イレギュラーに捧ぐ
「だって、好きな人にフラれたんだから、死ぬしか無いと思って……」
そう言ってさめざめと泣いていた女性に、私はただ、未来に別の運命の人に会える確率をお話ししただけでした。それだけの話でした。
目の前の失恋に目を眩ませ、彼女は自殺したのです。たった一度のミスコミュニケーションが人を殺めたと言うのです、彼女は。
「うん、そうだよね……ありがとう、お姉さん。私、なんてことを……」
悔悟の念に顔を歪める女性を、私は唖然として眺めているだけでございました。今際の際に感じた恐怖を忘却し、彼女は金のあぶくとなって消えていきました。
報告書を書きながら、私は、何度も何度も自らに問いました。本当に、この程度のことで、人間は死んでしまうのですか? 本当に、この程度のことで、人間はミスを犯してしまうのですか?
翻って、アネモネ図書館を眺めてみます。
「おはよう、ヒナゲシ。今日も元気そうで何よりだ」
「わ、わっ、シオン……御機嫌よう……」
シオン様にいきなり手をとられて、顔を赤くして跳ね除けるヒナゲシ様。それからは沈黙があって、お二人は離れていきます。
「おっはよー、アジサイ! 仕事終わったらゲーセン行こうねー」
「っ……! な、なんや、ダリアか……びっくりさせんといてや……」
眠そうに眼を擦っていたアジサイ様は、ダリア様に後ろから抱きつかれて目を見開きます。白い頬を赤く染めて、ぷいっとそっぽを向きます。
「……何、してるの」
「なによ、文句あんの?」
「人の部屋の前に立っているのは変でしょう」
「な……! アザミを待っているだけよ!」
「私も彼女を待っているの、用事があるから。あなたにはどうせ無いのでしょう」
「馬鹿言わないでよ、あるに決まってんじゃん! もー、アザミ、早く起きてきてよ……」
アザミ様の部屋の前で、リンドウ様とコスモス様が言い争っていらっしゃいます。いつも喧嘩していらっしゃる姉妹ではございますが、今日ばかりは、なぜかアザミ様を話題にしていらっしゃるのです。
「アヤメ、先ほどツバキから言伝がありました」
「あ、ハルジオンさん……! そろそろ一休みしませんか?」
「……仕事中ですので」
画面に映ったハルジオン様に、アヤメ様は、ぱあっ、と顔を明るくします。声をかけられると、ハルジオン様は少し困ったように笑って、アヤメ様の誘いを緩く断るのでした。
踵を返し、一人歩き、私は思考します──これが人間の行動にエラーを起こす、「恋」というものなのでしょうか。半ば手続き的記憶のように話せていた関係が、少しずつ噛み合わなくなっていく。それは、どちらかが「恋」を抱いたから。大きく膨れたその感情は、やがてはち切れて自殺にまで追い込む。
私がその感情を知らないはずは、無いのです。私はかつて、その感情によって死に至ったのですから。不合理だと、非合理だと馬鹿にしていた、その選択をしたのですから。
「やぁ、お嬢さん。悩み事でも?」
唐突に、紳士的な声が降ってきました。私は慌てて足を止めます。あと少しでその人影にぶつかってしまうところでした。思考中は別の作業ができないなんて、シングルタスクの人間というものは本当に不便です。
一歩下がり、申し訳ありません、と言葉を返しながら、頭を下げます。見上げた先で目が合ったのは、暗闇で光るルビーのような瞳。シオン様にそっくりな顔立ち。どこか懐かしさを覚える、軽薄そうな笑み──
どくん。心臓が強く脈打ちました。背筋がぞわりと震えました。これは決して病気でも不整脈でもありません、それは分かっているのです、分かっているのですが、私は思わず胸を押さえました。
どこか懐かしい、たいそう妖しい笑顔でした。
「謝ってほしいわけじゃないさ。ヒマワリさんが浮かない顔をしていたから、つい話しかけてしまっただけで」
「いえ……私は、大丈夫です。お気遣いありがとうございます、アザレア様」
「いや、俺が気になるんだ。お話し願えるかな?」
そう言って、アザレア様は私の黒い髪を人差し指で掬って見せました。シオン様と同じ微笑みですが、彼は少々行動が大袈裟で、キザな方です。
私はなんとなく頭が働かないような感覚に襲われました。まるでCPUがオーバーヒートを起こしたかのようです。でも、シオン様とアザレア様には、そんなエラーを起こさせる魅力があることは、客観的に存じ上げています。
おとなしく従って、近くのソファに座りました。少し離れて、足を揃えて、背筋を伸ばして。それなのに、アザレア様は距離を詰めて、足を組んでお座りになりました。ぴたり、くっついた肌から、人間らしい熱を感じます。
「話してごらん? シオンと同じさ、俺も話すのが好きなんだ」
