傷は舐め合うものじゃない
「なーんでアジサイは酔わないのォ? 僕はこんなに呑まれてんのにさァ」
「酒に強いからやで。あー、あんまり呑みすぎんなよ、俺が困るんやから」
居酒屋で酔い潰れるダリアを眺め、アジサイは額に手を当てた。えへへ、と笑うダリアには、アジサイの気苦労など、何一つ伝わっていない。
枝豆を慣れた手つきで延々と食べていくダリアと、まだ慣れていないゆえに顔を顰めて食べていくアジサイ。押し付けるダリア、嫌がるアジサイ。
噛み合ったような噛み合ってないような二人は、居酒屋の中では仲の良い親友らしく見えるのだった。
でもさァ、とダリアが枝豆を飲み込んで話しだす。アジサイは片眉を上げ、そちらへエメラルドの瞳を向けた。
「アジサイって、最近湿っぽいですよね」
「湿っぽい……?」
「んー……湿っぽい。サバサバしてない」
ダリアはそう言って枝豆の殻でアジサイを指す。彼は涼しい顔をしながら、何杯目かも分からないビールに口をつけた。
反応の無いアジサイに、ダリアはむくれて口をへの字にする。
「なにさー。なんか感想無いんですかァ?」
「……何が湿っぽいか分からへんから、何も言えへんよ」
「意外と優しいですよねー、アジサイは。最初はどんなサイコパスかと思ったんですけどー」
「俺はサイコパスの類とちゃうで、お前さんと一緒にしなさんな」
「だとしてもー。なんか、優しいアジサイって、不思議な感じします」
じとっとアジサイを見つめるダリアに、アジサイは小さく息を吐いて口へポテトチップスを放り込んだ。ザクザク、噛み砕くたびに、アジサイはもやもやとした感情を噛み砕く。
ダリアはアジサイを見上げる。彼の心を見抜くように。彼の心を探るように。
「アジサイ、優しいって言われるの、嫌いですか?」
「……嫌いやないで。せやけど、手緩くなったって言われんのは腑に落ちん」
「威厳を持って、手厳しくて、カッコいいのが好きなんですねェ」
「馴れ合うつもりが無いだけやさかい」
「あはっ、厨二臭い」
笑い飛ばすダリアと、口角を少しも動かさないアジサイ。取り繕った笑顔と、剥き出しになったポーカーフェイス。二人の間に、ぴんと張り詰めた糸が巡らされているようだった。
酔い潰れたダリアの方が、アジサイを試すように糸を張り巡らせている。引っかかっているのは涼しい顔をしたアジサイの方だ。
「でもまぁ、僕はそんなアジサイも嫌いじゃないですよ。嫌いじゃないだけで、あんまり好きじゃないですけど」
「お前さんこそ、最近は尖ってないんとちゃうか。ほんま、あの女神気取りに絆されてしもうて可哀想やわァ」
「……絆されてなんかないです」
「彼奴無しじゃ生きていけへんくせに。俺のことすら殺せへんかった。ほんま、牙の抜けた狐はただの犬っころやなァ?」
「お、調子出てきたじゃーん。その意気だよその意気!」
背中を叩かれ、アジサイは眉を寄せて前傾になる。へらへらと笑うダリアには、アジサイが手向けた刃の一つも刺さってはいないように見えた。
アジサイはなおいっそう機嫌の悪い顔でビールを煽る。いくら呑んでも、彼の顔色は変わらない。隣で酔い潰れたダリアとは大違いだ。
「真実を言うとるのは間違いないみたいやな、なァ?」
「まぁ、ねー。僕は確かに、センパイがいなきゃ生きてないかも。つまんなくて、生きるのに飽きてるかもねー」
「俺はそういう関わり方しとうないねん。なんつーか、不健全や、そういうのは。持ちつ持たれつの関係なんて、壊れたときを思うと惨めすぎる」
