第六章:追想を超えて
追想を超えて
「迷惑かけたな、ヒナゲシ」
部屋に置かれた自分の物を纏めると、アザミはヒナゲシのベッドに足を組んでそう言った。
まるで彼女のお付きのようになったヒナゲシは、ベッドの代わりに椅子に座り、良いんだよ、と優しい声をかけた。
「困ったときはお互い様、だろ?」
「まぁな。だが、借りを作ったことには変わり無い」
「居心地悪いか?」
「悪かァねぇよ。だが、返せる機会があるなら返したい」
真摯な顔つきで答えるアザミに、ヒナゲシはケラケラと笑い出した。それから、そう言うと思ったよ、としたり顔で続ける。アザミは彼の反応にきょとんとする。
二人分揃ったティーカップに紅茶を淹れて、ヒナゲシはその片方をアザミに差し出した──こちらには角砂糖五つが入っている。かつて、二人で襟を開いて話すときは、紅茶が切れるまで、という決まりごとがあったが、それを踏襲している。
「じゃあ、さっそく返してもらおうかな。僕に、あんたが起こした事件の真相を明かしてくれたら、手打ちにしてやるよ」
「……ははぁ、図ったな。だが、アンタには話しても良いかもしれないな」
アザミが愉快そうに喉を鳴らして嗤う。ヒナゲシはマナーモードにしたスマートフォンを机にうつ伏せにして置くと、足を組んで座り、アザミに視線で話を促した。聞く準備ができた彼に、話を始める合図であるかのように、アザミは苦々しく微笑んだ。
彼女は手始めに、自らのことを話した。彼女の本名は神崎美香。神楽坂薊というのは、彼女が作った偽名だと言う。零輪目の司書名はそこから来ている。
「それについては、細かいこたァ話さねェ。面倒だし、必要とされていないからな。だから、確かに鏡香を作ったのはこのボクとなるんだが……」
「あんたが彼女を殺したのか?」
「いや、厳密に言えばそうじゃない。難しい話になるんだが……」
思わせぶりな口調の端から本心を読み解く。二人は互いの意図を、糸を引くようにして導き出す。以心伝心、鏡写しの二人には、互いの言いたいことなど手に取るように理解できたものだ。
アザミは手を組むと、小さく息を吐き出し、世界線という概念について語り始めた。
アネモネ図書館には、様々な世界が本として記録され、保存されている。そこから他の世界へアクセスすることさえできる。全ての世界線の全ての人間を記録することは不可能に近いので、人間が記録された本に書かれる内容はごく一部にすぎないのだと言う。
「ダリアはアンタを殺した世界線からやってきた。アンタは自殺した世界線からやってきた。世界線の数は膨大だが、ここでは取り上げない。いずれにせよ、無数のアンタが存在するように、無数のボクが存在する。
ボクは、彼岸の魔女と名乗ったように、アンタらとは違う、人間性を超越していると思ってくれて良い。今後話す話は全て『魔法』でカタがつく」
「知ってるさ。そうでもなければ、僕をアネモネ図書館へ連れてくることなどできない」
「そのとおりだな。ボクは、他の世界の自分を把握することができる。だからこそ、他の世界のボクが犯した罪も知っている」
アザミはそう言って、気怠げに溜め息を吐いた。うんざりしたような、照れ臭いような、もどかしい顔をした。口を開いては、躊躇うように閉じて、目を伏せる。
ヒナゲシは、焦らなくて良い、と穏やかに言った。意を決したように首を振ると、アザミは再び口を開く。
「八神友梨という一人の女がいた。彼奴は、魔女としての名としては、アリス・デルヴィーニュという別名もあるのだが……彼奴と美香は、知り合いだった。きっと仲も良かったのだろう、かつては。しかし、互いの方向性の違いから、やがて争うようになった。
彼奴は、自らの子供や、美香の友人──鏡花のような存在だ、其奴らをぞんざいに扱う。それを愛とみなした。美香はそんな彼奴を、理解できなかったんだ。アンタなら分かるだろうか、自分が好きな人を苛めるのは良いのだが、誰かが自分の好きな人を虐めるのは耐え難い奴だったんだ、彼奴は」
「その人の箱庭に土足で踏み込んではいけない、良い教訓だな」
「まったくだ。彼女の下にある子供たちを哀れんだ馬鹿な魔女は、一つの解決策を考えた──あの女を、殺せば良い」
アザミの声が低く、冷ややかに喉を震わせる。ヒナゲシも微笑みを潜めて、無表情なままアザミを正視する。魔女の瞳は、まるで獲物を見定める蛇のようにぎらぎらと輝いていた。
牙を剥くようにして、彼女はあまりにも淡々と続ける。彼女が彼女自身を軽蔑するように、彼女自身を嘲笑するように。
