ツバキは回想する
人間は、自分が誰から生まれた「子供」なのか知っているケースが多いと思います。三次元の世界、人間が生きる世界においては、子供というのは必ず親から生まれてきます。
では、二次元の世界ではどうでしょうか。人間は自分が誰から生まれた「子供」なのか知っているでしょうか? 設定上親に当たる存在から生まれてきた、というのも一つの回答ではあります。
しかし、私はこう申し上げましょう。二次元の世界では、親に当たるのは「作者」です。そして子供は、「キャラクター」と言い換えることができます。
三次元の世界では、子供たちは自分たちが子供だと知っています。それでも生きる上で何の問題も無いでしょう。しかし、二次元の世界では、キャラクターたちがキャラクターと知りません。この理論が通るならば、別に自分たちがキャラクターだと知っていても大した問題は無いでしょう?
そうです、だから私は知っているのです、私がキャラクターであることを。自分が話しているのは全て、キャラクターなのだと。
それでも私は何の問題も無く生きていました。普通に人と出会って、恋をしていました。いつしか私は、「椿」という名前をいただいていました。
それはそれは、とても楽しい日々が過ぎていきました。違う作者から生まれたキャラクターと交流するのは、恋をするのは、楽しくて、楽しくて──その時間は無限に続くかのように思えていました。
しかし、椿は永遠に咲いていることはできません。いずれ落ちて、枯れて、消えていきます。楽しい時間にはいずれ終わりがもたらされます。
私たちはどこまでも「子供」でした。どれだけ成長しても、私たちは大人にはなれません。私たちに自由はありません。そこがキャラクターと子供の違いです。
だから、親の勝手な都合に振り回されて、私の恋は終わってしまいました。
◆
「そんで? 次の都合の良い物語は何?」
小さな書斎の中、三方向に広がる本棚。その一つにパンドラ=クルスが寄りかかって、その一つに私が寄りかかって、最後の一つに神崎蜜柑が寄りかかっていました。
パンドラは、いわば私の先輩でした。見た目年齢こそ若いのですが、そんなのはキャラクターとしての人生には関係しません。私よりもずっと長い年を、様々な物語のキャラクターとして生きてきました。
蜜柑は死んだ目でこちらを見ると、小さく溜め息を吐きました。
「美香がいなくなったの。その代わりに置き手紙が置いてあってね」
「美香さんが?」
私が聞き返せば、うん、と彼女は頷きました。手紙を私たちに見せて、悩ましげに目を伏せます。
パンドラと私で読んでみれば、そこにはやや斜めで乱雑な文字が書かれていました──殴り書きのようにも見えました。
──『The Library of Anemone』。それが新しい物語のタイトルだ。アンタらはそこの管理者になってもらう。舞台はすでに用意し終えた。詳しいことは先に収容した榊原拓馬に聞け。ボクは収容対象を収集しに行く。
──司書と呼ばれるキャラクターが、自殺志願者に記憶を提供し、その代わりにもう一度生き直すという場所だ。
──自分の人生を生きられなかった全ての人へ。
「美香が物語を始めようだなんて、アタシも困惑してる。確かに美香は小説が好きだけれど、どうしてここまでするかは分からないの」
「……だいたい意図は分かった。だが、俺は乗らねぇよ。管理者だなんてお断りだね」
パンドラはそう言って肩を竦めました。私が理由を聞けば、彼は顔を顰め、吐き捨てるように言いました。
「あのなァ、お前さんはごく普通のキャラクターとして生きてただけかもしれねェけどな。俺はいろんな物語でいろんなキャラクターとして生きてきて、変な設定もたくさんついて大変だったんだよ。もう正直懲り懲りだわ」
「それはそうですけど……えっと、蜜柑さんは?」
「知ってのとおり、アタシはこの物語を書き続けなきゃならないから行けない。パンドラが行かないって言うなら、ツバキに任せようかな」
「私に……ですか?」
「仮の館長という役目はアタシが請け負うとして。アンタに館長代理をしてもらうかなと思う」
それはあまりにも大役でした。会ったことも無いキャラクターたちの、子供たちの纏め役なのですから。
