憎悪と悲哀の狂想曲

 さて、ここには二人の男がいる。刃物を持った男と、押し倒された男だ。ボサボサの黒髪は針のように男の顔を覆っている。三つ編みに結んでいた亜麻色の髪はベッドの上に乱れて広がっている。それは朝四時のことだった。

 部屋の小さな明かりに照らされて、喉に突き立てた包丁が暖色に光った。反対に、それを掲げる男の目は、濡烏色に光った。

「……待ってくれ、キキョウ……」

 詰まったような声で、倒れた男が呟いた。少し間を置いてから、濡烏色の目を細め、もう一方の男が静かに答えた。

「待たない。殺す」

「そんなことをしたって、ヒナゲシが悲しむだけだ」

「……ッ! 最低だな、お前……!」

 腹からの怒号が男の顔に振り注いだ。首の皮が、ぷちっ、と裂けて、小さな切り傷が出来上がる。首を切られた男は顔を顰め、キキョウ、ともう一度刃物を持った男を呼んだ。それはそれは穏やかに、奮い立った獣を撫でるように。

「君なら目に浮かぶはずだ、僕を殺した君を嘆き、死んだ友人を嘆くヒナゲシが。僕と君をいっぺんに失った姿が……」

「命乞いをする身で言うことか⁉︎」

「頼む、ヒナゲシのためだ、留まってくれ。憎悪より、ヒナゲシへの愛情を優先してくれ」

「だから……ッ、お前の言うことじゃねぇんだよ……!」

「お願いだ……君に謝るチャンスをくれないか」

「お前なァ……! 人の恋人を誑かした分際でペラペラうるせぇんだよッ!」

 ほんの少し、包丁が動いたのを見計らい、襲われていた男は包丁を握る手首を握りしめ、強引に動かした。首に赤い一筋の傷が現れる。されど、その勢いで、キキョウは柄を手放してしまった。

 崩れるようにして、キキョウの体が下の男に覆いかぶさる。頭を掻きながら、すぐに体を起こすと、首筋に手を当てて死んだ目と視線が合う。キキョウは片目を細めて、眼下の男を睨みつけた。

「図ったな」

「……誤解しないでくれたまえ。僕が死にたくないからじゃない。君のためなんだ」

「ふざけるな……シオン、お前は、先輩に何を吹き込んだ? お前は先輩に何を言った!」

「キキョウ。今はまだ早朝だ。騒がないでくれ」

「やっぱり殺す……!」

 キキョウは素早く包丁を握り直し、シオンと呼ばれた男に振り下ろす。目には殺気が孕んで光っている。息は荒く、作法も荒く。シオンが隣に寝転んで、刃先が羽毛布団に刺さる。髪の毛が引っかかる。包丁を持ち上げる。振り下ろす。瞳孔が大きくなって、シオンを逃さないと言わんばかりに睨む。

 何かを刺す音が部屋に響いて、続いて、二人の息が荒くなる。そこに言葉は無い。押し倒されたままのシオンは、顔を顰めると、小さく息を吐いた──そして、勢い良く足を突き上げた。

 腹を蹴られたキキョウは、一瞬くらりと頭が揺れた。包丁が再び手から離れる。咳き込み俯くキキョウを跳ね除け、シオンはベッドから転げ落ちた。ふらふらと立ち上がったシオンは、キキョウの腕を強引に掴み、後ろに回して締め上げる。実に洗練された動きだった。

 髪ゴムが黒髪から滑り落ちる。荒れた長い黒髪が、キキョウの顔を隠す。シオンはキキョウを縛り上げたまま、また優しく名前を呼んだ。

「キキョウ。僕は『絶対に殺されない』んだ。できればこんな手を使いたくなかった」

「……クソッ、なんでだよ……肉弾戦じゃダメだってことかよ……!」

「話をしよう、キキョウ、いつもみたいに。君が包丁を握らないなら、この手を解こう」

「……はぁ……分かったよ。ただ、お前が横柄な態度をとったらすぐに殺してやるからな」

 シオンは優しく手を離し、ソファに座り込んだ。キキョウの方は、立ち上がると、シオンが寝ていたベッドに座る。これだけ長い導入を挟み、ようやく本題に入れるのが二人の仲だ。

 黒髪を乱したキキョウは、広く知られている司書としての顔をしていない。物腰柔らかで、話すのが上手く、子供に優しいカウンセラーの風格はどこにも無い。ただ、まるで獣が獲物を耽々と狙っているような目をしている。仄かに暗い部屋の中で、長い前髪の向こうから、両目を炯々と光らせている。

