だって、あなたは聞いてくれないから

 ヒナゲシは男を組み敷いて首に膝を乗せている。その男は眉を吊り上げて喉をキイキイと鳴らして喚いていた。ヒナゲシの表情は単一だ。淀んだ梔子色の瞳が真っ赤になった顔を見下ろしている。

 ゴキリと大きな音がした。男は口から泡を吹いて痙攣し始める。それでもヒナゲシは相手の腕を取って膝に掛けてボキリと折る。ぇ、ぁ、と叫び声が途切れる。

 やがてぴくぴくと動いていた足は止まり、がくりと首が垂れた。美しかった男の顔は、鼻から出した血と口から出した唾液の泡でぐしゃぐしゃだった。たくましかった四肢はヒナゲシが一つ一つ折ったがゆえにあり得ない方向に曲がってコンクリートに垂れていた。

 ゆらりとヒナゲシが立ち上がる。途端、男の身体中から凄まじい勢いで花が芽吹き始める。口から、目から、鼻から、耳から、下半身から、ぶわっと湧くようにして綺麗な花々が溢れ出す。山になった花々は、まるで男への手向のようだった。

 ヒナゲシは自らの節のある手を眺める。紅潮してはいるが相変わらず汚れ一つ無い。握ったり開いたり何度も動かして、もう一度足元に寝転がる男を見つめた。

 前髪で隠れた目から表情は窺えない。ヒナゲシは色褪せた唇を動かし、乾いた声で呟いた。

「嗚呼、とても、」



「言うことを聞いてくれないから殺しました。殴ったら『もうやめて』としか言わなかったので腹が立ったので首を絞めました。私の話を聞いてほしいだけだったのに。私の言うとおりにしてくれれば痛い思いなんてしなかったのに。殺したのに言うことを聞いてくれなかったので自殺しました」

 背筋を伸ばし、真摯な目で見つめてくる女が、今日の自殺志願者だった。手も足も揃えて、お淑やかに座っている。

 戦慄したヒナゲシを他所に、女は一度瞬き、恭しく尋ねた。

「今日は眠いので、お話は明日でも良いですか?」

「……えぇ、構いませんよ」

 ヒナゲシが歯切れの悪い返事をすると、女はぺこりとお辞儀をして、失礼します、と言ってソファから立ち上がった。それからは、隣に控えていたキキョウが彼女を客室へと案内する。 当の女は顔の良い壮年男性のことをじっと見つめて、カッコいいですね、と声をかけていた。