「だから、あの馬鹿女は、魔女アリスを殺そうとした。しかしながら、勇敢にもお母様を守った子供がいたらしい」
「……それが、クロッカスさん?」
「そうだ。まぁ、その予想はすぐに外れることになる。なにせ、倒れた其奴は、死にたくない、どうして私がこんな目に、と泣いたらしいからな」
「魔女に操られていたと?」
「さぁ、その辺はボクも知らない。彼女たちがお母様を愛していたのか、愛していなかったのか、そればかりはあの世界の魔女も知らなかったことだ。今後知りたいとも思わない。
さて、彼女を殺せなかった哀れで無様な魔女がどうしているかは、ボクからは話さない。一つ言えるのは、彼奴の心は壊れ、もう手のつけようが無いってことだけだ」
そこまで話し終えると、アザミは組んだ足を戻し、ティーカップに口をつけた。甘ったるい液体を飲み下し、怠い息を吐き出す。
ヒナゲシは机に置いたスマートフォンに指を添わせ、口角を上げる。笑顔を見せる彼に、アザミは怪訝そうに眉を寄せた。
「今の話のどこが笑えるんだか」
「あんたのせいじゃないって分かったから、それで僕は充分だよ」
「はぁ。だいたい、他の世界のボクがそうするなら、ボクもそうするだろうよ。ボクはそれくらいお節介で自分勝手な偽善者だ。アンタを救ったのも、ダリアを救ったのも……クロッカスのことだって、彼女が攫った植物状態の体をどうしたものかと考えて、電脳体にしてしまった。
彼女を生き返らせることは、そう容易くなくて。説明が難しいんだが、たとえるなら、プログラムの管理者権限を持っていないんだ、ボクは。だから、コピーを作り、その管理者権限を自分にした、これで伝わるか?」
「分かるよ、原本は手が加えられないってことだな。何にせよ、別の方法で生き永らえさせようとしてるところがあんたらしいよ。僕を自殺で終わらせなかったあんたにしかできないことだ」
「誇らしいもんじゃないし、誉められたもんでもない──」
「誉めても貶してもない。あんたのやったことに、正しいも間違いも無い」
アザミの言葉を遮って、ヒナゲシがきっぱりと言い切る。アザミは目を見開き、口を閉じた。彼女がダリアに言われたことと、全く同じだった。
ヒナゲシはじっと彼女を見つめると、冷静に、かつ穏やかに、彼女に言葉をぶつける。客観的で、公平。淡白なグレーの声。その声が、アザミの緊張を解いていく。
「あんたがそれが良いと思ったから、そうしたんだろう。僕は事実それで救われた。そこに善悪なんて無い。あるのは慈悲と救済だけ……それが正しいか正しくないかなんて、その時々によって違うんだよ」
「……あぁ、どいつもこいつも同じことを言いやがる。ずっと、悪いことだと思っていた」
「そんなの、僕だって同じだ。他人を信用できなくて、それゆえに過保護になって。他人の仮面を剥がしては嫌われて。そんな自分は存在してはいけないものだと思っていた。
けれど、ここではそんな僕でさえ必要とされる。現に、あんただって僕を必要としてくれた。だから、誰かのために形を変えて必要とされるんじゃなくて、必要としてくれる誰かのためにだけ、そのままの自分を提供しようと思った」
「アンタが言うと真に迫るものがあるな。他人に迎合して自らの在り方を変えるのはやめようってことか。よく成長したもんだよ、アンタも」
アザミは再び花唇を描き、目を細めてヒナゲシを見つめた。心底嬉しそうな表情に、ヒナゲシも思わず笑みをこぼす。それから、スマートフォンを持ち上げて、画面をアザミに見せつける。
彼女の動きがぴたりと止まる。画面を見つめたまま、その口角がゆっくりと下がっていく。え、と呟いた声は、低いエッジがかかっていた。
画面に映っているのは、黒と白のツートーンカラーのショートカットに、きっちり着込んだ執事服。眼鏡の下から、黄色と紫色の目がアザミを見つめ返す。少女は感情の無いフラットな目でアザミを見つめ返していた。
「全て聞かせてもらいました、アザミ。どうして全てを話してくれなかったんですか」
「待て待て、そんなの聞いてない! ボクはヒナゲシにだけ話そうと──」
「真実を聞くべきは『ハルジオン』の方だった、違うか? だが、どうせあんたのことだ、面と向かって話せるわけが無い」
ヒナゲシの笑みは一点、白から黒へ、天使から悪魔へ。アザミの顔が真っ青になる。
ハルジオンはこほんと咳払いをすると、アザミ、と冷たい声で呼びかけた。アザミは何も言わずに、視線をヒナゲシからハルジオンへと戻す。
「初めまして、零輪目の司書・アザミ。私はハルジオン、三輪目の司書であり、司書の皆さんをサポートする電脳体です」