そもそも、私は大した設定の無い、ごく普通のキャラクターでした。パンドラのように長く生きてきたわけでもありません。そんな私が、いわばゲームマスターのような役をやるというのです。
私が断れば、蜜柑は眉を下げ、そっか、と言いました。
「じゃあ、別の人に館長代理を頼むとして……監視役にはなってくれない?」
「監視役……ですか?」
「単純にその場にいるだけで良いよ。その、図書館? にいて、他のキャラクターがどうあるかを見届けてほしい。物語の始まりから最後まで、見ていてくれるだけで良いの」
「……それなら、しても構いませんが……」
監視役ということは、干渉する必要もありません。最初はただ、図書館らしきところで本を読んでる程度で良いのだろうと考えていました。ゆえに、私はこの仕事を請け負ったのです。
蜜柑は、ありがとう、と言うと、一つの鍵を私に渡してきました。それこそが、アネモネ図書館の鍵だったのです。
パンドラはそんな私を怪訝そうな目で見て、ぼそっとこう呟いていました。
「いずれ愛着が湧いてどうしようもなくなるだけだぜ。せいぜい頑張るんだな」
私は大して何も考えずにその鍵を貰って、図書館を開けに行きました。そこにはパンドラもいました。なんだかんだ言って、私のことを心配してくれていたのでしょう。
開いた途端、ぶわっ、とインクの香りが広がりました。無限とも思える本棚の道に、私とパンドラは迷い込んでしまいました。
そこに収まっていたのは、人々の記録でした。人間の人生を軽く書いたもの、人間が作り出した物語や歴史など、そんなものがとにかく無造作に収められていたのです。
入り口の近くにはキッチンやリビング、客室などの設備がありました。本棚の道の途中には休憩所がありました。どこからかコーヒーの香りがやってきます。
「なんだ、この図書館は……」
「まるで、人間のための図書館みたいですね……」
「美香の奴、こんなもん作ったのか。しかし、何のために?」
「……あ、本が積んでありますよ」
リビングのところに、何冊か本が積んでありました。その表紙には人の名前が書いてあります。一番上には、見覚えのある名前が書いてありました。
「……榊原、拓馬……」
「あぁ、ここにいるって話だったな」
「読んでみましょうか」
本を開いた途端、顔に風が吹きつけたような感覚に襲われます。気がつけば、ネモフィラ畑が一面に広がっていました。
そこには、一人の男性が立っていました。それが榊原拓馬なのでしょう。丁子色の髪をした、赤い目の青年でした。
声をかけようとしても、手がすり抜けてしまいます。私は何もできないまま、目の前の光景に立ち尽くしていました。
榊原拓馬は頽れて、倒れた死骸を抱きしめていました。彼によく似た青年でした。なぜかは分からないのですが、彼が殺したのだろうと分かりました。
──瑠衣、瑠衣、ごめんね……
声を上げて泣く姿に、つい私もつられて落涙してしまいます。まるで同じ感情を共有したかのようでした。心がぶわっと熱くなって、その熱で目に涙が浮かび上がるのです。
そんな世界に没頭していると、後ろからパンドラに呼びかけられました。はっと顔を起こして見れば、そこはごく普通の図書館でした。
「なんだよ、ぼーっとして」
「いえ、すみません……これは一体?」
「あー……ナルコレプシー? 解離性同一性障害? これが榊原拓馬のデータか」
「自らの兄を殺害し、精神的に壊れてしまった……ですか」
「はぁ、こんな奴に図書館を任せる気でいたのか、彼奴は」
読み進めていけば、彼の過去がびっしりと書き込まれていました。その調子で他の本も読んでいけば、そのたびに彼らが感じた絶望を味わうことになりました。
榊原拓馬。愛する兄が誘拐され洗脳されたことにより、兄を殺害。そこから兄の人格を持つ解離性同一性障害になった。また、ナルコレプシーを発症している。
神崎鏡香。虐待を受けていて、そこから救おうと母親に切りかかった殺人鬼に対し、母親を庇うことで植物状態になり、神崎美香によって電脳生命体へと復元された。
観月聖夜と観月玲奈。二人は兄弟であり、どちらも特定の人物を崇拝することで精神的に壊れてしまった。
神崎慧。虐待の過去、度重なる暴言、耐え難い別離を受けて自殺に至った。