「へぇー? アジサイ、人に心開くの怖いタイプなんですね?」
アジサイの、グラスを握る手に力がこもる。ダリアはその微かな動作を見て、口角を吊り上げた。
「ふふ、アジサイったらたーんじゅーん! 嘘吐くの下手ですよね、アンタは」
「……ッ、俺は嘘が大ッ嫌いなだけや! 嘘も駆け引きも大嫌い。そういうまどろっこしいのは彼奴の専売特許やろ!」
「ふーん。センパイもそういうこと言いますよ。嘘は大嫌いだ、って」
「どの顔が抜かすねん、あんな虚勢と嘘ばっかな顔が──」
「自分は虚勢張るんですけどねー。そういうとこ、ホントセンパイにそっくり」
ダリアは得意げに笑い、アジサイの頬を摘んだ。アジサイは荒くその手を弾くと、舌打ちをして苦虫を噛み潰したような顔をする。
「彼奴みたいな湿っぽい人間にだけはなりとうない。お前さんのこともそんな人間やとは思うてへん」
「僕は結構さっぱりしてる方ですよ? 平気で人を裏切るし、平気で嘘を吐くし。不誠実で不真面目、それが僕ですし?」
「あぁ、それでえぇんや。どうせどいつもこいつもそんな本性を隠しとう阿保ばかりやさかい。お前さんみたいに馬鹿丸出しの方が付き合いやすい」
「阿保って、馬鹿って。罵られたらさすがの僕も怒りますよー?」
「変に期待させおってからに、豚が人間の皮被って出てくんなやって話や。お前みたいに獣は獣らしく振る舞っとればえぇねん!」
アジサイの声が徐々に力強くなる。言い切った余韻、ダリアが黒水晶の目でじっとアジサイを見つめている。アジサイはしばし振り下ろした拳を見つめていたが、手を優しく解くと、すまん、と弱々しく言った。
「……言いすぎたわ」
「アジサイ、やっぱり傷ついてる人なんだね」
「は? どこが傷ついとうねん──」
「僕には分かるから、恐れている人の目。センパイと同じ。アザミと同じ。鏡に映った僕と同じ。人と関わることを恐れる人間は、見ていて興奮する」
ちろりと舌を出して悪魔的に笑うダリアを見て、アジサイは目を逸らす。黒い双眼が蛇のように自分を睨んでいるのを拒むようにして身を離す。
されど、淡々と、沈着な声で続けるダリアは、逃げようとする足に絡みつくようにして話し始める。
「アジサイの湿っぽいところって、そーゆーところだよ。面倒臭いところってそーゆーところだよ。嫌われるのが怖いのに嫌われるように振る舞う。他人に近づかれたくないから。殺してほしいって頼んできたときもそうだった。それほどまでに僕を愛しているのに、お前はそんな僕をこうして避けている。近づきすぎたから怖くなった。共倒れになる関係が怖い。倒れるのは自分だけだから。やがて置いていかれるから。そうして相手を憎悪するようになるんだよね?」
畳み掛けるようなダリアの言葉に、アジサイは呆然として耳を傾けていた。否、耳が働いていただけかもしれない。その全てを聞き、飲み込めたわけではなかった。
ふう、と息を吐くと、ダリアは意味ありげに微笑んでみせた。愛想良い、バニラの甘い笑顔。そこに一点の悪意も無い。
「つまりアジサイはさ、裏切られるのが怖いから俺と距離をとってるんだよ、違う?」
「……そう……そうか……それで? それを明かして、何に──」
「そんなのもうセンパイで見たよー。『で、それを明かして何になるんです?』ってさー。
どうにもならないよ。僕にはその気持ちは分からないし。僕じゃァアジサイの言う心を許した仲になれるか分かんないし。それでも友達でいるのは駄目?」