花唇を描いた唇が、歌うように語りかけます。人形のように端正な笑顔を見ていられなくなって、私は目を逸らしました。
シオン様に初めて会ったときも、私はきっと、そうしていました。泣いていた私を、あの方が救ってくださったとき──そのときのことは、よく覚えています。ぞくぞくと体が震えるような心地がして、これがいわゆる「魅惑」なのだと確信したのです。
二人には、人間を魅了するフェロモンのようなもの、もしくはそれに準ずる仕草や弁術などがあるのでしょう。人間の感性を擽るような、人間のバグを知っているような、そんな素振りをしていらっしゃいます。それは、ダリア様にも、アザミ様にも、もちろん、司書長様にも感じていたものではあるのですが。
私は小さく頷くと、それを発火点として、一人で考えていたことを申し上げました。
「アザレア様。なぜ人間は、恋をするのですか?」
アザレア様にこの質問をするのは、少し酷だったかもしれません。彼は、意中の相手とご結婚なさっています。自らの妻たるサザンカ様を心からお慕い申し上げています。
しかし、アザレア様は涼しい顔で笑うと、そうだな、と前置きしてから続けました。
「それが習性だから、とでも言うしか無いだろうな。俺にも分からないよ、恋というものは」
「貴方様にも……?」
「そもそも、どうしてそんなことを考えているんだ?」
「……そういう自殺志願者をもったから、というのもございますが、何より……昨今のアネモネ図書館内では、恋によるミスコミュニケーションが多発しているように思えたのです」
アザレア様は、ほう、と呟き、興味ありげに目を光らせます。それからしばし考えまして、顎に指を沿わせて、私の方に再び向き直りました。
「たとえば、誰と誰が?」
「シオン様とヒナゲシ様、ダリア様とアジサイ様、ハルジオン様とアヤメ様……リンドウ様とコスモス様もアザミ様を巡って喧嘩していらっしゃいましたし、」
「なるほどな。ヒマワリさん、それは飛躍しすぎかもしれないぜ?」
え、と思わず声を上げました。論理の飛躍が見られるというのは珍しいことではありません。ですが、できるだけ現実に即した推測をしたいものです。
アザレア様はそんな私が面白いようで、肩を竦めてクスクスと嗤っています。
「一つ一つ纏めようか。おそらく、この中で正しく『恋』と呼べるのはいないだろうな」
「そ、そうなのですか……」
「シオンとヒナゲシについては、俺にも思うところがあるから、今は何とも言えないんだがな……
──彼奴らは、恋をしたがってるだけだよ。自分から求めることの無かった二人が、互いを求め合っているだけ。求めることを恐れながら行う関係を、恋と呼ぶのはどうなんだろうな」
私は当事者ではないのに、なぜか心臓がどきどきと速く鼓動しました。アザレア様が少し切なそうな顔をしたからかもしれません。哀しそうで愛しそうな顔をしたからかもしれません。それとも、同じような感情を自らの中に覚えたからかもしれません。
それから、とアザレア様は言い足します。今度はアジサイ様のお話をするようでした。
「アジサイとダリアも、きっと恋なんかじゃないさ。親友になって久しいんだ、どちらも互いに何をどれくらい求めて良いか分かってないんだろう。で、ああなる」
「それは、ハルジオン様とアヤメ様にもいえることでしょうか?」
「そうだな。姿形の変わった新しい友達同士だ、どう接して良いか分からなくなる。要は、どの関係も『新しい関係ゆえに、今までのようには接せない。どう接して良いか分からない』ってことさ」
アザレア様の総括に、不穏さに脈打つ心臓が静かになります。思考のパズルにしっかりと一つのピースがはまったような、そんな安堵を覚えます。
それはエラーではなく、順応のための単調な拒絶反応です。人間に必ず必要とされる反応です。インタラクションあってこその人間なのですから。
では、コスモス様とリンドウ様は? 私がそう尋ねれば、アザレア様はまた滑稽そうに薄く微笑みました。
「あの二人は確かにアザミのことが好きかもしれないな。だが、あれも恋じゃないさ。愛着だよ、愛着。だから奪い合うんだ」
「恋ではない、のですか……?」
「あはは、あくまでこれは俺の意見さ。貴方の言った関係は全て恋とも呼べるかもしれないし、呼べないかもしれない。
恋とは何から成り立つか、知っているか?」
「私は、なんとも……ときに性的欲求を含み、ときに安寧を求め、ときにリスクを顧みない、危うい理性の破壊全てを恋と把握していますので」
「きっとそのとおりなんだろうさ。俺は恋を知らないから、そうなんだろうとしか言えない」
アザレア様はいつも一歩引いた目線で物事を仰います。自分はさも恋など抱かずにサザンカ様と付き合っているかのように──それは少し、おかしいのではないでしょうか?