 ツバキとヒナゲシが二人残され、同時に大きな溜め息を吐く。ツバキはティーポットからローズティーを淹れて、ヒナゲシにカップを差し出した。

 金色の丸眼鏡の下から、ミルクティー色の目がヒナゲシを窺った。

「ヒナゲシでさえも困ってしまうなんて、今回も癖の強い自殺志願者が来訪したものですね?」

「いえ、少し驚いただけですよ。まるで予知夢を見たようで」

「予知夢、ですか。このような自殺志願者がやってくることを想定していたと?」

「なんというか……違うんですけどね」

 ヒナゲシはソーサーへカップを置いて、そちらを見て悩ましげに目を伏せた。溜め息は紅茶の中に落ちていく。

 ツバキはヒナゲシの隣に座って顔を寄せた。どうかしたんですか、と訊くその顔には、角砂糖の笑みが表れている。ヒナゲシは乾いた声で笑い、眉を下げた。

「ツバキさんは、自分が強くなって、何でも暴力に任せて解決してみたい、なんて思ったことはありませんよね」

「それは……私は、ありませんね。司書の中でいえば、リンドウはそういう人だったのでしょう」

「リンドウさんは話を聞いてもらいたかったわけではありませんよ」

「でも、彼女は『話を聞いてくれないから』殺したんだと、私は思ってますけどね」

 ツバキはそう言って遠くを見つめる。すると、ピコン、と軽快な通知音が鳴り、ツバキが持っていた端末が光った。

 二人が手に取ると、画面の向こうでツートンカラーの少女が恭しくお辞儀をしていた。黄色と紫の目でそれぞれヒナゲシとツバキを見ると、失礼いたします、と静かに言った。

「リンドウをお呼びしましょうか」

「おや、聞いていたのですね。確かに、参考になるかもしれませんし……」

「なんだか、彼女を頼ってしまうなんて申し訳無いですね」

「何を言いますか、彼女だって研修生とはいえ、立派な司書の一人ですよ。きっと、彼女もそう扱われることを望んでいます」

 ツバキの言葉に、そうですね、と答えてヒナゲシは頬を緩めた。ハルジオンはぺこりと頭を下げると、画面から消え失せた。

 しばらくすると、端末からイヤホンを伸ばして耳につけた少女が歩いてきた。黒いパーカーのフードを外すと、大きな眼鏡の下から二人の姿を捉えた。

「あたしのことを呼んだの?」

「はい、リンドウさんにお手伝いしてもらいたいことがありまして」

「良いけど……あたし、力になれる?」

「自分を謙遜なさらないでください。あなただって立派な司書ですよ」

 ツバキに言われるまま、リンドウは向かい側のソファに座った。彼女は目を丸くして驚いた様子であった。

 ヒナゲシがティーカップを差し出せば、リンドウはシュガースティックを三本開けてから、そこに紅茶を注いだ。ティースプーンをかき回して冷ましているうちに、ツバキが事情を話した。

 暴力で人を従えようとした自殺志願者の話。暴力で物事は解決できるのかという問い。リンドウはしばらく黙って聞いていたが、ツバキが口を閉じると、きりっと吊り目を見開いて答えた。

「あたしの親はあたしの話なんて全然聞かなかったから。殺すしか無いな、って思ったんだよ」

「僕の親も話を聞かない人でしたが……暴力を振るったことはありませんでした、一方的に暴力を受けてただけなので」

「ヒナゲシが凄いだけだよ。普通、やられたらやり返したくなるでしょ? あたしは女だし、ひ弱だったから、包丁を見せて脅しても本気にされなくて。だから、刺し殺した」

 壮絶な二つの告白に、ツバキが痛ましそうに顔を歪める。一方の二人は、まるで今日の夕飯について語るかのように軽い調子で話し続けた。

「暴力を振るってはいけない、とは思わなかったのですか?」

「そーゆーのはコスモスが考えることだよ。あたしだってずっと我慢してきたんだ、って思ったら、そんな倫理観も道徳観も無くなった。それに、両親を殺した時は、これでもう生きていけないな、と思ったのと同時に、凄く気が楽になったんだ。現世に貼り付けられてる何もかもが無くなった感じ」

「……たいそう心地が良いでしょうね、人を殺すというのは、人を甚振るというのは……」

「ヒナゲシこそ、そんなに力があるんだから、一回くらい誰かを殴ったことは無いの?」

「僕は……僕は、柔道を習ってましたから。僕が本気で人を殴ったら、殺してしまうって分かっていたんです。だからこそ、人に暴力を向けたことなんて無かった」

 ヒナゲシの声のトーンが落ちていく。憂鬱の鈍色に染まった瞳が、斜め下を見つめる。

「最近、思うんです、あのときもしも、暴力で人を従えられていたら……誰もが言うことを聞いてくれていたのかもしれない、って。拘束して、暴行して、そうしたら人々は皆、僕の思うがままになっていたんじゃないかって」

「私は思いますよ、ヒナゲシの優しいところはそこだって。自分に力があることを知っていながら、それを行使しない。それどころか、それを受け入れる側に回っている、なんて」

「優しいんじゃありません。考えたことも無かったんです。いや、考えたことはあった。でも、その考えゆえに他人を遠ざけることを知っていたから、怖くて口に出せなかった」

 リンドウはティーカップを両手で包み、あおるように温い紅茶を飲み込んだ。小さく息を吐くと、なんで落ち込んでんの、とぶっきらぼうに言った。

「暴力を振るわない方が世間としては正解なんでしょ。人を殺さない方が普通。あたしたちはそういう世の中には生きてなかったんだよ」

「そう、ですね……少なくとも、私はできるだけ言葉で物事を解決してきたつもりですから。相手はたいてい話が分かる相手で、物理的な手段を行使したのはたったの一回でした」

