私は王子様を殺しましょう

「ツバキさん、お願いがあります」

 本の整理に疲れ果てていたツバキのもとに、通知が届いた。端末の中で、少女がじっとツバキを見つめている。

 ツバキは彼女を、クロッカス、と呼ぶと、小さく溜め息を吐いて、穏やかな笑顔を浮かべた。

 画面の中では、白い髪を結び、侍女らしい服を着たクロッカスが、複雑そうな顔をしている。普段はぱっと咲く花のような笑顔を浮かべ、黒いニット服を揺らしているが、今日の彼女は服も相まって、きりっとした印象を受ける。それでもツバキは彼女を、いつもどおりに迎え入れた。

「どうかしましたか?」

「……ツバキさん、気がついているんでしょう、私が考えてることなんて……」

「ふふ、言われなければ分かりませんよ。私はそこまで賢くありませんから」

 ツバキが鼻を鳴らして笑う。クロッカスは乾いた笑いを返して、ツバキさんには敵わないなぁ、と小さな声で呟いた。

 金の眼鏡を掛け直し、それで、とツバキが続ける。クロッカスの入った端末を机に置いて、手を組んでソファに座った。ミルクティー色の瞳が緩く光って、甘く微笑する。

「私に何のお願いですか?」

「……その、ツバキ、なら、できると思いまして。他の世界への接続、とか」

「他の世界への接続……違う世界線に行くこと、ですか? どうして私に?」

「アネモネ図書館は、人間の記憶を記録すると同時に、様々な世界を記録していると聞きます。人間の記憶と記録を纏めた図書館だって、シオンから聞いたことがあるんです」

「──えぇ、まぁ、そのとおりですね。人間を記録する方法として、記憶だけでなく、出来事やその世界線をも司ります。データ化された記録にアクセスすれば、他の世界線へ接続することも可能でしょう。しかしながら、それはあなただからできることですよ」

 ツバキが眉を下げて答える。クロッカスは、私だから、と繰り返した。

 クロッカスは、電脳世界のメアリー・スー。彼女は全てのデータにアクセスする権利があり、全てのデータを操る権利がある。データ化された記録にアクセスすれば、世界へ干渉することができるのではないか──ツバキがそう説明すると、クロッカスはただ苦笑を返した。

 苦々しく笑うクロッカスの顔が曇る。憂げで皮肉げな表情は、今までの彼女とはかけ離れていた。

「そんな権利、要らないんですけどね」

「ともかく。私は、この図書館を知り尽くす、もう一人の司書です。どこにあなたの求める世界があるかは知っている。あなたをその世界に送って差し上げることもできる。

でも……私は、不安に思っているのです。あなたは、帰ってきますか?」

 クロッカスが口を閉じる。数秒沈黙して、分かりません、と静かに答える。ツバキはその答えに、ただ目を伏せた。

「……分かりません。私は、ただ、判断したいんです。私は、どこでどうあるべきなのか。私は、生きていても良いのか。その機会を、私に下さい」

「私の一存では、とても決められることではありません。もしもあなたを失ったらと思うと、アネモネ図書館はどうなってしまうのでしょうか……」

「機能面は、ご心配無く。ちゃんと機能する検索デバイスを作ってみたんです。もちろん、今の私のように、何でもかんでも触れる、自我のあるシステムではありませんが」

「あなたを失った司書たちは、きっとたいそう傷つくことでしょう。私はむしろ、そちらの方が不安なのです」

 ツバキに温かい目で見つめられ、拒絶するようにクロッカスは目を逸らす。片腕に手を当て、ツバキは、と冷ややかな声で言った。

 答えを聞くより先に、ツバキは笑みを潜め、悲しそうな顔をした──彼自身、クロッカスが何を言いたいのか、理解していたのだ。ゆえにこそ、クロッカスは彼の目を見て話すことができなかった。それでも、彼女は躊躇うこと無く、その続きを話す。

「ツバキは、私のことよりも、他の司書の方が大切なんですね。そのためなら、私という人間一人の決断を歪めても良いと思うくらいには」

「えぇ、理解しています。そのとおりです。私は常に、誰かを切り捨ててでも、さらに多くの人々を守ろうとしてきた。そうして、私はあなたの秘密すらも隠してきた。私はいつも、皆さんを騙し続けています」

