第八章:救世主というマキナ
救世主というマキナ
先輩の夜泣きが酷いんだ──そう言うキキョウもあまり元気そうではなかった。おそらく眠れていないのだろう。夜驚症という診断名がついた。
なにせ無意識のことだ、覚えていないらしい。そこでついに、魔女の力頼りということになった。
アザミはティーカップ片手に、ヒナゲシの元を訪れる。彼はへらっと笑うと、アザミか、座れよ、と穏やかに言った。その目の下には隈が刻まれていた。
不服そうに口を尖らせ、アザミは紅茶を受け取る。三つの角砂糖を入れて混ぜながら、口火を切った。
「あのさ。無理すんのやめてくんない?」
「は?」
「シオンに恋することで無理してんだろォ? 期待したり期待しなかったり、愛したり愛さなかったり。気持ちはジェットコースター、振り回されては死を願ってんだろォ?」
「……願ってなくはないけど。願うこと自体間違ってんだろ、」
「死にたいのも消えたいのも異常じゃねェんだよ。なぁ、慧、本当のとこを話してくれねェか?」
本当のとこ──アザミとヒナゲシは、互いをよく知っている。だからこそ、アザミはヒナゲシに本当の気持ちを尋ねる。ありのままでグロテスクで、どうしようもないくらい醜い感情を。
ヒナゲシは大きく息を吐くと、嫌だなァ、と呟いた。決して否定ではなかった。
「アザミさ。俺のこと分離することってできねぇか? コスモスとリンドウみたいに」
「理由を聞こうか」
「恋をしながら浮かれてる奴と、その反面で冷ややかに見てる奴。自分で自分を受け入れられない。早く切り落としてやりたい」
「……恋して甘える心も真、それを嘲笑う心も真、ってことかね」
「そうだよ。自己矛盾は、あっちゃいけない」
「んなことは無ェと思うがなァ。ボクたちは人間だぞ」
むすっとしたままのヒナゲシに、アザミは額に手をついて机に肘を立てた。ヒナゲシは優雅に紅茶を飲みながら続ける。
「僕は人間じゃない。たとえるならそう、人を救う機械だ」
「……違ェよ。アンタは間違いなく人間だ」
「
「そうでなくなるためにアネモネ図書館に来たんだろォ……?」
「僕だってそう思うさ。だが僕はそうは思わない」
アザミの声色が弱くなる。アネモネ図書館にやってきたときから、ずっと部屋の隅で冷えていた彼が、ついに自我をもったのを確認した。今までは時折出てくる一面だった「僕」が、恋への目覚めにより決定的に乖離したのを知った。
何のために? 恋に目覚めた自分を守るために。嘲笑うためにだ。シオンとの距離を測れぬ自分を嘲笑うためにだ。
アザミはしばし頭を抱えた。確かに夜泣きを無くすことはできるだろうが、それはして良いことなのか。それをすることで、ヒナゲシは停滞してしまうのではないか。しかし、停滞を選ばなければ前に進む機会も無い──
大きく息を吐いて諦め、アザミは杖を手に取った。
「慧。今から言うことに従え」
「何だ?」
「原初の魔法さ」
そう言って拳を握りしめる。ヒナゲシもそれに従う。今度は足首を上げる。肩を上げる。目を強く瞑る。口を横にいーっと力強く引く。
そうして体全身を緊張させてから、解く。ふう、と大きな息を吐きながら、ヒナゲシは虚無に満ちた落ち窪んだ顔をした。
アザミはそこで、魔法を唱えた。
「真実の自分をとくと見届けよ。貴様は今日から『アネモネ』だ」
がくり、ヒナゲシはベッドへと倒れる。その代わりに、アザミの目の前に立っていたのは、彼と同じ顔をして、同じ声をして、それでいて、アザミと同じカラーリングの壮年男性だった。
黒髪は短く、赤目は垂れている。ヒナゲシより少し若い。他の誰が見ても、彼はヒナゲシであった。しかし、ヒナゲシにとってだけは、彼は「アネモネ」であった。
新たな司書としての名を授かったアネモネは、大きく伸びをすると、片目を細めて歪に笑った。
「強硬手段だな」
「今後は貴様とヒナゲシをぶつけ合うことで自己矛盾との付き合い方を知ってもらう。いずれ回収される定めだぞ」
「知るかよ。一生彼奴から離れておいてやる」
「お前なぁ……」
新たな司書の歓迎のためと、アザミは少し若い彼を導く。彼の瞳に光は差さない。彼の体を温める者はただ一人、手を繋いだアザミだけ。
さらに幕は上がるのだ、とアザミは一人心中でナレーションを入れた。
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