「だから、今日来た自殺志願者が悪、そう言いたいんでしょ」

「そんなつもりはありません。誰の心にもある、わがままな欲望に囚われた人間だと思っているだけですよ、僕は」

「欲望、って。話を聞いてくれない方が悪いんだよ。殺されてとーぜんだと思うけどな、あたし」

 リンドウは決して自分が悪いとは言わない。自分の非を認めたくないのではない、認めないのだ。自分のしたことは正しいと信じ続けている。だからこそ言い続けるのだ、あたしは悪くない、と。

 ツバキは二人の話を聞いて顔色を悪くしていた。自分の知らない世界で、二人は困窮して、その上で暴力に頼った。自殺と殺人。人間にとって究極的な行為でしか、自分の運命を定められなかった。

 誰も自分の話など聞かない。ならば、暴力をもって、恐怖をもって支配しよう──エゴイストが織りなす道徳で、リヴァイアサンが織りなす秩序だ。

「……どう接したら良いのでしょう。私には、自殺志願者の気持ちが分かりません」

「ツバキはレファレンス担当で、カウンセリング担当じゃないじゃん。ヒナゲシもヒナゲシで、キキョウに代わってもらったら? キキョウ、真面目で道徳的だし」

「いや、キキョウも正義のために暴力を行使するタイプですよ。前に話しましたっけ、僕はかつて彼に暴行を受けていたって」

「え」

 リンドウとツバキの声が重なる。二人はティーカップを持ち上げたまま固まっていた。

 曇った表情をしていたヒナゲシだったが、小さく吹き出すと、この張り詰めた顔を緩めた。

「キキョウは、暴力ででしか自らの感情を発露できませんでした。彼の親がそうだったからです。表向きはいつも良いカウンセラーであろうとして、そこに生まれた歪みを暴力という形でしか表現できませんでしたから。いわば、黙って殴られているだけで彼の救いになった、ということですよ」

「……ヒナゲシが殴られる方を選んだのは、どうしてなの?」

「僕は他人に必要とされたかっただけです。僕の意思なんてどうでも良かった、どうせ誰も聞いてくれないから。なら、伝える必要も無い、と諦めていたんですよ」

「その点、ヒナゲシは変わりましたね。かつては何一つ自分の欲求を言葉にできなかったのに、今はここまで素直に話せるようになった」

「褒めないでくださいよ、当たり前のことです。それに、聞いてくれるあんたらが素晴らしいのであって、話せる僕に価値はありませんよ」

 照れ臭そうにそう言って、ヒナゲシはティーカップに口を付けた。

 リンドウは丸い目でじっとツバキとヒナゲシを見つめていた。それから不意に口を開いた。

「あたしはまだ、信じられてないけど。アネモネ図書館にいると、自然とそうなるものなの?」

「僕はそうでしたよ。心を許せる仲間ができて、ちゃんと話を聞いてくれる人がいて……」

「じゃあ、あの自殺志願者にもそういう人がいると良いんだけど。そしたら、自分がしたことが悪いって気がつくんじゃない?」

「誰が悪いとか、そういうのは嫌なんですよ、僕は」

「むー、じゃあ、もっと違う方法があった、って考えられるんじゃない? とことんまで話聞いてあげれば良いんじゃない。あたしも、話聞いてくれる人、好きだし」

 口を尖らせて言うリンドウの言葉に、ヒナゲシの顔が少し明るくなった。それだったらできますね、と言う声は、灯籠の中で灯る橙の炎。和紙を柔らかく照らす光。それに照らされたリンドウの頬がほのかに赤くなる。

「リンドウさんのおかげで方針が決まりました、あんたのおかげです。さすが司書、ですね」

「あっ、あたしは自分の言いたいこと言っただけだし! ほとんど何にもしてないじゃん!」

「謙遜するなんてあんたらしくない。リンドウさんのそういうところが憎めないんでしょうね」

 甘ったるい褒め言葉に、リンドウは眉を寄せて、やめてよ、なんか気持ち悪い、とぶつぶつ呟いた。ヒナゲシはなおいっそう嬉しそうにクスクスと笑う。

 あたしはもう行くからね、と言って、リンドウが立ち上がった。去っていく背に手を振り、ヒナゲシが微笑みかける。隣のツバキが彼の肩に頭を乗せて、甘えるように寄り掛かった。

