殺人依存症
カサリ、とも、コソリ、とも、音は立たない。獣臭さも無い。ただ、細い手足をゆっくりと持ち上げ、下ろすだけだ。暗い部屋の中で、黒い目がぎらりと光っていることだけが、彼の存在を明らかにしている。それでさえも、黒い目ゆえに闇に呑み込まれる。
這い寄り、にじり寄り、彼は冷たい手を眠る青年に這わせた。それから、僅かな間も無く、黒光りするナイフを翳した──刹那、男は目を開く。赤い目が瞳孔を少しも揺らさないで、黒い目を見つめ貫いた。
がしっ、と手が掴まれる。ナイフを振り下ろそうとする手と、それを押さえる手が静止して、がくがくと震える。
覆い被さった大蜘蛛は、口が裂けんばかりに端を上げて、大きな黒い目を細めた。
「あは、バケモンだ」
愛情のこもった甘い声だ。蜘蛛の足を握りしめた男が肩を上げ、大きく溜め息を吐く。離せ、と言い、蜘蛛の棒のような腕を折らんばかりに強く握り締めた。五本の指は、震えながらカラビナナイフを手放す。男の顔の真横に落ちる。
男は勢い良く体を起こし、顔を近づけた。唇がくっつきそうになって、大蜘蛛が少し反って、避ける。快を示していた表情を不快に歪め、自らの背中に手を回した男を、奇怪そうに見つめるのだった。
「あぁ、俺は化け物だ、ダリア。この怪力がその証明だ。そんな化け物を、こんな簡単な方法で殺せるとでも思ったのか?」
「き、気持ち悪りィ……顔離せよ」
「この状況でお願いするのはどっちの方だ?」
ダリアの首に、背中に回っていない方の手がかかる。軽く力を入れたような素振りなのに──そうだ、確かに涼しい顔をしているのに、ダリアの喉笛がヒューヒューと弱い音を上げた。
男は恍惚とした笑顔で、ダリアの顎から額までを舐めるように見つめる。さらに身を寄せて、体と体をぴったりとくっつける。動けないように掴まれてしまったので、ダリアが動かせるのは、自分の両手だけだ。その手を弱々しく相手の胸に当て、跳ね除けようとする。
「嗚呼、殺せそうだな?」
「がっ、あざ、れあ……ッ、おま、え、ほんっと、」
「何興奮してんだよ。殺されるんだぜ? 死にたいのか?」
アザレアと呼ばれた男は、笑みを潜め、睨むほどダリアの目を凝視した。
「……死にたい奴だけが、俺を殺そうとしてみろ。第一、俺は『絶対に殺されない』からな」
そう言い捨て、アザレアが手の力を緩めた。ダリアは盛大に咳き込み、背を丸める。
アザレアは再び口角を上げ、ダリア、と猫撫で声で話しかけた。
「なぁ、ダリア? どうしてそうもまぁ、人を殺したがるんだ。しかも、アジサイじゃなくて、俺だろう?」
「……アンタに分かるわけ無いでしょう」
「分かるよ、俺だって何人も人を殺してきたから。そのときの俺は、『俺は殺人犯だ』と言い聞かせることでしか、自我を確立できなかったんだ」
ダリアは顔をしかめ、ベッドの上であぐらをかく。アザレアは布団を自分の足に掛けて、体育座りになる。
じとりと湿った視線がアザレアを刺す。アザレアは肩を竦めると、蛇足だったな、と呟いた。
「殺したいから殺そうとした、違うか?」
「そうだな、人を殺したいから殺そうとした」
「お前は完全犯罪者だったんだろう? どうしてこんなバレるやり方でやろうと──」
「もう何ヶ月も我慢してきたんだぜ?」
ダリアが細い目で蛇のようにアザレアを睨みつける──落としたカラビナナイフを片手に取り、刃先をしまいながら。
「人が殺せなくなって、何ヶ月も経った。アジサイもセンパイも殺せそうにない、きっと殺したら美しいだろうに……
お腹が空いたらご飯を食べるだろ? 眠くなったら寝るだろ? ヤりたくなったらヤるだろ? 欲しいものは買うだろ? やりたいことをやるだろ? だから殺す。それだけ」
「お前は節制というものを知らないらしいな」
「……何でも良い、この空虚でつまんねェのを満たせるなら。ヤクでもくれれば満足してやるよ」
「そうだな──暴力は、麻薬だ。殴るたびに高揚する。だが、同時に冷ややかな恐怖も覚える。それが堪らないんだろうな」
アザレアは手を伸ばし、ダリアの頬に手を当てた。愛おしそうに見つめる女神と、それを嫌がる悪魔。擽るようにして、アザレアの手がそっと離れる。
「だがな、麻薬にハマった人間は、やがて廃人になる。お前はそうやって欲望に駆られて生きて、心が虚ろな廃人になりたいのか?」
「何にも見えてないんだな、お前」
「空っぽなのは、辛いだろう?」
ダリアは二度瞬き、アザレアの顔を正視した。彼は眉を下げ、哀しそうな笑顔を作った。
そう、「作った」のだ。「なった」のではない。ダリアはそれを、道化だと理解した。
「他人のことなんて分かりっこないから、平気で人を殺せる。人間は全員生きたラブドールにすぎないからな。空っぽな心は人を殺って満たせば良い。だが、やがて廃人になるぞ? 少なくとも、太宰治は救われなかった」
「太宰治と俺は別人だ」
「いいや、人間はなべてそうなる。俺はお前に、虚しい人間になってほしくないんだよ」
「廃人とは何だ? 欲望のままに生きる人間を廃人と呼ぶのか? とんだ罵倒だな」
「そうじゃァない。欲望のままに生きているのに、何も満たされないままの人間を廃人と呼んでるんだよ」
ダリアの背筋がびりびりと震える。アザレアの言葉は甘美で、妖美で、とろけて弾けて心地良かった。
呑まれる──大蜘蛛はその身を縮める。今すぐその魅了と弁舌を引き裂いて犯してやりたいという渇きに襲われて、自らの首に手を当てた。
アザレアはなおも身を寄せて、誘惑するように戯けてみせる。それがわざとらしい素振りであることを、お互いが理解していた。
「空っぽでもなおも欲を満たすために快楽を呑み干す。そういう人間を、お前の方がよく見てきたんじゃないか?」
「……センパイのこと?」
「ご名答。そしてそういう人間が死ぬ様は、たいそう醜い──」
「……そこは分かり合えないな。俺はそういう廃人を殺すのが大好きだ」
ダリアの瞳に生気が戻る。組んでいた足を解き、ベッドから立ち上がった。アザレアは滑稽そうにクスクスと嗤いながら、もう良いのか、と声をかけた。
「俺はこのまま犯されるもんだと思ってたんだがな?」
「お前はほんと人間の心が分からない奴だな? 高まったときにヤらなきゃ萎えるんだよ」
「そうか。良い節制になっただろ? 慰み者にされるのは、俺だって困る」
「……節制、ねェ……」
ぼそりと呟くと、おやすみ、と言い残し、ダリアは部屋から出ていった。アザレアは手を軽く振って見送り、口角を下げる。小さく息を吐き、額に手を当てた。
「……本当に殺る目だったな、アレは」
おちおち眠れやしねェ、と独り言を言って、不貞腐れたように布団を頭から被る。大蜘蛛の足跡が去っていくのを子守唄にして、アザレアは目を閉じた。
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