上目遣いで見つめられ、アジサイは困った顔をする。答えは言葉にならず、形にならず、ただただ、霧となって心の中に溜まっているだけだ。
ダリアもダリアで、媚びるような目の奥に、何か燃えるような渇望があった──彼が言った嘘と、彼が張った虚勢の向こう、鋭く光る刃がアジサイに向けられている。
「……ごめん、無理」
「そっか」
「やっぱ俺、あかんと思うわ、こういう関係は。彼奴は、ヒナゲシはこういう関係が好きみたいやけど、俺は違う。すまん、もうお前さんと近くにいるのが、怖い」
閉店間近になって、客も店員も少なくなった居酒屋の隅、アジサイは震える声でそう言った。
ダリアはしばらく黙り込むと、再び笑顔に戻り、会計しよっか、と穏やかに話しかける。あぁ、と力無く答えると、アジサイは財布に手を伸ばした。その手を、ダリアが優しく止める。
「いーよいーよ、今日は僕のおごりー」
「そういうのやめてくれへん?」
「いーじゃん、最後なんだから」
アジサイが目を見開いて固まる。ダリアはへらへら愛想良く笑って、女性店員に花を咲かせたあと、アジサイと共に居酒屋を出る。それから少し歩いて、路地裏へ向かう。
誰もいないところで所定の動作をすることで、アネモネ図書館への入り口が開くのだ。
路地裏の突き当たりに立って、ダリアがくるりと振り返る。長いパーカーワンピースが揺らぎ、アルコールの匂いとシトラスの匂いがふわりと舞った。
「じゃーね。楽しかったよ、親友ごっこ」
ダリアの頬が緩む。扉は開き、アネモネ図書館の景色が見えた。その刹那、アジサイは全身を駆け巡る悪寒に襲われた。毛細血管の隅々まで凍ってしまうような衝撃に、彼の顔が真っ青になる。
アジサイは口を開いた。声を出そうとして、喉が凍り付いていた。代わりに腕を伸ばした。ダリアの細い腕を加減無く掴んだ彼は、ぎこちなくダリアの顔を見つめた。
虚を突かれたような顔をして、ダリアがアジサイを凝視する。その目に愛嬌の一つも無い。まっさらで空っぽだった。
アジサイの喉がかすかに震える。こぼれ落ちるようにして、拙く不格好な言葉が、はらはらと木の葉のように落ちていく。
「……いか……ない、で……」
言葉が地に落ち、カラン、とどこからか音がすると、アジサイは両目から涙を溢れさせた。彼らの前では、もうアネモネ図書館への扉が閉まっていた。
ダリアから手を離し、アジサイは目に手を強く当て、涙を押さえつける。それでも掌から伝った涙が、白いシャツを濡らしていく。それ以上の言葉は言葉にならず、ただただ呻き声へと収束していくのだった。
虚ろな目でアジサイを眺めていたダリアだったが、不意に下ろした手を奪い、アジサイの手を引く。無理やりに引っ張って、二人は歩いていく。
白い街灯が照らす黒いコンクリートジャングルに、人はいない。通る車もだんだんと少なくなっていく。人が眠りに就く最中、時間を忘れた二人の人でなしは、公園のベンチに並んで座った。
啜り泣きながら、アジサイが俯いている。ダリアは彼の方に温かい頭を乗せて、アジサイ、と彼の名を呼んだ。
「俺も、アジサイと友達でいたいよ。意地悪したわけじゃないよ、これは本当」
「俺は……ただ……また、指図して、拒絶されるのが、嫌で……ッ」
「上から目線で言われたらさすがに拒絶しないとは言えないよ。俺は気分屋だから」
「……ッ、れは、俺は、だから、お前らのことなんて信用してない! お前らもどうせ開き直って面倒臭い俺を嘲笑うんだ!