「ふふ、さすが司書長様。司書から大事な話を聞き出すのがとてもお上手で」

「そんな。僕はただ、リンドウさんの話が面白くって聞き入っていただけですよ」

「リンドウ、喜んでいましたよ。彼女を上手く扱えるのは、あなただからです」

「もう、さっきから褒めすぎです」

 頭を撫でるヒナゲシと、そういうところは似てますよね、とこっそり呟くツバキ。むふふ、と笑って甘えているツバキは、さながら飼い主の膝で丸くなる猫のようだった。

 しばしそうして体をくっつけていたが、互いを見合わせ立ち上がると、キキョウの元へ──すなわち、件の自殺志願者の元へと向かった。二人が歩けば、紅茶の香りがふわりと漂う。

 扉の前に立っていたキキョウに、その香りが届く。彼は目を開けると、先輩、と穏やかな声で呼び掛けた。

「あの子なら今は寝てるよ」

「そんな時間でしたか? 善は急げ、だったんですけど」

「まぁまぁ。今日はもう夜だし、また明日にしようぜ」

「それもそうですね。すみません、付き合わせてしまって」

「いえいえ。私も楽しいお話が聞けて良かったですから」

 ツバキがにこりと笑う。キキョウは扉から離れて、ヒナゲシの隣に侍った。

 それではまた、と行って去っていくツバキを見ながら、ヒナゲシは心の中に再び影が降りてくるのを感じていた。先輩、と再びキキョウに呼ばれて我にかえる。

「浮かない顔して、どうしたんだよ」

「いえ……少し、考え事を。さ、僕らも部屋に行きましょうか」

「考え事なら聞くけどよ。また後ろ向きなこと考えてんのか?」

「……よく分かりません。ベッドに就いて、それから分かるかもしれませんし、寝てから分かるかもしれません」

「それなら任せとけよ。眠れなくなったらいつでも起こして、な?」

 キキョウの言葉に、ヒナゲシにしては珍しく、何も言わずに頷いた。その違和感はキキョウにも伝わったようで、彼の顔から笑みが消える。

 二人が共に過ごす部屋に入って、ヒナゲシが大きなベッドに入ると、キキョウはすぐさま隣に入り込んで、ヒナゲシのことを抱きしめた。ヒナゲシが驚いて肩を揺らす。

「びっくりしました」

「大丈夫。暴れても騒いでも俺がいるからさ」

「……過保護なんだから」

「先輩が引っかかってんのは、暴力を振るうことについてだろ」

 心中を当てられ、ヒナゲシが思わず口籠る。そんなことだと思ったよ、と笑い、キキョウはヒナゲシの亜麻色の柔らかい髪を撫でた。

「俺の方が分かるよ、先輩。それが正しい行いか否かなんて」

「えぇ、本当はあんたに真っ先に聞くべきでしたね、とんだじゃじゃ馬です」

「で? 何が聞きたいの?」

 キキョウに促され、ヒナゲシは彼の顔を見ることなく、静かに問いかけた。

「人を殴るのって、気持ち良いですか?」

「なんだ、そんなこと。まぁ、気持ち良かったよ、そんときは。で、後悔する。自分はなんてことをしてしまったんだろう、って。そしてあんたに謝る」

「どうしてそこまで心地良い行為なんでしょう、暴力というのは。僕はきっと後悔しません」

「そりゃ、俺の場合は、先輩が俺を受け入れてくれてる、俺の言うことを聞いてくれてる……って思ってたからさ」

 キキョウがもごもごと恥ずかしそうに答える。ヒナゲシの頬に手を当て、かつてのように叩くのではなく、優しく撫でた。

「ずっと押し殺してきた気持ちが解放されていって、凄く快い感覚だった。人前では良いカウンセラーを演じていたからこそ、かな」

「どうして言葉にしなかったのですか」

「先輩が一番分かってんだろ。辛い、苦しい、やめたい、怖い。そんな言葉を言って慰めてもらえなかったとき……とても、怖くなる。弱音を吐くのはいけないことだと思っているから。