「では、サザンカ様は?」
サザンカ様はそれを知っていらっしゃるのでしょうか。そもそも、恋が成り立たない仲をなぜ恋仲と呼べるのでしょうか。
私はそんな思いを込めて、アザレア様を見上げます。きっと、私が言葉に出さずとも、その意図は伝わるはずでしょう。
アザレア様は心底困り果てたように眉を下げました。ふっ、と、緊張の緩んだ笑顔のようにさえ思えました──それは、確かに他の人に向けるものとは違うものでした。
「俺も分からないんだ。ただ、サザンカさんのことは愛しているし、信頼している。シオンがヒナゲシに向けたような熱情ではないんだがな。
手を出されたら反撃するし、泣いていたら慰める。きっと誰からも守ろうとする。でも、別に彼女と話すのに苦労したことは無いよ」
「今の表情こそ、アザレア様の恋慕なのでしょうね」
「……何か、変な顔したか?」
「恋慕、というのは。私の考えていた恋というのは、他人に向けるイレギュラーな感情全般を言うのかもしれません。ますます、自分の過剰な一般化を恥じるばかりですわ」
「そんなこたァ必要無いさ。哲学者でさえ恋の定義なんて知らない。だから貴方も、自分なりの解釈をして良いのさ。良い観察眼を持ってるみたいだしな?」
アザレア様の自然な笑顔は、どこか気が抜けていて、なおも左右対照で美しい。私の心さえも軽くするような、道化の無い顔。私の思考も徐々にシンプルになって、冷え切って、不穏さの欠片も無い。
それなのに、嗚呼、どうしてでしょう、また胸が速く脈打つのです。まるで彼の手元で私が転がされているかのようです。シオン様はそんなことをしなかったのに、アザレア様は自分の手腕を分かっていながら「こう」するのです。
対話を愛する二人の司書、シオン様とアザレア様。対話を通して、相手の心の暗闇を取り払う。それだけのことが、どうしてこうも「イレギュラーな感情」を引き起こすのでしょうか。
ふと気がつけば、彼はまた危険な笑みに戻っています。私の心を読み解こうとする、怪しい眼差しを向けます。人形らしく何事も無い笑顔を浮かべようとしているのですが、それはイレギュラーな感情に邪魔されていないでしょうか?
「ありがとうございます。悩み、と言えるものには一旦の区切りをつけることができましたわ」
「それは良かった。ヒマワリさんを捕まえて良かったよ、面白い話が聞けたからな」
「こちらこそ、貴重なお時間をいただいてしまい申し訳ありません。ただ自分の研究欲を満たすためだけに、貴方様を利用してしまったこと、深くお詫びいたします」
「いいや? 俺の方こそ、話してくれてありがとうございます。貴方と話すのは、面白そうだ」
にやり、悪戯めいた笑みを浮かべるアザレア様に、いよいよ心臓は縮み上がってしまいそうになりました。背筋を悪寒が走ります。イドに超自我が抗った結果でした。
立ち上がって離れていく彼を眺め、私は一人茫然と座っています──恐ろしい、と呟いて。シオン様が能動的に動いたら、こうなるのでしょう、とシミュレーションをして。
私はシオン様を心からお慕い申し上げていますが、それは恋慕ではありません。尊敬です。艶やかに微笑み、私に新しい人生を与えた魔法使いを、心底尊敬しています。ですから、こうして心を奪われるのは当然のことでしょう。
しかしながら、と思考を留めます。しかしながら、こうして頬が熱くなって、処理能力が起きているのは、それでカタが着くのでしょうか?
「……いけませんね。お仕事をいたしましょう」
自分を奮い立たせるように呟いて立ち上がります。思考を纏めたいとき、クールダウンしたいとき、家事が一番役に立ちます。紙に書き綴って、床一面を紙で満たしたいのですが、はい、そうすると、私はこのまま暴走してしまいそうですから。
掃除機を片手に、恋に悩む司書たちを眺めます。
シオン様を目で追いながら、儚げに笑うヒナゲシ様を。
ダリア様が去るのを眺め、苛立ちを込めて溜め息を吐くアジサイ様を。
一人暗くなった画面を見つめ、何か考え込むアヤメ様を。
アザミ様に双方から話しかけるリンドウ様とコスモス様を。
皆、自分のイレギュラーな感情に思い悩んでいます。ですが、それは必要不可欠な行為なのでしょう。私がこうして、一人心を砕いているように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます