それこそがナイトの役目

「何でも一人で抱え込むのが、先輩の良くないところだよ」

 唐突にそんな言葉をかけられて、ヒナゲシは黙り込んだ。いつもどおり長い髪をキキョウに好きにさせているときのことだった。

 今日はふわりとした髪を簪で留める。艶やかで柔らかい髪を撫でながら、キキョウは続きを話した。

「先輩は……先輩は何でも一人で抱え込むんだよ。他人に抱えてもらうものじゃない、って思ってね」

「そうでしょうか……?」

「そして潰れるんだ。不安に苛まれて一人引きこもっちまう。俺はそれが心配だよ」

「心配しなくても良いのに……」

「するんだって。何でも良いから、話してくれないか」

 両肩に手を置き、キキョウは優しくそう告げた。ヒナゲシは困ったように目を逸らすと、特にありませんよ、と淡々と返す。

「ちょっと困りますね。何も無いのに、今は」

「じゃあ俺から話を振っても?」

「構いませんけど……」

「アネモネについてどう思う?」

 ヒナゲシは目を丸くしてきょとんとした顔になる。予測していなかった、とでも言いたげだ。キキョウは真面目な顔をしたまま、ヒナゲシの隣に座った。

「彼は……昔の僕を思い出しますね。誰とでも寝て、誰にでも優しくして、一貫して穏やかで……」

「そういや、ダリアと寝てるんだったか。それで? 他には?」

「特に何も……あぁ、でも、彼を見ていると少し安心します」

「安心?」

「今の僕は、ああいう感じじゃないって。キキョウ、あんたのことを心から愛しているし、シオンとは親友でいられている。凄く安定しているんです」

 キキョウは顔を顰めた──シオンの名前が出てきたからだ。しかしすぐに姿勢を正し、再び真摯な顔つきになると、そうか、と冷静さを保った返事をした。

 ヒナゲシが笑顔で振り返る。どきっ、と心臓が縮こまるような思いになって、キキョウは顔を赤くした。憑き物が落ちたような、穏やかであどけない笑み。彼が最初予想していたような不穏さの無い表情だった。

「抱えていることなんてありませんよ。心の赴くままに僕は人を愛しています。なんだかむしろ重たい枷が外れたような気がして、最近は心地が良いんです」

「……そっか」

「キキョウこそ、何か抱え込んだりしていませんか? 僕で良ければ聞きますよ」

「俺は……俺は大丈夫。先輩が大丈夫なら、だけど」

 ぽん、と頭に手を当て、キキョウがヒナゲシを撫でる。髪がぐしゃぐしゃになってしまいますよ、と言うヒナゲシにも構わず、キキョウは遠くを眺めて口を噤んでいた。

「先輩は一人で物事を抱え込みがちだ。違うか?」

 キキョウが座っていたのは、アザミの前だった。アザミは黒髪を弄りながら、真っ赤に塗ったマニキュアを眺めている。

 返答が無いのに痺れを切らし、アザミ、とキキョウが呼びかけた。アザミは大きく冷ややかな赤い目を向けて、何だ人間、と言った。

「だから分裂したんだろ、先輩は」

「そうさね。彼の精神的孤独感をどうにかするために分裂させた」

「どうして俺たちに相談してくれなかったんだ」

「彼が一人で抱え込むことを選んだからだよ」

 アザミは大きな欠伸をすると、ティーカップに紅茶を注いだ。それから指で角砂糖を五つ摘み、ぽとんと落としていく。優雅に紅茶を飲む姿には、どことなく余裕と貫禄を感じさせるものがある。

 キキョウは膝の上で握りしめた拳を震わせ、続きを問う。それでもアザミの表情は変わらなかった。

「先輩が抱え込んでいたものが何か分かってるのか」

「無限の虚無だよ。誰とも相容れない虚無そのものだ。幸せを拒み、強がり、不幸に寄生した人格だ。幸せになりたいと願いながらそれをいとも簡単に踏み躙る人格さね」

「……俺は先輩に幸せになってもらいたい。それは、アネモネも一緒だ」

「なら説得すれば良い。自分と一緒に幸せに生きてくれないか、と。自分を安売りするのはやめろと」

「お前はしないのか」

 アザミはわざとらしく顔を歪めた。言わなくても分かるだろう、と言いたげに。されどキキョウには伝わらない。アザミは大きく息を吐くと、それができりゃ万々歳だろうがよ、と呟いた。

「ボクにも分かるんだよ、彼奴の気持ちが。ボクに言えたことじゃない。自分の身をすり減らしてでも他人のためになりたがる機械をどうやって止めろって言うんだ? 必要なのは絶対的な信頼と愛だ」