それを、黙って殴られながら、俺が泣きながら苦痛に悶えるのを聞いていてくれたのが、先輩だ。だから俺は、先輩だけを信じてる」

「人を信用できないから、本音を話さないのでしょうか。信用できないから、武力行使に出るのでしょうか……」

「そうだよ。そうして他人を支配するのが、人間はいっとう好きなんだ。何も言わなくたって、言うことを聞かせることができる。ただ殴れば良い。蹴れば良い。殺せば良い。話し合いなんて必要無い。憎んでいるならただ殺せば良い」

 ヒナゲシがぎゅっとキキョウの背を握り締める。子供が縋り付くような行為に、キキョウの顔が赤くなった。ヒナゲシはそんなことも気に構わず、キキョウの胸板に顔を寄せる。

「僕もそうして良かったのでしょうか」

「先輩が? 先輩は人を傷つけたいなんて思わないだろう、」

「いえ、思うんです、本当です。腹が立つ奴の首に膝を置いて絞め殺してやりたい。顔がぱんぱんに腫れるまで殴ってやりたい。泣いて許しを乞うてもやめてやらないで、死ぬまでキイキイと叫ぶ様が見たい。指を一本一本折っていき、恐怖に無抵抗になる様が見たい。無様な死体が見たい。それが堪らなく、」

 吐き出された言葉に、キキョウが顔を顰める。しかしそれは決して非難の色を込めたわけではなく、哀れみの色を染めただけだ。

 ヒナゲシが顔を上げ、キキョウの表情を窺う。じ、と見つめる彼は、母親の機嫌をとる息子のようにも、虎視眈々と機会を狙う殺人鬼のようにも見えた。

 

「……激発型サディストってのがある。物腰柔らかだった奴が、ストレスに耐えかねて暴力性を持ち、その豹変に人々は慄く。それに快楽すら感じるかもしれない。だが、原因ははっきりしていないんだ」

「日に日に強くなっていくこの衝動で、僕は人を殺してしまうかもしれない。それが怖い」

「水が溢れたバケツがあったなら、蛇口を止めるか、器を大きくするか、バケツに穴を空けるかだ。先輩がストレスの水で溺れてしまわないように、俺が穴を空けてやる。だから、不満とか理不尽とか、言ってくれよ。そういう人が、必要なんだよ」

 キキョウはまるで子供に語りかけるように優しい口調で諭す。ヒナゲシは再び顔を埋めると、ぼくは、と口を動かした──



 目を覚ました自殺志願者は、司書が作った美味しいご飯を食べて満足げにサロンへと向かった。彼女を案内したのは、スマートフォンに宿る少女だった。

 執事のような服を着た彼女が案内を終了すると、再びスマートフォンの電源が落ち、点かなくなる。呆れて大きな溜め息を吐いていると、目の前に昨晩話した亜麻色の髪の男が座った。

 御機嫌よう、と吐息混じりの重怠い雰囲気に呑まれ、自殺志願者はしばし黙っていた。

「さて、カウンセリングと交渉のお時間です。どうして自殺したのか、もう一度お聞きしても?」

「私の言うことをあの人が聞かなかったからです。だから殺しました。衝動的にやったけど残虐なので捕まったら地獄が待ってるなと思って自殺しました」

「僕は元々刑事をやっていましたから、それはよく分かります。残虐ならペナルティが重くなります」

「だけど、未だに私が間違っていたなんて思えません。だって話を聞いてくれなかった彼女が悪いんです。何を言っても私は悪くないの一点張りで。私は必死に何度も何度も働きかけたのに、きっと自分が可愛いんです。だから分からせてやりたくて殴ったんです」

 自殺志願者は鼻を鳴らし、捲し立てるように答える。懸命に伝える自殺志願者を、憂いを帯びた目で眺めると、司書長は静かに口を開いた。

「えぇ、僕はそれを間違いだとか正解だとか、そんなことを言いたいのではありません。あんたがいったい、何を伝えたかったのか……ただ、それが知りたいのです」

「何を伝えたかったか……? 私はただ、私を無碍に扱うあの人が許せなかった。私はあの人に大切にしてほしかった。あの人は賢いからきっと私の気持ちなんて分かっていたでしょうに、それでもなお酷いことばかり言うんです。私はそれに、うん、そうだね、と言い続けるのに疲れたんです。だからやめてほしい、と言ったのに、あの人は、」

