのだ。
それからは、自分の中から出てきた感情をコントロールするために、様々な対話を行った。嫉妬、承認欲求、恐怖、果てには、恋。そして今は、過去と向き合っている。忘却したはずの過去と。
「僕は、この生活を始めて、感情を取り戻したように感じるんです。しかもそれをコントロールできるようになってきた。でも、一つだけ目を逸らし続けてることがあった……それが、アネモネという存在なのでしょう」
「俺も薄々は気づいていたんだ。先輩が何か隠し続けてる、って。それが何か、ようやく分かったよ。先輩が向き合えていなかった、トラウマそのものなんだな」
「僕は……僕は、彼と統合しなければなりません。それは、きっと僕自身を不安定にすることなんだと思います。だとしても……彼が消えなければいけない理由はありません」
「おう、それはどうしてだ?」
ヒナゲシは紅茶を飲み干してから、しばらく空っぽのカップを見つめて、またアールグレイを注ぐ。ティーカップが空になったら、話はおしまい。なら、また注いでしまえば良いのだ。
「彼は僕です。一度は要らないとて切り離しましたが、そうすることで自分の中にあった不安を可視化できた。ならば、包み込むことができるはずです」
「きっと凄い勢いで抵抗されるんだろうがな」
「包み込む……というか、一つになる、というか。今度こそコントロールしてみせるというか」
「落とす算段はあるのか?」
「いや……無いですね……」
キキョウは煎餅を齧りながら、んー、と唸る。視線は上を向いて、斜め下へ。次に言葉を繋ぐときには、キキョウの片手から煎餅は無くなっていた。
「そうだな……強いて言うなら。自己否定の感情は、たいていの人にある。強すぎると鬱病になるし、弱すぎるとそれはそれで境界性パーソナリティ障害とかになる。今までの先輩は前者だな。そして、それをひたむきに見ないフリをしてきた。
だが、先輩は変わった。百パーセント自己否定しか無かったのが、自分を肯定できるようになったんだ。だから、快方に向かってる」
「そうですね……特に今は、あまり自己否定の心は強くないです」
「元に戻したら、絶対に揺り戻しがくる。だが、本来あったものを戻すだけだ。先輩は絶対にアネモネを殺さないでいてくれるって、信じてる」
ヒナゲシは笑みを潜めて俯いた。
アネモネを殺せば、楽になる。自己否定さえしなければ、自分は幸せになる。しかし、テーゼにはアンチテーゼが必要だ。ジンテーゼを導き、前進するためには、自分とは異なる考えを持たねばならないのだ。
さもなくば、結局停滞してしまう。鋼の意思を持った愚か者になってしまうだろう。
指と指を組み、ヒナゲシは顔を上げた。
「僕は、停滞しません。前に進み続けます。自分を殺して前に進むだなんて、違いますから」
「その意気だよ。きっとこれを乗り越えれば、アネモネにとっても、先輩にとっても、大きな一歩になる。そして今、先輩はそれを踏み出すだけの力が溜まってきたんだ」
キキョウがにかっと歯を見せて笑う。裏の無い穏やかな笑顔だ。ヒナゲシもつられて微笑む。
シオンが自分の中に生み出した人格と戦って勝ったように。アザミが本当の自分の姿を晒し、幸せのために歩み始めたように。ハルジオンが過去の自分と決別し、新たな在り方を求めたように。ヒナゲシもまた、自分の影と戦い、和解する覚悟ができたのだ。
キキョウが菓子を掬ってヒナゲシに渡してくる。食えよ、と勧めて。ヒナゲシはそれを受け取ると、その中から一つ、チョコレートを指で摘んで口に入れた。
「俺はさ。先輩のカウンセラーのつもりだ。もちろん、アネモネのカウンセラーでもある。生きてるうちも、死んでる今も、ずっと先輩を支える。だから、心配すんな。どんだけかかっても、俺は先輩に味方し続ける」
「ありがとう、誠」
「おう。いつでも頼ってくれよな」
ヒナゲシは不思議な感覚を覚えた──キキョウの言葉が、すっ、と胸に入ってくるのだ。今までには無かった体験だ。
今までシオンやアザミ、ツバキがヒナゲシの凍った心を溶かそうとしてきた。そのたびに感じたのは、心に突き刺さる感覚であって、心を包み込むような、優しいものではなかった。今の感覚は、閉ざされた扉越しに刺さるようなものではなく、開けていた扉の中へ優しく放り込まれたようなものだった。
それだけ今の自分は、他人の言葉を素直に受け取る準備が出来ているということだ。
「……本当、あんたはよくめげないでここまで僕のことを支えてきましたね」
「そうか? ……まぁ、あんたのことを心から愛してるからな」
ヒナゲシはクスッと笑うと、そうですね、と言って、二杯目の紅茶を飲み干す。後味はやや苦く、されど透き通っていた。
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