物語はいつか終わるッ! だったら、怖くなる前に壊した方が断然良いんだよ!」
アジサイはそう言って顔を手で覆った。寄りかかるダリアは、硬く閉ざされた彼の心の扉を想像した。もう片方の手を繋いで、自らの熱を分け与える。
「アジサイ。別に良いと思うよ、俺のことを百パーセント信用しなくたって。でも、俺のことを好いてくれてるなら逃げなくて良いんじゃないかな」
「……何度だって期待したさ、そのたびに裏切られてきた……だからもう、信じたくない……」
「アジサイは、どういうことをしたら俺を見損なうの?」
緩い砂糖水の声で話しかけながら、ダリアはアジサイの背中をさする。しゃくりあげながら、アジサイはダリアに体を寄せた。
「……向上心を、失ったら……自らの地位に、あぐらをかいたら、きっと俺は、お前のことが嫌いになる」
「あはは、アジサイはやっぱりストイックだよ」
「俺は……変わり続けるお前が見たい……俺が追いつけないくらいの速さで進化していくお前が見たい……そばにいてくれなくても良い、俺は……」
「俺はアジサイにそばにいてほしいよ? だってアジサイを失ったら、世界は美しく見えないもん」
「そんなの! ……そんなの、どうだって良い。俺なんていなくたって良い。そのせいでお前が落ちぶれるなら──」
「落ちぶれないよ」
ダリアはそう言ってアジサイの手を握った。アジサイがおそるおそるといった様子でダリアを見下ろす。
「何をもって落ちぶれると言うのかは知らないけど。俺のプライドは折り紙付きだよ。俺が駄目になりそうなら、お前がほっぺたはっ叩いてくれたらいいじゃん。友達だろ、俺たち?」
「……は? 友達、って──」
「本当の友達ってそういうもんじゃないの? ヤり合えないほど落ちぶれたらその尻を蹴っ飛ばしてやる。目を覚まさせてやる。俺がアジサイに求めてるのはそういうことだけど?」
アジサイは大きく目を見開いた。ぽろり、ぽろりと大粒の涙が頬を伝う。彼は唇をぱくぱくと動かし、ダリアを見下ろしていた。
ダリアは頭の後ろて腕を組み、背もたれに寄りかかる。だからさー、と明るい声で続ける。そんな彼の亜麻色の髪から、赤い耳が覗いていた。
「気分屋なのも駄目だと思うならハッキリ言いなよ。俺も、アジサイがそうやって人を怖がってるの、良くないと思ってるし。
……アジサイがいないと、虚しいよ。対等に立ってくれる仲間がいないのは、寂しい」
「……お前……それは、本音か?」
「アジサイは嘘が嫌いなんでしょう。だから本音で話してんの。俺の努力に感謝してほしいね」
「……俺は……俺は、ずっと……落ちぶれた仲間を叩いて、目を覚まさせようとして……そのたんびに、彼奴らは俺に文句を言って……だから、そんな人間関係、知らねぇよ……」
再び顔を覆って泣き出したアジサイの頭を、ダリアは優しく撫でる。飼っている兎にさえしないような、柔らかな手つきで。
「……ダリア、俺は、お前のこと、好きやよ……お前さんが思っとうより、ずっと……お前に期待して、お前を壊そうとしとうよ?」
「いーよいーよ、そんなの。俺だって、アジサイならきっとつまらない世界を壊してくれるって、期待してるから。
俺が熱を出したときみたいに、俺のことを奮い立たせて。クソつまんない人間にならないよう、俺を律して。今日はその貸しを返したってことにしてさ」
「……はは、ダリア……変わって、変わって、これからも俺のこと、退屈させんといてな……?」
返事の代わりに、ダリアはアジサイの肩を抱き寄せた。アジサイは望月を眺め、一雫の涙をこぼしたあと、袖口で拭い取り、ダリアに身を寄せた。
ずっと強張っていたアジサイの頬が、ゆっくりと緩んでいく。ダリアは満足げに微笑むと、帰ろっか、と楽しそうに声をかけたのだった。
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