 蕩々と話し始める自殺志願者に、司書長は穏やかに微笑んで頷きを返す。愚痴を垂れ流す自殺志願者の顔色が、みるみるうちに明るくなっていく。

 喋り疲れ、口を閉じた自殺志願者に、司書長は一杯の紅茶を差し出した。自殺志願者はぺこりと頭を下げて、カップを受け取る。一口飲んで、その芳醇さに微笑みを浮かべたところで、司書長は口を開いた。

「好きだったんですね、その人が。だからこそ、言えなかったのですね」

「分かってくれますか……?」

「分かりますよ。好きだけど、信頼はしていなかったんですね」

「信頼……していませんでした。あの人が私の話を聞いてくれるわけが無いんです。そうでなくては殺しません」

「あんたに必要だったのは、そうして膨れ上がっていく理不尽を話せる相手だったのでしょう?

対等になりたかった、違いますか?」

 自殺志願者はゆっくりと首を横に振った。司書長は反対に、満足げに頷く。

「言いましたよね、あんたが悪いとか悪くないとか、そんな話はしたくない、と。僕にも分かります、あんたの気持ちは。何もかもを壊して、自分の思いどおりにしたくなる。それをしないのは、なぜだと思います?」

「分かりません」

「言えば分かってくれるからです。あんたもそうです。僕の話をこうして聞いてくれています。あんたにも、そういう人に出会ってほしい。そういうチャンスを与えたい……僕は、そう思っているんです」

「チャンスを? 私は死んでしまうのに?」

「えぇ。あんたに刻まれた何かの記憶を、何かの記録を差し出してさえいただければ、あんたにもう一度やり直すチャンスを与えることができます。それがたとえ、殺人の記憶でも」

 司書長の言葉に、自殺志願者は黒い目を見開いてじっとその顔を見つめた。

「私は悪いことをしたのではないのですか?」

「えぇ、罪は償っていただきます。あんたが、言って分からない相手と付き合っていた罪は、現世でしっかり償ってください」

「でも、私の人生はもう終わってしまったんですよ? 私は一生禁固刑ですよ?」

「一生、かどうかは分かりません。あんたが罪を償う気さえ示せば、長い時を経て、自由の身にはなれます」

「……それくらいなら、私は死を選びます、」

「誰かは分かってくれます。それは刑務所にいる人かもしれません。まだ顔も知らない誰かかもしれません。今諦めて死んでしまったら、せっかく話してくれたあんたの本心はどうなるんですか!」

 司書長は少し声を張って言葉を遮った。自殺志願者の表情は変わらない。無感情で意図を持たないまっさらな顔をしている。

 小さく息を吐き、司書長は手を組んで話し続けた。

「声を荒らげてしまってすみません。それでも僕は、あんたが死んでしまうことが惜しいと思ったのです。あんたの叫びが誰にも聞かれないまま虚しく潰えてしまうのは、間違っていると……」

「ずいぶんとお節介な人なんですね」

「最終的に選ぶのは、あんたでしたね。僕が押し付けることではありませんでした」

「……やっぱり、私は死を選びます。でも、死ぬ前にこうして話を聞いてもらえて嬉しかったです、それだけでこの図書館に来た意味があったと思いました。ちゃんと聞いてくれる人に会えて良かった」

 司書長の顔が曇る。自殺志願者の意思は、自身の体へとゆっくりと現れていった。着ていた服にじわりと血が滲み、顔からは真っ青になっていく。ドス黒くなった唇が微かに動き、微笑みを描いた。

 目を閉じ、足元から光になって消えていく。自殺志願者の死に顔は安らかだった。

 司書長は一人ソファに座って取り残されていた。手元には、先ほどまで話していた自殺志願者の名が刻まれた本がある。フィーネが打たれた本を、司書長は徐に開いて、目を落とした。

 ぐちゃぐちゃになった愛する人の顔を見つめ、茫然とした自殺志願者。何度呼びかけても返事は無く、ただ絶望した。

 書き連ねられた叫び声を慈しむようにして、司書長は文字をなぞっていった。

「僕には、こうすることしかできませんから……」

 司書長の呟きは、虚しく羊皮紙へと消えていく。今日もまた、聞かれない叫び声が上がっては潰えた。

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