近づきたい、分からない、怖くなる
「アザミ、あたしのお姉ちゃんになって!」
黒いパーカーの袖を握りしめ、青目の少女はぐいと顔を寄せる。アザミと呼ばれた彼岸の魔女は、顔をややしかめて首を引くと、大きなため息を吐いた。
魔女は何かを言おうとして、代わりに頭をがしがしと掻いた。困り果てた表情を見ても、懇願する少女の顔つきは変わらない。
その沈黙をなんとか埋めようと魔女が口にしたのは、茶を持ってこい、という横暴な一言だった。少女はこくこくと頷き、キッチンへと走っていく。彼女の背中を眺めながら、魔女は一人回想した。ついさきほど処理した自殺志願者のことだ。
まだ若いのに、世界の全てを恨んで死んでしまった女だった。親も先生も友達も嫌い。祖父母も意地悪だし従兄弟も嫌い。皆々大嫌い。呪詛を吐き、憎んでもないアザミを睨みつけていた。
そこでふと、アザミは問いかけたのだ。
──アンタ、兄弟がいたみたいだけど。兄弟も嫌いなのか?
彼女という物語、すなわち人生の中に、あともう一人恨まれなければならぬ存在が残っていた。彼女より二つ下の弟である。彼の名前を告げると、女の顔から憎悪の色が掻き消えていった。
──私の味方は、弟だけでした。私のことを許してくれたのは、弟だけ……
涙を流してそう答える若き少女を見て、アザミは目を伏せた。それから、少し顎を上げると、本を膝に置き、少女を見下ろした。
──世界に一つ、好きなものを置いていって良いのか? 弟はアンタが死んだら、たいそう悲しむぜ?
その言葉が決定打となり、女は魔女と契約を結んだ。魔女は思った、そもそも彼女が死んだのは、強い意志ではなかったのだ、と。ただ精神的苦痛に耐えられず、頭が働かず、結果として選んでしまったのだ、と。ゆえにこそ、彼女はたった一つ、愛する兄弟という楔で現世と繋がっていられたのだろう。
翻って、自分を妹にしたがる少女・リンドウを思い出す。彼女には副人格という姉がいた。しかし彼女たちは殴り合うほど互いを憎んでいた。そんな「姉妹」という単語に敏感そうな彼女が、姉妹を作りたがるとしたら。何かを吹き込まれているに違い無いのだ。アザミは一人行き場の無い嘆息を漏らした。
程なくして、リンドウはティーセットを持ってやってきた。ゆらゆらと揺れるティーカップはアザミをはらはらさせながらも、リンドウは机の上にティーセットを並べた。それから、向き合ったアザミに、明るい顔で、いくつ砂糖入れる、と尋ねた。アザミは何も言わずに三本指を立てた。
「もー、アザミはいつか糖尿病で死んじゃうよ」
「お節介どうも。つーか、アンタも紅茶を素で飲めねぇべよ」
「まぁね。でもアザミほどじゃないし」
角砂糖が一、二、三個落ちて、ぽちゃんとティークラウンを作る。リンドウも角砂糖を一つ入れると、ティースプーンでくるくるとかき混ぜ始めた。
アザミは紅茶を冷ますためにと、話の続きを促す。リンドウは回す手を止めないまま、元気良く答えた。
「それで? どうしてボクと姉妹になりたいんだ?」
「だって、そしたらアザミともっと話せるでしょ。アザミに可愛がってもらえるし、アザミに甘えたって良い」
「アンタさァ、言うほどボクがアンタの面倒を見てやったことあるか?」
「あたし覚えてるもん。眠れない日、アザミが寝かせてくれたこと。そのときにね、こんなお姉ちゃんがいたら良いな、って思ったの。
でさ、今日の自殺志願者……弟のために生きていく、って言ってた。やっぱり、兄弟ってそれくらい大切なんだと思う」
はぁ、とアザミは呆れた返事をする。つまりは、彼女の仕事を見た結果、姉妹というものに夢を見た、ということだ。
リンドウは冷めきってない紅茶を口につけて、あつっ、と呟き、ティーソーサーにカップを置く。
アザミは足を組み直し、鼻を鳴らして続けた。
「あのなァ。名前のある関係はさぞかし楽だろうよ。恋人なら恋人らしく振る舞えば良くて、友達なら友達らしく振る舞えば良い。だがなァ、世の中そんな関係だけじゃないんだぜ? こうやって血の繋がりも無い人に『姉になってくれ』って、どういう神経で言ってんだ?」
「何よそれ、あたしなんか悪いこと言った?」
「悪くはないけど。ボクじゃなかったら、アンタを気味悪がって避けるよ」
「なにそれ。あたしに嫌われる道理無いんだけど」
「無いと思うかもしれないが、あるもんだぜ。それが重たいとか言ってな」
リンドウはぷくーっと頬を膨らませる。アザミは頬を掻くと、言い過ぎたかな、と小さく呟いた。
彼岸の魔女の助言は、全て実体験とそれに基づく集計データから成り立っている。その結果導き出した答えがこれだということだ。
「二人の関係は、作ろうと思って作れるわけじゃねェ。あの人と仲良くなりたいとか、あの人と友達になりたいとか、願ってそのままアタックすりゃァ上手くいくってもんじゃないんだぜ。そういうつもりで近づきすぎて、かえって逃げられることなんて往々にしてあるんだぜ?」
