女神は二人も要らない
「御機嫌よう、女神サマ?」
「……? 御機嫌よう?」
ヒナゲシは呼びかけられて振り返った。そこには黒髪に赤目の写身が──ヒナゲシにはそう見えていない──立っていた。アネモネである。
アネモネは小さく欠伸をしたあと、ヒナゲシが持っている本をいくつか手に取って本棚に戻し始めた。手伝ってくれるんですね、と言って微笑むヒナゲシに対し、アネモネは笑みを見せることも無い。
二人の間に天使が通る──その沈黙が二人の距離感を示していた。しかしこれは双方にとって居心地の良い沈黙であった。二人は訝しむような素振りをするでもなく、ただ淡々と本を戻していく。
あらかた片付け終えると、ヒナゲシはアネモネをソファへと案内した。アネモネはそのソファに腰を沈め、足を組み、頬杖をつく。そのような寛いだ姿勢でも、ヒナゲシは何一つ嫌な顔をしないで向かいに座るのだった。
「どうですか、アネモネ図書館には慣れましたか?」
「まぁな。仕事のとき以外は寝てられるし、仕事もそんなにいっぱいしなくて良いしな」
「あんたのカウンセリングは好評価ですよ。さすがアザミが連れてきた人材なだけありますね」
「……ハッ、そうかよ」
アネモネが肩を竦めて笑う。女神らしい穏やかな笑顔は無く、彼は普段どおり皮肉げに笑っていた。じろりと蛇のような赤い目がヒナゲシに向けられる。
「それにしたってなァ、女神サマ。女神サマはずいぶん繊細でいらっしゃる」
「繊細……ですか。それはそうですね」
「そんなに繊細だと壊れちまうぜ?」
「壊れる……?」
ヒナゲシはきょとんとして蜂蜜色の目を見開いた。アネモネは頬杖をついていたところからぐったりと肘掛けに寄りかかる。横柄なその態度にも、ヒナゲシが何かを言うことは無い。
アネモネは不快そうに顔を顰めた。
「たとえば、僕のコレ。気に入らないと思わないのか?」
「思いませんよ。あんたが無礼じゃないことくらい分かっています」
「だが一般的には無礼だと思われる。違うか?」
「そんな観点、アネモネ図書館では必要ありませんよ」
片眉を吊り上げ、アネモネが鼻で笑った。ヒナゲシもさすがに首を傾げ、彼の様子を訝る。ヒナゲシの顔色に不快が示されることは無い。
アネモネは節のある手を組んで音を鳴らすと、大きな溜め息とともに続けた。
「繊細なだけじゃ生きていけないぜ? ときには鈍感でないと。敏感であるからこそ苦しむんだ。感情なんかがあるから苦しむんだ」
「僕は敏感だから生きていけなかったんですよ」
ヒナゲシは静かにそう答えた。アネモネは顔を起こし、へぇ、と呟く。
蜂蜜色の目には光が無かった。暗澹たる黒が目の奥にある。見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
アネモネはなおも嘲笑し続ける。人を舐めたような笑みを浮かべ、だらんと腕を垂れさせて。
「感情なんて要らないと思ったことは無いか?」
「感情が無くなったら機械になってしまいますよ」
「へぇ、無いって言うんだ」
「……少なくとも今の僕はそうは思いません」
きゅっ、と唇を一文字にして、ヒナゲシはそう言い切った。アネモネは低い声でクツクツと笑うと、そうかいそうかい、と繰り返し咀嚼するように答える。
今度はヒナゲシが少し前のめりになって話しかける。アネモネはそれを受け入れるように体を起こした。
「あんたの言うとおりです。受け入れるだけでは、戦場では生きていけません」
「そうだなァ。僕たちは受け入れるために生きている、違うか?」
「違いません。受け入れることこそが美徳だと思っていますから」
「それじゃァ駄目だと気がついたのはいつ?」
「……生きているうちです」
生きていることを戦場と呼び、ヒナゲシは視線を落とした。笑みを潜め、憂げな表情になる。
アネモネは愉快そうに笑った。彼にしては珍しく誇らしそうな笑顔だった。
「ほぅら、僕は正しいだろう?」
「正しい、ですけど……それを示して何になるんです?」
「浮かれたあんたの頭を冷やしてやろうと思ってな」
「ずいぶんとお優しいんですね」
ヒナゲシの声はアネモネの想定より優しかった。アネモネはぎょっとした顔になって俯く。ヒナゲシは笑みを崩さないまま──むしろ優しい笑みになってアネモネを見つめていたからだ。
刺す刃に、受け止める優しい手。今の二人において、どちらがより女神らしいかは歴然だった。アネモネは舌打ちをすると、顔を背ける。
「……皮肉なもんだな。あんたのほうが女神らしい」
「そうですか? 僕はそうは思いませんよ。鈍感でいたほうが人を受け入れられると思います」
「……僕だって鈍感じゃないんだ」
アネモネが絞り出すように言う。それは彼にとっては負け惜しみのようなものだった。
「鈍感でいようと努めているだけさ」
「それは……隠したほうが良いことですか?」
「……ムカつく。余裕ありげなお前がムカつくんだよ」
「その怒りさえも僕が背負えればと思いますよ」
「背負うなよ。背負ったから死んだんだろ。他人の感情を背負おうとすんな」
それは、と言ってヒナゲシが口籠る。
互いが互いのことを知り尽くしている以上、ノーガードの殴り合いになることも当然であった。もちろん、そのことにヒナゲシは気がつかないのだが。
アネモネは大きく溜め息を吐くと、話は終いだ、と言って立ち上がる。肩を竦め、戯けるような素振りをしてから、ぎろりとヒナゲシを睨みつけた。
「僕を救おうだなんて考えるなよ」
「……僕は、誰でも救いたいと思います」
「腹立つ。自分のことですら救えないくせに、他人を救おうとすんな」
「自分のことですら、救えない……」
「そしてそれはお互い様。だから、関わんな」
自ら関わっておきながらだがな、と言い捨て、アネモネが歩き去っていく。取り残されたヒナゲシは、しばらく上の空といった顔で彼の背を目で追っていた。
時計の鳴る音だけがそこには残される。ヒナゲシは一人、つられて溜め息を吐いた。
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