おやすみなさいの魔法

「眠れないの、お願い、助けて……」

 一人暗い図書館で、蹲って泣いている少女。目の前には、食い散らかしたお菓子の袋と、絶えず煌々と光るスマートフォン。

 大きな欠伸をしながら、彼女の対岸に立ち、彼岸の魔女は大きな溜め息を吐いた。

「どうしてキキョウに出された薬を飲まなかったんだ」

「だ、だって! どうしても読みたい漫画があって! もうちょっとで終わるからそのあとにしようって思ったら……!」

「不眠症の奴は大概そう言って薬を飲むタイミングを逃すもんだよ。そして翌朝に眠るんだ」

「や、やだ、仕事に支障が、」

「だったらさっさと寝とけってんだよ。ったく……」

 彼岸の魔女が前髪を掻き分け、眉をひそめる。ソファで震えている少女は、クッションを抱きしめて涙をぼろぼろと溢した。

「アザミ、あたし、どうやったら寝れるのかな……」

「食っても寝れなかったんだろォ? じゃあ横になるしか無ェな」

「寝るのが怖いよ……胸がざわざわして、怖い……」

「そいつァ、明日起きられねェかもっていう不安に決まってる。黙って仕事のことなんざ忘れて寝ちまえ。泥のように眠れ、リンドウ」

「む、無理だよ……アザミ、魔女なんだから、眠れる魔法とか無いの……?」

 大粒の涙で潤んだ瞳が、アザミを見上げる。まつ毛が細かく震えて、きらんと光っている。

 アザミは手を離すと、リンドウの首根っこを掴んだ。何が何だか分かっていないリンドウをそのまま彼女の寝室へ連行する。

 ベッドに寝かされたリンドウは、きょとんとしてアザミを見つめた。暗闇の中、ルビーの瞳が光っている。

「魔法か、かけてやるよ」

 すると、アザミはリンドウのベッドに腰掛け、ゆっくりと手をリンドウの方へ下ろした。恐怖に体を固くしたリンドウだったが、その緊張はすぐに緩む。

 ぽんぽん、と優しく頭を撫でられていたからだ。

 アザミはたいそう不愉快そうな顔で、されど慈しむような目でリンドウを見下ろす。

「え、なんで……」

「よし、よし。良い夢見ろよ」

「これ、魔法じゃないじゃんっ」

「さぁ、な。ボクはこうして寝かしつけてもらったんだ、『彼奴』に」

 なにそれ、と膨れた顔で答えたリンドウだったが、アザミに撫でられていくうちに、その顔は和らいでいく。十分もそうしていると、リンドウはすやすやと寝息を立て始めた。

 アザミはもう一度欠伸をすると、音を立てないようにしてリンドウの部屋から出ていく。すると、扉の前にはまた別の眠れない人が立っていたのだった。

 魔女によく似た、黒髪に赤い目の少女。二、三歩退くと、じっとアザミを見上げた。

「……何、してるのかと思ったの……」

「あー、妹が心配だったのかァ? ったく、素直じゃねぇよァアンタは」

「違う。起きてたから、アザミさんが」

「アンタも魔法をかけてほしいのかァ?」

「魔法なんて無いでしょう」

 アザミが冷ややかに見下ろせば、コスモスはきっぱりと言い切って拒絶した。

「貴女が魔女っていうのも、きっと嘘だわ」

「嘘じゃァねぇよ。実際魔法は使える。だが、人を寝かしつけるのに魔力は要らないだけだ」

「……ただリンドウを寝かしつけただけ?」

「そうだよ。だが、ボクにとっては最高の『魔法』だった」

 鼻から大きく息を吐くと、アンタも寝ろ、と言ってアザミは手を振って追い払おうとする。コスモスはじっとほの暗い目でアザミを見つめると、ぽつりと尋ねた。

「貴女はどうやって寝るの?」

「あ?」

「人を寝かしつけられたとして、寝かしつけた人はどうやって寝るのかしら。普通の人は、自らの利益無しに動かないと思ったのだけれど」

 アザミは目を見開き、コスモスを見つめた。コスモスはきょとんとした顔をしている。

 しばらく黙り込んだあと、アザミは手を伸ばし、コスモスの頭を撫でた。コスモスは顔をしかめてその手を払う。

「アンタもやっぱりリンドウと同じ目をしてんだな」

「不可解。あまり触らないで」

「ボクはこのあと頓服の睡眠薬を飲んで寝るよ。普通だろォ? 自分に魔法はかけられねェからな」

「それが滅私奉公だと言っているのだけど」

「ボクが得られなかったものを、他人に与えたいだけさ。ボクが魔女であるのは、そういうことだ」

 アザミが片方の口角を上げて歪に微笑めば、コスモスは口を閉じて無表情になる。

「分からない」

「分からなくていいよ。アンタもさっさと寝なァ。そうそう、アンタも慣れてきたんだから、呼び捨てで良いし敬語なんて要らねェよ。おやすみ」

「……おやすみなさい」

 コスモスはぺこりと頭を下げて、踵を返して去っていく。アザミは首の後ろを掻くと、金眼鏡を外し、ゆっくりとハイヒールの足を進めた。



「……っ、ヒナゲシ、眠れない……」

 ルームメイトの薬を飲み漁り、夜中の三時まで震えている魔女に、司書長は困ったような顔で一つの「魔法」を教えた。

 それは、魔女がまだ知らない魔法だった。

「眠れないときはさ、他人にこうしてもらえばいいんだ。僕はしてもらったことが無いからこそ、あんたにこうしてるんだよ」

 節のある大きな手が、魔女の頭を優しく撫でる。陶器の肌にゆっくりと熱が伝わってきて、魔女は凍った心が溶けていくように感じた。

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