救世主願望と崩壊

 鮮血がティーテーブルを濡らす。アネモネはそれをただ眺めているだけだ。声を上げて泣いているのは、ダリアだった。

 昼下がりの花園には、二人以外誰もいない。ゆえにその呻き泣くような声は響き渡っている。誰かが助けてくれるわけでもない。目の前の救世主はただ、紅茶を飲みながら、彼の頭を撫でるだけだ。

「薬を飲んで寝たほうが良いぜ。苦しいときはそれに限る」

「……ッ、センパイ、センパイはどうして僕のことを拒絶するんですか……」

「拒絶はしていないべよ。適切な距離を取ってるだけだべよ」

「適切な距離、って何ですか。適切な距離で逃げるんですか、僕から」

「そうだな。適切じゃない。機械と人間は一線引かれるべきだ」

「機械である前に人間なくせに。怖いから逃げるんですか? 僕が怖いから逃げるんですか?」

 ダリアは赤く染まった手で目を拭う。頬には血で染まった赤い涙が伝っていた。アネモネは憐憫のような表情を浮かべると、やはり早く寝たほうが良い、薬なら差し上げるから、と返した。

「逃げてるんだ。逃げてるんだよ、それは。救世主気取りなくせに僕のことなんて見てやしない。それで本当に僕らを救うって言うんですか?」

「あんたはあの男が逃げないから人を救っているように見えるかもしれない。しかし彼奴は停滞を選ばないぞ」

「停滞……? 滞ってんのはアンタのほうじゃないか!」

「そうだな。それの何が悪い? 僕は変わらないし変われない。人を変えようとする試みそのものが愚かしいと思ったことは無いか?」

 アネモネの言葉に、ダリアの顔から血の気が引く。ヒナゲシでは決して言わない一言であって、ダリアでは諾うべきだった一言だったのに、それができなかった。

 彼は知っている。人を変えることはできる。殻に篭ったままのアジサイを助けることができたことを知っている。不可能だと思われた行為は成し遂げられたことを知っている。

 だが、原初に戻ってみれば、他人を変えることなど不可能なのだ。あくまで歯車が噛み合っただけ。こうして強情で動かないアネモネを変える試みそのものが間違いなのだ──ダリアは血の臭いと動揺で吐き気を覚えた。

 アネモネは変わらず言葉を続ける。救世主という機械は、現実を無常に叩きつけ彼を引き裂き続ける。

「そして、変わらないことを望む者がいる。救われたくないと願う人間がいる。そんな人間に無理矢理変化をもたらそうとするアネモネ図書館という場所は間違えていると僕は思う」

「……近づきたい人に近づけなかったらどうするんですか」

「あんたはそんなことを言わない」

「……僕にだって分かりませんよ。分からない。分からないから怖くて仕方無いんです」

 ダリアは腕を摩り、心底寒そうに顔を歪めた。アネモネは片目を閉じて、紅茶でも飲んだらいいさ、と言ってダリアのティーカップに紅茶を注いだ。

「また煙に巻こうとして……!」

「寒そうに見えたから」

「アンタのほうが分かるでしょう、『寒い』ってどんな感覚か!」

「知っているけれど、それを他人にどうにかしてもらう必要は無い。お節介というものだよ、それは」

「お節介だなんて……ッ!」

 頭を抱え、ダリアは搾り出すように呟いた。それから、またカチカチと音を鳴らしてカッターナイフの刃を出して、腕へと滑らせた。

 吐息は荒く、それでも涙は止まらない。興奮を抑えるおまじないは効かない。だから何度でも切る。

 アネモネは顔を顰める。だがそれ以上のことはしない。頼まれなければ助けないし、頼んだって救世主というマキナは距離を詰めてくれることは無い。あくまで他人目線で助けようとするのだ。

 克服せねばならないのは自分のほうだ。ダリアは一人泣きながら、ぐしゃぐしゃの頭でそんなことを考えた。振り切らねばならないのは、自分のほうだ。

 しかしその術が思いつかなくて、また手首を切る。いよいよ顔が青ざめてきたダリアの腕に、見かねたアネモネがそっと包帯を巻いた。

 手の甲まで切り裂いたゆえに、彼の腕は見るも無惨に指先まで包帯だらけになった。血が滲めばさらに包帯をきつく巻く。ダリアはその際、触れてきた優しい手つきに涙を溢れさせるのだった。

「……センパイだ」

「僕はセンパイじゃない。僕はアネモネだ」

「……ありがとうございます。でも……優しくしないでください」

「傷ついた人がいたら助ける。当たり前のことをしたまで」

「要らないです、そんなの。人に優しくされると、期待してしまうから」

「素直になったもんだな」

「……素直にならざるをえなかったんです」

 ダリアはそう言って立ち上がる。冷えた両腕を摩り、寒そうにしながら。もう寝ます、と言い残して去っていく。

 アネモネは大きく息を吐き、ティーカップの水面を眺めた。揺れる水面に、彼は映らなかった。

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