「お前は愛しているんだろうが、アネモネのことを」

「愛しているよ。慧のことを愛している。されど……それでも届かないことがある。それは貴様がそうだったようにな。

アネモネは進化なんて望んじゃいない。望んでいるのは永遠の停滞だけだ。自分の在り方を変えるつもりが無いらしい」

 キキョウは拳を解くと、はぁ、と大きな溜め息を吐いた。脱力しきって諦めた顔つきだ。アザミが渋そうに紅茶を飲んでいるのと同じように、苦々しげな顔で俯いた。

 自分では何もできないのか、と。

 答える者はいなかった。アザミは早々に紅茶を飲むと、茶が切れた、おしまいだよ、とキキョウを追い返す。

 キキョウは去ろうとするアザミの後ろ髪を引くようにして声をかけた。アザミが憂げな顔で振り向く。

「アネモネには、自分を安売りするなって伝えたら良いんだな」

「……それで聞いてもらえるならな」

「分かった。ありがとう」

 アザミは踵を返し、図書館の中へと去っていく。一人残されたキキョウは、自分の拳を確かめるように見つめ、席を立った。



「アネモネ、入るぞ」

 ノックの音に返事は無い。中にダリアがいることを一瞬恐れたキキョウだったが、その心配は必要無かった。部屋で一人横たわり、宙を見つめているアネモネがいたからだ。

 アネモネは仕事以外の時間のほとんどを部屋で過ごしている。そして噂によれば、ずっと布団に横になっているのだそうだ。

 その話は当たっていた。彼は眠たそうに寝返りを打つと、キキョウのほうを鬱陶しそうに目を細めて眺めた。

「誰かと思ったら、キキョウか」

「先輩。先輩と話に来たんだ」

「悪いが話すことは無い。帰ってくれないか」

「先輩は一人で抱え込む癖がある。今回だってそうだ。俺には話してくれなかった。どうしてなんだ?」

「僕は誰も信用していない」

 キキョウの喉が鳴る。予想していた返答だったが、キキョウの心をぐさりと突き刺すには充分だった。しかしここで引き下がるわけにはいかないと、キキョウは改まって話を続けた。

「先輩は一人で不幸になろうとする。どうしてなんだ。不幸なほうが落ち着くからか?」

「僕の幸せは誰かの不幸だ。僕が辛酸を舐めれば誰かが喜ぶ」

「でも、それって辛くないか?」

「辛いなんて感情はヒナゲシの考えることだろう。そんな感情、あってはいけないし、あったら削除する」

 淡々と答え、アネモネは大きく欠伸をする。キキョウを目にも留めず、赤い目はだらんと垂れた自らの腕のほうに向けられた。

 キキョウはきゅっと拳を握りしめる。そうして正視する濡鴉色の瞳には、灯火のような光が灯っていた。

「俺は先輩に幸せになってほしい。このまま滞ってほしくない。いや、幸せになるんだ。幸せになる権利があるんだから」

「僕だって幸せになれたら良いさ、そんなに簡単なものならな」

「簡単だよ。重石を一つ一つ捨てていけば良い。一つ一つ楽になるんだ。俺が手伝うから」

「無理だよ。

僕はベッドの上から動けない。体力が無いんだ。

僕は食事がとれない。気力が無いんだ。

僕は長く仕事ができない。体力が無いんだ。

なんにも無いんだ。なんにも無い。あるべき全てのものが無い。ただベッドの上で滞り続けるだけさ」

「なら、少しずつ動かそう。指の先から、手の先から、足の先から……やがて座れるようになって、やがて立てるようになる」

 そう言いながら、キキョウはアネモネの手を取った。節のある手が、硬く尖った手に触れる。ひんやりと彫刻のように冷たい手を両手で包み、キキョウは笑顔を作った。

 アネモネは目を見開き、それから伏せた。拗ねるように口を尖らせるが、手は握らせたままだった。

「先輩。俺と幸せになろう。先輩も幸せになろう。そのためだったら何でもする」

「……そんなに僕の世話をしたいのか」

「結果そうなるとしても構わないよ。先輩が少しずつ動けるようになるために、何だってする」

「……一人で座れる」

 手を離させると、アネモネはベッドに寄りかかって座った──首元まで布団を被ったまま。ようやくアネモネとキキョウの視線がぶつかる。

 キキョウはその美しい顔つきに一瞬見惚れ、すぐに顔を振った。彫刻のように、という比喩表現を使ったように、左右対称で作られたような顔立ちをしているのがアネモネだ。

 アネモネは睨むようにキキョウを一瞥すると、布団を握りしめて溜め息を吐いた。

「座るまではできる。それ以上はできない」

「構わないさ。その状態で俺と話をしよう」

「話……何の?」

「そうだな、俺の話でもするよ。この間さ、」

 キキョウは手を取ったまま話し始めた。アネモネは口を尖らせ、拗ねた表情を変えることは無いが、彼の言葉に耳を傾け始めた。彼から問われた質問には答えるが、次第に怠くなってきたのか言葉に気力が無くなっていく。するとキキョウは、寝ても良いぜ、と声をかけるのだった。

 頭を撫で、ずるずると布団に引き摺り込まれていくアネモネを愛でる。アネモネはとにもかくにも不服そうであった。それでもキキョウの表情は変わらない。ヒナゲシに向けるのと同じ、慈しみを込めた笑顔だ。

 アネモネはまた分かりやすく長い息を吐くと、目を閉じた。その様は飼い慣らされた猛犬のようでもあった。

「おやすみ、先輩」

 キキョウがぽつりと呟く。アネモネは返事の代わりに、安らかな寝息を返したのだった。

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