煙草と貴方
「もしかしてカトレアさん、煙草苦手?」
覗き込んだ黒真珠の目が無邪気に光る。三歳しか年が違わないのに、彼と話しているときはまるで年端もいかぬ少女と話しているような気分になる。
端正に笑顔を浮かべる彼に嘘をつくこともできなくて、そうなんだよね、と正直に答えた。隣の青年・ダリア君はそれを聞くと、これで最後です、と言いながら、重たいタールの入った紙巻を口に咥えた。
ダリア君と仲が良くなったのは、本当に不思議なことだった。こんなに純真で、ときに切れ味が鋭い、そんな純粋なナイフを好いている自分に驚いている。元々は彼がメイクを教えてくれたことから始まった仲だ。
だからこそ、彼の行動を咎めるようなことは言いたくない。関係無い人なら、他所で吸いなさい、の一言で済むのだが。
私はというと、昔から感覚が変に鋭敏というか、なんというか、嗅覚が強いせいで煙草の臭いは苦手だ。父親が酷いヘビースモーカーだったのも理由になりうるだろう。あの人が帰ってくると煙草の臭いが顔に降りかかる。そして文句を垂れ始める──
でも、そんなことを目の前の青年に言うのはお門違いだろう。別に良いんだよ、と言うと、彼は甘く微笑んで肩を竦めた。
「煙草を吸う自由だってあるよ」
「でも、人前で吸うのは違うでしょう? さすがにアンタの旦那さんも、アンタの目の前で煙草を吸ったりはしないでしょう」
「え、シオン君? シオン君は確かに、私の前では吸わないかも」
急にシオン君の話になって、冷たい水をかけられたみたいに驚いてしまった。その冷たさは長続きしないで、すぐ顔が赤くなる。
シオン君もまた、ヘビースモーカーだ。というか、アネモネ図書館のほとんどの男性は煙草を吸っている。
減塩ならぬ減煙をしたヒナゲシさんですらまだ喫煙習慣は残っているし、キキョウさんもかなりの喫煙愛好家だ。ツバキさんも時々煙管で煙草を吸っている。吸っていないのはアザレア君とアジサイ君とスミレ君くらいだろうか。
けれども、彼が──シオン君が私の前で煙草を吸わないのは確かだ。どうしてそんなことが分かるんだろう。私は赤くなってるだろう顔を手で押さえて答える。
「シオン君はね……煙草の臭いはするよ。でも、いつも香水か何かをしてるみたいで……凄く、良い匂いなの。なんかこれ、恥ずかしいなぁ……」
「あぁ、分かります。センパイもそうですよね。センパイからはシトラスの香りがするけど、シオンからは別の香りがしますね……何だろう、コーヒー?」
「コーヒー! そうかもしれない。でも、どうして煙草の臭いはしないんだろう?」
「消臭剤振り撒いてるんでしょう。それからコーヒーをいつもみたいに飲んでる。吐息に一番臭いって影響するんですよ、飲んだくれの人の口からはアルコールの臭いがするみたいにね」
ダリア君の言うとおり、消臭剤を振り撒いているシオン君を想像する。
確かに彼の部屋には消臭スプレーが置いてあったかもしれない。もしかしたら小さなスプレーを持ち歩いているのかもしれない。その結果が、煙草とコーヒーの混じった魅力的な香り──なんて紳士的なんだろう、私の夫は!
そんな叫びが通じてしまったのか、ダリア君は喉を鳴らして笑っている。彼は結構笑いのツボが浅くて、すぐこうやって笑っている。その笑顔が無垢で愛らしくて、ついつい可愛がってしまう。
「シオンもなかなか罪な男ですねぇ。煙草ですらチャームポイントにしてしまうんですもの」
「そうだよね……別に、だからってダリア君とかキキョウさんが苦手って言いたいわけじゃないよ?」
「シオンは特別、ってことでしょう?」
「うん……そうだね、シオン君は特別。司書さんのことは皆好きだけど、あの子は特別」
自分で口にしながら恥ずかしくなってきてしまった。ダリア君は最後の一本を吸い終わって吸い殻を灰皿へ押し付けると、ポケットから小さなスプレーを取り出した。無造作に口の中と体中にかけるたび、弾けるようなシャボンの香りがする。
煙草の香りが無くなったわけではないけれど、不快さは一気に減った。私がぽかんとして眺めていると、ダリア君もきょとんとして見つめ返してくる。
「だって、嫌なんでしょう?」
「いや、そういうわけじゃないけど……まるで自分は何もしてないみたいな口ぶりだったから……」
「僕はね、美しくありたいんです。確かに、煙草の香りのする好きな人の胸に抱かれているときは安心しますけど……基本的には、ただの悪臭でしかありません」
「そこまで言わなくても……ほんと、全ての人の喫煙習慣自体を止めたいとか思ってないし……」
「煙草はチャームポイントであるべきなんですよ、カトレアさん」
そう言ってダリア君が煙草のケースをとり出す。爽やかな色をしているのに、注意書きでいっぱいだ。煙草を吸う姿は格好良いのに、肺を苛む様は無残なのと同じだ。
