第七章:恋をしようよ

恋をしようよ

 暗い部屋の中、シオンの視界を覆うようにして、一人の青年が四つん這いになっている。垂れる亜麻色の髪から、ふわりとシトラスの香りが舞った。

 青白い頬に手を添え、シオンは男の名を呼ぶ。蜂蜜色の目が緩く光り、弧を描いた。

「ヒナゲシ──やめてくれないか」

 シオンの言葉を聞くと、ヒナゲシは崩れるようにして、改めて座り直したシオンの隣に着いた。それから、シオンの体をきつく抱きしめ、肩に顔を埋める。シオンはぽんぽんと背中を叩くと、ヒナゲシを撫でるような声で話しかけた。

「君らしくない、夜這いなんて」

「……悪いとは思ってる」

「話してごらん。怒ってないから、僕は」

 言葉をじんわりと咀嚼しながら、ヒナゲシはぎゅっと身を抱き寄せた。コーヒーの香りでくらくらする。

「甘え方が、分からなくなったんだ」

「甘え方、かい?」

「昔はずっとずっと、怖くて。もちろん、今だって怖くないわけじゃない、他人は信用できないし自分を愛することもできない。

でも、今の僕に、あんたの存在は必須じゃないみたいで、怖い。あんたがいなくても眠れるし、ご飯は食べられるし、生きていけるし。

昔みたいにあんたが必要じゃないのが、悲しい」

 泣きそうな声で語るヒナゲシの髪を撫で、シオンが愛おしそうに目を細める。クスクスと笑う彼は、瞳の赤に寂寥と慈愛を滲ませていた。

「まるで君は、親離れできない子のようだな」

「……分からない。あんた無しの生き方なんて知らないのに、生きていけてる自分が分からない」

「君は、強くなったな。誰かの灯火になった。誰かに必要とされるようになった。だから、僕に縋らなくても生きていけるようになった。僕も寂しいよ、アリス」

「そう、か……? 僕は、強くなった……?」

「そうさ。君は一人でも歩いていけるようになった。君が親離れできないように、僕は君から離れられないよ」

「いや、嫌だ、僕はあんたと一緒にいたい。あんたに甘えていたい」

 ヒナゲシがシオンの背に爪を立てる。痛みに顔を歪め、シオンは哀しげに微笑む。長い横髪を掬い上げて、口付けを落とすと、彼の名前を優しく呼んだ。

「ヒナゲシ。何も、僕らが離れる必要は無いんだ。君と僕の関係が新しくなるだけさ。守る人と守られる人、じゃなくなるだけ」

「そんなの……そんなの、僕にとって、シオンは何になるんだよ? 庇護者でもないのに、それは何なんだよ? 僕とあんたは、何に……」

「僕の方こそ尋ねたいさ。君はいったい、何になるんだろうね? 真の司書長として周りを束ねられるようになった君は、僕の助け無しにも生きていけるようになった君は、いったい何なんだい? それでも愛おしい。だからこそ愛おしい。君を捨てるなんて、絶対に考えられない」

 耳に吹きかけるようにして、シオンが、静かに言葉をかけた。ヒナゲシがゆっくりと顔を持ち上げ、シオンの顔を見つめた。涙で濡れて、たいそう妖艶な顔をしたヒナゲシに、シオンは頬を赤らめて耽美した。

「君みたいに美しい人を失いたくないよ、ヒナゲシ。だから、たとえ君に何の利益が無くても、僕は君を見ていたい」

「利益は……利益は、っ、分からない。僕にとって必要不可欠でない存在が何なのか、分からない……それでも、あんたのそばにいたい」

「人間はなべて代替可能だ、ヒナゲシ。君以外は全て変えの効く存在だ。君がもしも、利益が無くとも僕と付き合うと決めたなら……その関係は何だろうね。君は僕を哀れんでくれているわけじゃないんだろう?」

「ち、違う……僕は……おそらく、あんたに……恋、を……」

 言葉を継ぎ足すたびに、ヒナゲシの垂れた目から大粒の涙が流れていく。シオンは再びヒナゲシを抱きしめ、自分の胸に埋めた。

 しゃくり上げるヒナゲシの頭に手を置いて、シオンは嘆息を吐いた。

「君はそれを、『恋』と呼ぶのだな。それなら、それで良いさ」

「恋、なんて、してはいけないんだ、っ、そんな不必要な感情、」

「では、そういうことにしよう。僕は君に恋焦がれた。君は僕に恋焦がれた。それは、僕がカトレアに向ける愛と、君がキキョウに向ける愛とは別物だ。

手に入らないものを求めることを『恋』と呼ぼう。手に入れたものを守ることを『愛』と呼ぼう。どうだい、ヒナゲシ?」

「……そんなの、できない……僕は、あんたを求める方法を知らない……」

「互いに久々の恋じゃないか、じっくり時間をかけよう。何度だって新しい関係を模索しよう。友情の維持には不断の努力が必要だ、違うか?」

 シオンの口癖を聞くと、ヒナゲシの息が整った。顔を離し、腕で目を押さえる。されど、その唇は確かに笑みを浮かべていた。

「……恋……僕が一番、恐れた感情……」

「君が自殺に追い込まれた感情だ。僕が狂った感情だ。愛を与えるより恋を求める方がずっと苦しいだろう? 今の僕たちなら、きっと狂わないで互いを求められる。

さぁ、恋をしよう、ヒナゲシ。僕らの過去を忘却する旅に出よう、共に」

 ヒナゲシの手持ち無沙汰な片手に接吻を落とし、シオンはヒナゲシの頬に手を当てた。ヒナゲシは手を退けると、歪んだ笑みを浮かべ、ぽろり、大粒の涙を降らせた。

「この関係を『どうでもいい』じゃ終わらせないさ。『まだ、終わらない』んだから」

「……あぁ、僕らは『まだ、終わらない』。恋は、終わらない」

 手を繋いでも、とヒナゲシが言った。シオンの顔を覗き込むようにして、ささやかに微笑む。シオンはこくりと頷き、彼の手に自分の手を絡めた。

 そして、二人立ち上がると、その手を緩やかに離した。ヒナゲシはすっかり泣き止み、シオンもつられて笑顔になっている。

 扉を開け、別々の道を行く。暗い部屋の外は、明るい道化の世界だ。縋り付く必要も無ければ、頼る必要も無い。それでも、互いが目に留まってしまう。その感情を、二人は「恋」と名付けた。

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