不信と不愛を誓え
「おやおや? 御機嫌よう、お嬢さん?」
「……お嬢さん、ではないわ。あなたは……」
「……んん? そうですね、アンタ、見たことあります。コスモスさん……でしたっけ?」
アネモネ図書館の外、一人で紅茶を飲んでいたコスモスの元に、薄笑いを浮かべた男がやってきた。彼は椅子を引くと、僕も飲んでも、と尋ねる。コスモスはおずおずとティーポットを差し出した。
コスモスは手を膝の上に置き、赤いつり目でじっと男を見上げた。コスモスのほうは、もちろん彼のことを知っている。九輪目の司書・ダリアだ。しかし、話しかけたことも無ければ、話しかけられたことも無い。
彼女の推し量るような視線に気がついたのか、ダリアはティーカップから口を離し、にこっ、と愛想良く微笑んで見せた。
「先程はすみません。こうやってお話しするのも初めてですから」
「いえ。私は普段裏の仕事を手伝っていますので、会うことも少ないですから。お気になさらず」
「というわけで、どんな方かと思って、お話ししようかと」
「私、お話しできることなんてありませんよ。つまらない人間です」
「そんなことありません! 最初から面白くない人なんていませんから?」
ダリアは肩を竦めて戯けてみせる。コスモスは視線を落とし、白いティーテーブルの模様を指でなぞった。
「……社交辞令、ですよね」
コスモスが掠れた声で呟く。ダリアは黒真珠の瞳をころんと転がして、コスモスの指先へと目を向けた。
ごめんなさい、とコスモスは続けた。これは彼女の口癖だ。何に対して謝っているか、彼女自身も分かっていない。とはいえ、今のは確実に、「社交辞令を言わせてしまったこと」への謝罪だ。
ダリアはクスクスと小悪魔じみた笑い声を上げて、肩を揺らした。コスモスが、ふっ、と顔を上げる。片目を隠す黒い前髪がはけて、両目の疑心がダイレクトにダリアに伝わるのだった。
「どうして笑うんですか」
「いや? ちゃんと社交辞令だって疑えるなんて、頭の良い人だな、って。素直に『ありがとう』とか言っちゃわないところとか?」
「……私を褒めるなんて、信用できませんから。きっと裏では私に思うところがあるのでしょう」
「そうですよね、えぇ、そうなんです。はぁ、アネモネ図書館に来てから、そういう感覚がどっかに行ってしまっていたので、ちょっと安心しました」
「安心……?」
コスモスは眉を寄せて聞き返す。ダリアは紅茶を一口飲んで、大きく息を吐いた。それから、頬杖をつき、コスモスのことを冷ややかな目で見つめた。ひやりと背中が震えて、コスモスは身を硬くする。
「『次はこうしましょう』『今日はとても楽しかったです』……全部全部、嘘ですよね? 裏で何を言っているか知らないんですもの。だったら、信じないのが正解ですよね?」
「え、えぇ……そうですね。自分の知らないところでは、悪口を言われているかもしれませんし……私は、皆さんの輪に入っていませんから。何を言われていても、分からないんです」
「そうそう。本当に好意を向けているなら、輪に入れてくださいよって話ですよね? あはっ、嘘なんです、ああいうの!」
あはは、と上機嫌に笑うダリアから目を逸らして、膝を見つめる。コスモスはまだ固まったままだ。ダリアが笑っている一方で、彼女は笑いたい気分でもなかったし、笑うような人でもなかった。
コスモスが黙ったままなのに気がつくと、ダリアは唐突に笑うのをやめて、元どおりの口調で話し始める。
「コスモスさんは、そういうの気に病むタイプですか?」
「気に……病みません。当然のことなので」
「そこまで馬鹿じゃないですよね。額面通り受け取って、何かお返ししようとしたときにはもう誰もいない……なんてザラにあるんですけどね? まぁ、そういうのは愚か者の辿る道ですもんね」
「あなたは……そういうことをして、痛い目を見たことがあるの?」