 であるからこそ、シオンは彼を慮り哀れむような目で見つめ返す。それがキキョウには冷笑に見えて仕方が無いのだ。

「君は、何に対して憎悪している? 僕はただ、それを知りたい」

「どの口がほざくんだか。先輩が最近おかしくなってんのは、お前のせいだろうが!」

「おかしい──どのようにおかしいのか、言ってくれないと。僕はむしろ、彼に違和感を覚えることは無いが」

「お前は罪深いから、何も気がつかないだろうがなァ? 先輩はお前のことを、奇異な目で見てる……そう、前に死のうとしてたときのような、盲目だ。恋か? 愛か? 俺は知らない。だがな、お前のことを気に留めるその目が気に入らないんだよ」

「嫉妬……ということで良いのかい」

「黙れ! 嫉妬で済んだならこんな思い隠しておいて良かった!」

 キキョウは勢い良く拳を振り下ろし、いっそう目つきを鋭くした。そこに一切の理性は無い。シオンがさきほど言った「早朝だ」ということも、彼の頭には無い。ただあるのは、暗澹たる憎悪のみ。目の前の男を殺してやりたいという殺気のみだ。

 取り付く島も無く、シオンは溜め息とともに項垂れる。目の前にある二つのサファイアはそれをどう捉えるかは置いておいて、確かにシオンは落胆していた。彼の愛する「アリス」を、自らの手で暴走させてしまったのだから──たとえその理由が、自分にはどうしようも無かったとしても。

「すまない……ヒナゲシが僕に好意を寄せることが、君にとってそこまで悍ましいこととは思わなかったんだ。僕はただ、彼の求める心に応じたいと思って、逆に彼を求めたいと思って。そうして、今の関係が出来ている」

「求める……一番聞きたくなかった話だ、嫉妬としても、憎悪としても。先輩は人を自ら求めようとしない。求めたとき、それはたいてい相手に迎合して身を削るときだ。そしてお前が裏切れば……もう一度先輩は死を選ぶかもしれないんだぞ。どうしてそんな浅はかな選択ができるんだ!」

「君は、僕に……ヒナゲシのために、『裏切るな』もしくは『諦めろ』と言いたい……違うか?」

「分かってんじゃねぇか。いいか、『決して裏切らない』なんて絶ッ対に不可能だ。俺はそれを知った上で努力して、この地位に立ってんだぞ。何度先輩に『お前も裏切るんだ』って言われてるのか、どれほど先輩がか弱い存在か、分かってんだろ?」

「……一理ある。期待させ、求めさせることが、いかほどに悍ましいかは知っている。しかし、だ、キキョウ──」

 反論を試みたシオンに対し、キキョウは拳を握りしめ、黙らせるように眉間にシワを寄せた。選択を謝れば、彼は再び包丁を手にとって暴れだすだろう。シオンは知らず知らずのうちに、大きな岐路に立たされることとなったのだ。

 このままこの獣に何も言わずに、頭を下げ、放っておくか。獣に喉元を裂かれてまで、人間に戻るように説得するか。

 もとより対話と理論無双を愛しているシオンに、残弾が無いわけではなかった。「決して殺されない」メアリー・スーは別に死を恐れているわけでもなかった。ただ、二人が争ったという事実が、自らの親友を傷つけやしまいか、と思っていただけだった。

 キキョウは、シオンの呼吸と表情を読み、隙を付け狙う。自分の言っていることがめちゃくちゃなのは、理性のどこかで自覚しているのだろう、彼は決して快の表情を浮かべない。

「……君は、ヒナゲシを過小評価しすぎている。そして、それが、すでに手元にあるものを守る力であり、僕が彼に向ける感情と異なることを、よく知っている」

「何が言いたい?」

「君のその庇護欲を、悪いだとか善いだとか言いたくないんだ。その上で、あえて言うなら……君は、彼を守ってほしい。彼が傷つかないようにしてほしい。

……彼は今、恋をしているんだ、僕に。距離を測っているんだ、僕らは。だから、きっと傷つくこともあるだろうし、納得いかないことも出てくるかもしれない。そういうときに、彼のそばにいてくれないか。君まで距離の分からない不安定な存在でいたら、ヒナゲシは潰れてしまう」

「……ッ、よくもまぁ、先輩の恋人の前でいけしゃあしゃあとそんな口を叩けるな?」

「頼む。君から彼を取ろうだなんて思っていない。それに、これが恋じゃなく、単純に求める心だと分かっているんだ。それでも、彼がそう名付けたから、僕はそうだと信じていたい」

「お前、最ッ低だな。人の浮気を見過ごしてくれと言うわけか。俺が嫉妬で狂わないのを良いことに。それをして先輩を困らせないようにしているのを良いことに?」

 シオンは俯き、顔を歪める。すまない、と言葉を絞り出す。今のシオンは、キキョウに謝ることしかできなかった。彼の思いを捻じ曲げ踏みにじっていることをよく理解していた。それでもなお、頭を下げることしかできなかった。