「……なにそれ、理不尽。あたしが好きで近づいてんのに、っていうか相手だって仲良くなりたいって思ってるのに、あたしが拒絶されなきゃならないの?」
「じゃあお前、ボクが実はアンタのことが嫌いだったら、今の発言ってどうなる?」
「あたしにだって分かるし! アザミ、あたしのこと嫌いじゃないじゃん。むしろ好きじゃん」
アザミは首の後ろを掻きながら目を逸らす。リンドウは腕を組み、むすっとした顔でアザミを睨みつけた。
そもそも、アザミはリンドウの申し出を断りたいわけではなかった。むしろ、ご勝手にどうぞ、と言うつもりではあった。しかし、そこでふとお節介がはたらいてしまったのだ。
アネモネ図書館とは、人間と上手くやっていけなかった人々のための訓練所だ。コミュニケーション、人間関係の構築、アンガーマネジメント──そういうものを学ぶ場だ。そして、やがては元の世界に戻る。アネモネ図書館創立者の狙いは、こういうものだ。
だからこそ、彼女には伝えなければならない、と思ったのだ。無垢で透き通った水色の目、あどけない顔。こんな顔をした少女は、自らの親を包丁で刺し殺したのだ。それこそ、人と上手く付き合えなかったがゆえに……
アザミは改めて背筋を正す。自戒するようにして、穏やかな口調で話し始めた。
「たとえば、なんだが。相手は確かにアンタのことが好きだ。だが、友達になりたいとは思っていない。そういう状況は確かに存在するぜ?」
「それって、『いい人だけど友達にはなれない』みたいな感じ?」
「そういう場合もあるし、まだ早いってのもある。中には『一度会ったらもう友達』って奴もいるかもしれないが、ごく僅かだ。基本的には、いくら出会いがドラマチックであれ、情熱的であれ、その熱はすぐに冷め、冷めやらない我々が警戒する羽目になんだよ」
「酷い。友達になりたそうだからいろいろ話してるのに、それで嫌われるって何なの?」
「理不尽だな。だが、実際にそうだ。どこまで相手が自分を受け入れてくれるかは、少しずつ測らなきゃならねェ。リンドウ、アンタはボクがどれくらいアンタと仲良くしたいと思ってるかなんて確かめないで、姉という役割を押し付けようとした。『それはちょっと』とか言われたらどうするつもりだったんだよ」
「アザミのこと、嫌いになってた」
「そしたらもう関係は終いだ。これ以上発展もしないし、互いに傷ついて終わりだ。違うか?」
違うか、と念を押せば、違わない、と答える代わりに、リンドウは顔を横に振った。アザミは満足げに薄笑いを浮かべる。
そうだ、そういうものなのだ。人に近づいて、拒絶されると嫌いになる。逃げられると嫌いになる。別に近づいた自分が悪いわけでもなければ、逃げた相手が悪いわけでもない。嫌いにならないためにはどうすれば良いか──測らなくてはならないのだ、互いの距離を。互いが互いを重苦しく感じない距離を。そのために、何度でも逃げて、何度でも近づいて、何度でも試さなければならないのだ。
リンドウは気まずそうに目を逸らすと、ごめんなさい、と小さな声で言った。「あたしは悪くない」が口癖のリンドウにしては、なかなか珍しい言葉だった。
「そうだよね。お姉ちゃんって甘えたら鬱雑いよね。あたしとアザミ、そういう関係じゃないもんね。ごめん、忘れて」
「忘れるわけ無いんだよなァ。ボクは彼岸の魔女、慈悲深さにおいては隣に出るものはいないんだぜ? そんくらい喜んで請け負うが?」
「嬉しい……けど、許してもらうことじゃないよ、たぶん、こういうの。あたしがちゃんと分かって、諦めることだよ」
「だーかーらー! ボクとアンタは姉妹の仲を築くのにふさわしい関係だっつってんの! 分かったか?」
「え、ほんとに?」
首を引っ込めて泣きそうな顔で見上げるリンドウに、アザミは長い溜め息を吐いた。それから、真っ白な手を彼女の頭に当て、優しく撫でる。リンドウはきゅっと目を瞑り、動かないでいた。
「姉と呼びたいなら勝手に呼びなァ。まぁ、ボクがアンタの姉に値する人間である確約はしないがな」
「ううん。アザミは皆のお姉ちゃんだもん。たぶんこの図書館の中で、一番優しいよ。あ、でも、ヒナゲシも優しいかも」
「彼奴と同格なら光栄だね。で、アンタは何をしてほしい? ボクだってアンタとの距離を測らなきゃならねェんだから」
「今は何も思いつかないや。でも……アザミお姉ちゃん、って呼ばせて」
はいよ、と答え、アザミは手を離した。リンドウはこぼれ落ちるほどの笑みを浮かべ、アザミお姉ちゃん、と呼びかける。アザミはすっかり冷めてしまった紅茶を味わってから、どうした、と温い声で答えたのだった。
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