「うーん……痛い目までは、見てないですけどね? 信じてしまって、勝手に裏切られたことはあるんです。
それは僕の落ち度ですから。僕が信じたのが悪いんですから。期待なんて、常にする側が悪いんですよ」
ダリアはそう答えると、頬杖をついていた指先を唇に添え、憂げな顔をしてみせる。コスモスはしばしその顔に見惚れていた。
コスモスの知る限り、彼のそんな顔は初めてだった。だから、見惚れていたというよりは、呆気にとられていたのかもしれないし、恐ろしくて目が離せなかったのかもしれない。
ダリアは緩く視線を向けると、再び甘く微笑んだ。コスモスは肋骨の真ん中がきゅっと痛むような感覚に襲われた。
「結局のところ、誰かを信じ、誰かに従い、仲良くしようとする全ての行為が無駄なんだって、知ることになりますよね」
「そう……私は、だから、人と関わりたくありません。口では『迷惑じゃない』と言ってくれていたって、その腹の中ではきっと私の存在を面倒がっているんです。そうすると、相手を不幸にしているのが悲しくなって……」
「じゃ、今こうして話しているのはどんな気分です、お嬢さん?」
「……信用できません。それは、変わりません。ダリアさんは私に合わせてくれているんだと思っています」
コスモスはそう言って、膝の上に置いた手を握り締めた。確かに、気持ちを一にする者同士の会談とも捉えられなくはないが、彼らはそれでも退け合うことしかできない。
ダリアは、ふぅん、と小さく呟くと、コスモスの頭の先から、ティーテーブルで隠れた足先までを眺める。コスモスはいたたまれなくなって、何ですか、と抑え気味の声で言った。
「いえ。嘘はついてないな、って。僕、アンタの言うことは素直に信じられそうです」
「し、信じないでください。心を寄せないでください。私きっと、あなたの信頼を裏切ります。それに、」
「『信じられたと思ってぬか喜びするのが怖い』ですか?」
「……分かってるなら、どうしてそんなことを言うんですか?」
震える声で答えるコスモスに、ダリアはにっこりと微笑をたたえた。コスモスの目には、その笑みは少し得意げにも映った。
「コスモスさん、嘘をついて僕に気に入られようとか、しませんからね。素直にも程があります」
「……素直……ですか? 私は結構、捻くれてると思います」
「でも、口先で相手を惑わすタイプじゃない。だから、言ってることは嘘じゃないって分かる。そういうところ、アンタの良いところだと思いますよ?」
「……社交辞令、ですね。ありがとうございます」
ダリアは口を尖らせ、つれないなァ、と呟く。しかし、その表情は緩く、満足げだった。コスモスは相変わらず、無表情に近い顔で目を背けている。
すると、ダリアは空のティーカップをソーサーに置き、立ち上がった。ごちそうさまでした、と言い足して。それから、眉を下げて悲しそうに笑った。
「あはっ! ……やっぱ、人を愛するって、損ですよね。人なんて、愛したら負けなんです。期待する方が悪いんですよ、世の中」
彼の言葉に、コスモスは何も言い返せなかったし、同情の言葉もかけられなかった。ただ彼の顔をまじまじと見つめていることしかできなかった。
本当に自分が言ったことは、彼のためになったのだろうか──そう考えて、ようやく何か言えるようになったときには、もうダリアはいなくなっていた。
コスモスは一人でティーセットを片付け、アネモネ図書館へと戻る。コツコツとヒールを鳴らし、背筋を伸ばし、人形が歩くように。だが、無気力で無思考な顔の裏では、ダリアにかけるべきだった言葉が渦巻いていた。
──でも私は、さっきの言葉、少し嬉しかったです。
その言葉がいかに傲慢で不幸を呼ぶかを自覚し、刻み込みながらも、ふとしたときに、心の底から浮かび上がってくるのだった。
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