神城誠。一家心中に巻き込まれ、精神的に不安定に。神崎慧を崇拝することで、共に死ぬことを望んだ。
神崎昴。虐待の過去とサイコパスという在り方により精神が摩耗し、最終的に大量殺人を行い自殺。
神楽坂菖蒲。望まぬ結婚や妊娠により精神崩壊、事故で植物状態に。
黒羽竜胆と黒羽秋桜。虐待と解離性同一性障害によって一家心中に走った。
私はこの本を読んでいるうちに、不思議とこんな気持ちが湧いてきました──可哀想だ、守ってあげないと。守れる確信は無いけれど、この自殺志願者たちを見守ることならできるでしょう。
ソファの肘掛に寄りかかって舌打ちをして、パンドラは不快そうな顔をしました。
「なるほどな。あの馬鹿女がこの図書館を作った理由が分かった気がする」
「と、言うと……?」
「理不尽な死を迎えた奴らの救済だろうな。彼奴らしい馬鹿なお人好しだな」
「私は、果たして彼らの役に立てるでしょうか……?」
「さぁな。延命治療に参加する気なら好きにしたら良いんじゃねぇの」
延命治療。言われてみればそのとおりです。そのまま終わらせてあげることも優しさですし、ここで救済することも優しさであると思います。
私が答えに迷って俯いていると、パンドラは頭を掻きながらこう言い足しました。
「ま、いつまでもここで仲良しごっこをしたいってわけじゃなさそうだしな。出方を見てから俺も手伝うことにするよ」
「あなたも手伝ってくださるんですか?」
「人間が進化するところを見るのは嫌いじゃない。永遠にここで停滞することが無いように刺激を与えに来るだけだよ」
パンドラはそう言って立ち上がると、それじゃ、と言って出口に向かって歩いていってしまいました。つくづく素直になれない男なのだろうと思わされます。
……実は、彼に見せていないだけで、さらに二つ本があったのでした。私はそれを改めて開きます。
片方は神崎美香。片方はパンドラ=クルス。私には深くは分かりませんが、二人もまた傷を負ったもの同士なのでしょう。美香は自分たちのこともこの延命治療に組み込んでいるのでした。
私が本を読み終えると、固い足音が遠くから聞こえてきました。慌てて本を隠し、襟を正して迎えました。
目の前にいるのは、さきほど幻覚で見た青年そのものでした。とても端正な顔つきをしているのに、赤い目にはくっきりと隈が刻まれています。唇は少し青くなって、白い肌に浮いて見えます。
「……貴方は、誰ですか」
「はじめまして、榊原拓馬さん。私は、椿と言います。あなたたちの監視役として、この図書館にやってきました」
「あなた『たち』……?」
そこまで言って、慌てて口を押さえました。まだ彼は他の入居者を知らないのです。何でもないですよ、と付け加えると、彼は、そうか、と言って向かい側のソファに座りました。
「僕はここで司書という仕事をすると聞いている。自殺志願者から記憶を奪い、それを管理して、その代わりに再び現世に戻ってもらう、という仕事だが」
「そうですね、その認識で間違いありません」
「君は何のためにここに?」
「私は──あなたと同じですよ」
咄嗟に嘘をつきました。今から思えば、拓馬には分かっていたのでしょう。彼の目は鋭いですから。それでも彼は何も言わず、そうか、とだけ返しました。
「では、早速始めるとするか」
「えっと……何を始めるんです?」
「何って、自殺志願者の救済だろう。君も手伝ってくれるんだろう?」
「──えぇ、そうですね。お手伝いさせていただきます」
こんなふうに、案外早く物事は進んでしまいました。彼は面談を、私はレファレンスを担当することになりました。
彼の話術は巧みなもので、人々を納得させて言いくるめて救おうとします。やり方を一歩間違えれば詐欺師にもなりうるでしょう。けれども、それで人を救えているならば良いとは思いませんか。私はそんな彼を、本の整理をしながら眺めているだけでした。
アネモネ図書館が軌道に乗り始めると、事前に告げられていた司書たちがやってきます。まずは自らを「神崎鏡香」と名乗る、後のクロッカスでした。私が本の整理に苦労しているとき、いつも支えてくれる大切な司書です。
──私には名前がありません。名前をつけてくれませんか?