 恋ではないにせよ、互いを求め合うのは同じ。ただ、そこに友情だとか愛情だとか兄弟愛だとか家族愛だとか、そういうレッテル貼りが無いだけだ。ゆえにこそ、愛情に抵触し、友情に抵触している。シオンにとっては、カトレアとヒナゲシを。ヒナゲシにとっては、キキョウとシオンを。天秤にかけることなど、不可能だ。どちらも失いたくない関係に違い無い。

 キキョウは、それを信用しない。恋慕の対象が自分に向いている限り、ヒナゲシは決して傷つかないと信じているからだ──シオンは困り果て、額に手を当てた。ただ、狼狽するばかりだ。そこまで二人は親しくないのだ、と自分に言い聞かせる。

「……なぁ、キキョウ。恋と友情は、別物なんだ。家族と恋も別物なんだ。そう言って、信じてくれるか?」

「信じない。俺は先輩の言葉以外を信用しない」

「じゃあ、信じてくれなくても良い。またこうやって殺しに来ても、問いただしても良い。僕は、それが嫌なわけではないんだ。僕が嫌なのは、君とヒナゲシを傷つけることなんだよ」

「俺だって、俺が傷つくことなんざどうでも良い。先輩が平穏に生きていけるなら、それで。そうやって噛み殺してきたんだよ、憎悪を」

「君の努力はよく理解しているつもりだ……つもり、だが。手を引け、と言われると、いささか困ってしまう。君を傷つけるか、ヒナゲシを傷つけるか、天秤にかけられたようで」

「お人好しだな」

 浴びせられる罵倒は、徐々にトーンを落としていく。燃え上がっていた憎悪と殺気は、マグマが冷え固まるようにして消えていった。後に残るのは、ただ冷ややかな不信感のみ。部屋の隅でぎらりと光る無機質な刃物のような感情のみ。だが、見られていることに変わりは無い。首を竦め、シオンは嘆息を漏らした。

「君ともっと親しくなっていたら。そうしたら、こんな関係にならないで済んだのだろうか」

「あぁ? お前は自分を好きになってくれるなら誰でも良いのか?」

「……君の発言は本当に心に刺さるよ。僕が卑怯だった。だが、これだけは言わせてくれ──君は、ヒナゲシを過剰に守りすぎて、彼の自由を奪ってるんじゃないか。彼が恋する自由を、彼が傷つく自由を、どうして奪うんだ?」

「それは自由じゃねぇからだよ。見えていないのを見ていないのと一緒にすんな。第一、あの先輩が見ていないわけが無いだろ? あの人が一番物事の道理を理解している。あの人が一番理解していたのに、誰もそれを信じなかった!」

「彼は! ……彼は、それを誇らない。それだけは理解してくれ。彼はむしろ、見えている自分が嫌いなんだから。きっと、今ですら、彼には結末が見えているんだ。それでも選んだんだ。そして、そんな自分に倦んでいる……だから、君がそばにいてほしいんだ」

 シオンの強い口調に、キキョウは目を見開いて驚いた。めったに声を荒らげないシオンが、珍しく動揺したのだ。今にも泣きそうな声に、キキョウは押し黙るほか無かった。そうだ、確かにシオンは泣きそうな顔をしていた。

 彼はもう、自らの愚かしさと卑怯さに打ちひしがれていたのだ。キキョウに突きつけられた言葉の数々で、いかにヒナゲシが苦しんでいるかを理解してしまったのだ。それは、ヒナゲシへの、一種の強い同情だった。

 誰かを求めた挙げ句、絶望して死んでしまった一輪の花。そこには、二人の男がいる。もう二度と枯れぬよう、ヒナゲシの花をわざわざ温室の中で育てる者と、ビニールハウスからはみ出したヒナゲシの花に水をやる者だ。どちらも、ヒナゲシが美しく芽吹き花咲かせ続けることを望んでいる。生きることの苦しさに絶望し、蕾のまま開かないことを望んだ彼に心を寄せている。

 その構図が明らかになったとき、憎悪と悲哀に満ち溢れた視線は初めて交差した。分かり合ったわけではなかった。生まれたのはある種の哀れみだった。

「……そこまで言うなら、そうしといてやるよ。先輩が泣き明かすようになったら、今後のことも考えてお前という芽は早めに摘んでおく。命は無いと思え」

「本当に申し訳無いな、キキョウ……」

「申し訳無いと思うなら、せいぜい先輩を悲しませないようにしろよ。俺はもう寝る」

 キキョウは自らの髪を結き直し、白衣の裏ポケットに包丁を入れた。座り込み憔悴したシオンの首に、彼の救急箱から取り出したガーゼを当てる。少し深い切り傷で済んだらしく、押さえているうちに血は流れなくなっていた。

「ありがとう、キキョウ」

「一日は触んなよ、化膿する」

 吐き捨てるように答えて、キキョウは部屋の外へと出ていった。取り残された男は一人、ベッドランプに照らされ項垂れる。首に残った血筋は決裂を表し、貼られたガーゼは妥協案を表していた。

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