「煙草、酒、女遊び……何事も、自分をよく見せるためのアクセサリーでなくてはなりません。それをアクセサリーとして使えない人間に、それを扱う資格はありませんから」
「そっか、そうだよね。シオン君の煙草吸う姿は嫌じゃないし。もちろん、ダリア君もだよ」
「ふふ、格好良く見えていますか?」
ちらり、と黒目がこちらを向く。白く透けた肌に、整った顔立ち。泣きぼくろに、一つだけ乱れた、三白眼。香るシャボン。マスカラをした長い睫毛。女狐の微笑み。煙草のケースを握る節のある手。
嗚呼、どうりで「女遊び」なんて単語が出るんだ。彼は確かに、煙草や酒や女遊びをアクセサリーにしている。一瞬で魅入られてしまう。別にそこに恋愛感情は湧いてこないのだけど、魅力というものは確かに伝わってくる。
ふと、そこにシオン君が重なる。煙草を吸っていても、穏やかな目で私を見つめてくるブラッディレッドの瞳。漂ってくるコーヒーの香り。確かに彼の胸の中は、とても心地良い。
「格好良いなぁ……」
その呟きはダリア君に向けても、シオン君に向けてもいた。
世間では悪とされるものを、こうまで格好良く、魅惑的に見せるのは、一種の才能なのだろう。そして、そういう姿を見せてもらえると、私の頭の中にこびりついて取れなかった、醜い父の姿が上から塗り潰されていくような気分になる。
非道徳は、彼らの前ではただのアクセサリーになる。
私はつい笑い出してしまう。面白いなぁ、と思う。私も大概道徳的には生きていないけれど、インモラルに憧れを抱いたりもする。だから、こういう危なっかしい何かに惹かれてしまうんだな、そういうところが面白いな、ということだ。
「格好良いよ、ダリア君は」
「そうですか? ふふ、シオンより魅力的ですか?」
「同じ天秤で比べられないよ。そんなことしたら、ダリア君にもシオン君にも失礼だよ」
「あはっ、いじらしくて可愛らしいお姉さんですね。シオンに負けず劣らずとっても意地悪だ」
けろっとした顔で笑ってる彼は、まるで人を試す子供のようで、人誑しで──そんな彼のことも、好きではあるけれど、彼はシオン君と同じ天秤には乗らない。時々シオン君の乗っている皿の方にぶら下がって、天秤を狂わせようと意地悪をしてくるだけ。
そんな彼ともう少し話していたかったのだけれど、とっくに日は落ちていた。皆のために料理を作らなければならない。シャボンの香りが遠のくのを惜しみながら、私は彼へと手を振った。
◆
「なぁ、お前さ。何で煙草なんか吸い始めたん?」
アジサイの体は温かい。包まれているだけで布団代わりになるから、太陽みたいだと思っている。ただ、心音を聞いているとそれを止めたくなってしまうので、それだけが問題だ。
今日も夜這いを試みたのに、彼は冷たく拒絶した。つれない男だ。挙げ句の果てに、抱きついた僕の煙草の香りについて言及してきた。女みたいだな、と思う。
「アジサイも煙草嫌い?」
「嫌いやないねんけど……自己加害なんてなんで好きでやってんねんやろなァ、と思っとうだけやで? 寿命を縮めるだけやさかい──」
「センパイがさ、教えてくれたんだよ」
「センパイ」という単語を出すと、アジサイはあからさまに嫌そうな顔をする。センパイに僕を取られるのを嫌がっているみたいだ。とても可愛らしい。狼の雄はこんな感じだろう。
それでも僕は素直に話す──それが彼との約束だから。
「煙草を吸ってると、他の臭いを全て消せるんだ、って。抱かれた臭いも酒の臭いも全部全部煙たさが隠してくれるんだ、ってさ。自分の迷いも消してくれる。煙草は一瞬頭を殺してるようなものだからね」
「それと何の関係が?」
「だからね、人を殺すのは楽だったよ」
アジサイはじっとりと僕を細い目で睨むと、頭をぽんぽんと叩き、寝なさい、と優しく言った。上から目線が本ッ当にムカつくけれど、この人はこういう関わり方しか知らない。
今日の昼もそんな女と話した。あの女はどこか僕が殺した女に似ていた。好きになった人間には盲目で、嗅覚弱者で、その匂いしか嗅ぎ分けられない。だからいつも肝心なところを見落とす。
僕がもしも「彼」と同じように、コーヒーの香りを漂わせて後ろから近づいたら、簡単にナイフが背に刺さってくれることだろう。
アジサイはそうではない。僕の些細な感情すら読み解き、些細な変化すら見逃さない獣の目と鼻を持っている。だからこそ、彼に隠し事はしない。
おやすみ、と笑いかけると、彼は僕を抱き潰すようにして目を閉じた。嗚呼、苦しいよ。煙草の香りはしない。これが正常なんだと、僕は何かに言い聞かせられたように感じた。
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