「……ハルジオン……アンタ、彼奴から名前を……」
「八神鏡花はもうこの世にいません。別の世界のあなたが殺したから。いるのは、この世界のあなたをマスターとする電脳体、神崎鏡香だけです。
ところで、どうして肝心なところを黙っていたんです? 自分を恨んでほしかったんですか?」
「……ッ、だって、どんな言い訳を言おうと、ボクは誤ってアンタを殺してしまった。救いになるかと思って、事実、アンタを望まない形で転生させてしまった……」
ハルジオンは冷淡に責め立てる。ヒナゲシと話していたときとは違い、アザミは複雑そうな顔をして目を背けている。
画面の中の電脳少女はわざとらしく溜め息を吐くと、腕を組み、こっちを見なさい、と呆れた声で言うのだった。
「私は、あなたに与えられた自我で生きたくなかっただけ。だから、自分を葬ったんです。今は、望む形で転生しています。過去の話を掘り返さないでください、ここはアネモネ図書館、過去を忘却するための場所でしょう?」
「しかし……アンタは、それで良いのか? 責めるべき人を責めなくて、どうして──」
「責め続けることは、かえって過去に固執することになります。責め続ける限り、私はハルジオンにはなれない。今の私自身でいられない。だから、責めないことにしたんです。なので、余計なお世話です」
さっぱりとした口調に、痛快ですね、とヒナゲシが呟く。アザミは頭を垂れてハルジオンを見つめると、分かったよ、と諦めたように呟いた。
ハルジオンは、結構です、と言ってから、ヒナゲシの名前を呼ぶ。ヒナゲシは画面を自分の方に向けて、ハルジオンを見下ろした。
「ご協力に感謝します。それにしても、本当に話してくれるなんて、あなたの言うとおりでしたね」
「言ったじゃありませんか、アザミは絶対に借りを作らないって。彼女は真面目な人なんです、傲慢に見えて」
「……『ハルジオン』。ボクは、アンタが責めない限りは、きっと傲慢なままだぞ」
「何言ってるんです、罪があろうと無かろうと、傲慢なのは良くないことですから、直してください。自分の非を、過去の罪に依拠しないでください。そうしたら、私は神楽坂薊と、改めて向き合うことができるようになりますから」
アザミは自分の胸に手を当てて俯く。過去を責めないことで、初めて今の相手や自分と向き合うことができる──その言葉は、仄暗い過去を持つアネモネ図書館の司書たちにとって、相応の価値のある言葉だった。
過去の罪に打ちひしがれ、今の結果を過去ゆえとして、そればかり考えているのは、今と向き合っていない証拠だ。過去なんて関係無いと言い切ってしまうのが、アネモネ図書館のポリシーである。過去とのしがらみを断ち切れない人々に救済を与えることこそ、アネモネ図書館の本質である。
アネモネ図書館長たるアザミは、彼女の発言から、そんなメッセージを受け取った。
「……分かった。なら、こう言うのは許されるだろうか、これからよろしくお願いします、と」
「あなたは誰に対してもそんなに謙っているんですか? 私の顔色を伺うのは止してください」
「これからもアネモネ図書館の運営をよろしく頼む、ハルジオン。これで良いか?」
「マスターの仰せのままに。ヒナゲシ司書長も、これからよろしくお願いします。それと、私も借りを作るのは嫌いなので、いずれ返しましょう」
「はい、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ、失礼します、と言ってハルジオンが画面の光を落とす。次にボタンを押したときには、もうヒナゲシの端末には彼女の姿は無かった。
アザミが肩を落とし、崩れ落ちるようにしてベッドに横になる。ヒナゲシは立ち上がって、その横に座り、アザミの頭を撫でた。
「怖かった?」
「怖かった……」
「だが、これでまた先へと進めるな、アザミ」
「……そうだと良いな」
今日の夜で、アザミとヒナゲシのルームシェアは終わる。アザミは自分の書斎と部屋を持つようになり、ヒナゲシは再びキキョウと同室になる。落ちてきた流れ星を掴んで、魔女となった一人の少女と暮らし始めて、数ヶ月が経った。
凍った罪の意識の扉を溶かすように、二人は紅茶を飲み交わす。温い液体がゆっくりと氷を溶かしていく。雪解け水は、ハルジオンを再び咲かせる。かつて殺されたハルジオンは、再び追想の愛に咲いた。ヒナゲシとアザミもまた、蕾のまま過去に置き去りにされた花を咲かせるために、二人で歩き出すのだった。
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