彼はしばらく悩んだあと、クロッカスという名前をつけました。人間になりたいと「切望」する彼女にぴったりの名前でした。
このとき、彼は初めてシオンという名前を名乗り始めます。元は私がツバキで、彼女がクロッカスだというところから始まっています。
花言葉は「君を忘れない」。もう一つの人格として、自分が殺してしまった兄を患っている彼が、無意識につけた名前でした。
レファレンスが楽になった頃、カトレアと名をつけられたシオンの妻がやってきました。彼女は最初こそシオンのために食事を持ってくる家政婦でしたが、人が増えていくに従って皆のお母さんのような役割へと変わっていきました。
ちょうどその頃に、スミレとヒマワリがやってきました。むろん、シオンは彼らが約束された来客であることを知りません。私たちは彼らを喜んで迎え入れました。
そして、私たちは転換期を迎えます。
◆
物語が大きく動き始めたのは、ヒナゲシがやってきてからでしょう。シオンは彼を司書長に任命しました。おそらくは、ヒナゲシが人間としてあまりに多くのものを見てきたからでしょう。それに、彼にはカリスマ性がありました。人を惹き込む力があるのです。
彼は自らが進化するのみならず、周りを成長させることも考えていたのでした。数多くの人々が今まで彼に救われてきました。
キキョウにダリア、アヤメにリンドウにコスモス。さらには、パンドラと美香を迎え入れました。二人はそれぞれ、アジサイとアザミとして司書をしています。
最初こそ精神病棟以上の意味をなさなかった場所ですが、今では自分たちなりに他人を救済する場所となっています。
偽善で、自己満足で、傲慢な場所です、ここは。忘却こそが救済だと信じ、バグを起こしたエラーだけを撤去してなんとかプログラムが再構成されるのを待つだけの、危険な手術室です。
しかし、我々はそうでもしなければ、自分自身の傷すら癒せなかったのです。シオンが人格を統合できたこと、ハルジオンが記憶を得て生まれ変わったこと、スミレとヒマワリが人間らしさを探し求めること、ヒナゲシたちが新たな生を生きる方法を見出すこと、アジサイが裏切られた傷を癒すこと、アザミが再び人を信じること──それらは全て、ここだからできたことです。
ですから、私は見届けます。自殺志願者を救うという慈善事業を経て、人間として成長していく花たちを。私は見守ります。今はそれが、私の使命です。
「──そして、アンタの心の傷も癒えるといいね」
筆を置き、ミカンがそうこぼしました。
私の心の傷とは、何なのでしょうか。好きな人を失ったことでしょうか。それならば、もう塞がりつつあります。
確かに、何も知らないキャラクターとして生きるのは楽しかった。恋もした。あのときは幸せだった。それでも、その思い出に蓋をしてまでも、私はアネモネ図書館を愛しています。
私は何一つ忘れていません。周りの司書が何かを忘れて一時期のリハビリを続けているならば、私はそこの職員です。元より彼らと同じ場所ではいられません。
私は嘘だらけの存在です。何も知らないフリを続けて生きてきました。何もかもを忘れたフリをして生きてきました。司書たちと親しくなるたびに、そんな自分を恥じて生きてきました。
ミカンは軽く笑い飛ばすと、紅茶に手をかけて足を組みました──その姿勢は、アザミによく似ていました。
「アンタにも幸せになる権利はある。アンタだって知ってるんでしょう、別の世界で生きるという選択肢を」
……えぇ、知っています。この精神病棟の目的には、気がついているつもりです。いずれ彼らは病棟を飛び出して、社会に戻っていきます。それが、別の世界で生きるという選択肢です。
例外は無く、私にもそれが当てはまるのです。
もちろん、惹かれないわけではありません。また普通の人間のように恋ができるのならしてみたいものです。遠い昔のことになってしまいましたが、誰かと触れ合う喜びは知っています。
それでも、私はもう少しここにいるつもりです。彼らの成長を見届けたいのです。
「アンタもすっかり、母親みたいになったね」
あなたには言われたくない台詞ですね。だって、作者であるあなたは私の母親でもあるのですから。
「そうね。アンタにとって幸せな未来が訪れるよう、アタシも祈ってるよ」
紅茶が切れました、次の一杯を注ぎましょう。過去を思い返すのも良いことですが、未来を見なければ拘泥してしまいます。昔話はここまでにしましょう。
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