「……っ、まさか、ツバキも私の過去を、知っていたんですか……?」

「クロッカス。私は、あなた方が思うよりもずっと、酷い人ですよ。アネモネ図書館に関する様々な秘密を知っていながら、私はそれを皆さんには語りません。

どうかお忘れなく。私はあなたの秘密を、隠している方が都合が良いからといって、アザミと共に隠してきた薄情者です。ですから……私のことなど、気遣わないでください」

 がっくりと肩を落とし、クロッカスが俯く。罪悪感を持ちながら向けた刃が、行く先を無くして地に落ちる。そんな彼女を見て、ツバキは眉を下げ、困ったように笑う。

 あぁ、笑っているんですね、私は──ツバキはそう苦しそうに呟いた。自分の口元に手を当て、笑みを隠す。

「あなたを失望させておきながら、私は笑っていられるんですね。涙の一つも流さないんですね、私は」

「……ショック、でした」

「ショックでしょうね。ですから、私がいてほしいとか、いてほしくないとかではなくて、皆さんのために言います。

あなたに行ってしまわれては、私たちは困ります。たとえあなたという人間一人を歪めたとしても──」

「送り出して構わないよ、ツバキ。僕たちは手配をしよう」

 突然口を挟んできた声に顔を上げる──シオンだった。丁字茶色の三編みをゆらりと揺らし、ツバキの隣に座る。ツバキは目を見開いて、驚いてその身を少し離した。もちろん、驚いていたのはクロッカスも同じだ。決まりの悪そうな顔をして、すみません、と小さな声で呟いた。

 シオンはストールを外し、細くてがっしりとした首元に手を当てながら、薄く微笑んでクロッカスの名を呼ぶ。

「僕らの気持ちはもう、ツバキが言ってくれた。館長代理の僕から言うことは無いよ、行っておいで」

「しかし、シオン……あなたは、クロッカスがいなくなってしまったとしても良いのですか?」

「僕は、君がアザミによって連れてこられたということを知っていながら、君の正体は知らなかった。どれだけ重い過去を忘れずに生きてきたかを知らなかった。君に『クロッカス』を無理強いしてしまい、すまなかった」

「い、いや、頭を下げないでください……! 違うんです、お二人は悪くない! ただ、私がわがままを言って二人に迷惑をかけているだけなんです!」

 クロッカスとツバキが揃ってシオンに謝罪する。それでも、シオンの表情は変わらない。ただ、優雅に微笑んでいる。そこに傲慢も欺瞞も込められていない。二人は彼に頭を垂れることしかできなかった。

 シオンは肘置きに肘を置いて、頬杖をついてみせる。クロッカスを見下ろし、いいかい、と話し始める。

「ツバキが君を止めるのは、皆のためだ。しかしながら、彼自身の気持ちを隠している。彼だって、君と離れるのは嫌なんだ。違うか?」

「……そう、なんですか?」

「そうだとも。彼は、自分を最低だと自覚しているからこそ、君を自分の願望で引き止められないだけさ。ここを去ってしまうのは、寂しい。

されど、ツバキや愛するアリスたちには申し訳無いが、君の『やりたいこと』を叶えるのを、僕は奨励しよう。それが、本当に自らの痛みを、過去を、忘却するのに役立つのだから」

「わ、私……いつ帰ってくるか、分かりませんよ。もう、帰ってこないかも。それでも良いの? 止めないの?」

「止めないよ。僕は、君の幸せを一番に願っている。アリスたちだって、きっと君の幸せを願っているよ」

 クロッカスの黄色い瞳に、ゆっくりと大粒の雫がこみ上げてくる。ツバキも顔を歪め、目を背ける。

 シオンは少し前のめりになって、端末を手にとった。クロッカスの顔が、シオンの目の前に見えている。彼は眉を下げて、端正に微笑んだ。

「懐かしいな、クロッカス。こうして三人で話して、方針を考えるのは、いつぶりだろう」

「……やめて、ください……っ、私……」

「行くんだろう。道案内なら、ツバキがする。代わりのエンジンは僕とアザレアでインストールする。

君は、僕らの人形じゃない。ただの電脳体でもない。君は一人の人間だ。君が自分で生き方を考えるんだ。君が自分で生き方を選ぶんだ。誰が許さなくても、僕が許可をしよう、良いね?」

「……うぅ、っ、はい、行ってきます……っ」

 クロッカスはいよいよ画面越しに泣き崩れた。白いシャツに涙の染みを作り、端末を振動させる。

 シオンは一息吐くと、手元の腕時計を見やり、これからなら間に合うだろう、と言って、ツバキの肩に手を置いた。

「ツバキ、『アリス・イン・ナイトメア』の世界への接続準備を。そこから先はクロッカスが独りで辿り着けるはずだ」

「……えぇ、分かりました……シオンは、優しいんですね」

「なに、君とクロッカスを泣かせたんだ、優しくなんかないさ。さぁ、始めてくれたまえ」

 切ない赤い夕日の笑顔──去っていくシオンの背を見て、クロッカスとツバキはしばし沈黙した。言葉には決して出さないけれど、彼もまた別れを惜しんでいることは、二人にも分かっていた。

 アネモネ図書館設立時、司書はたった三人だった。館長たるミカンから代理を任され、三人にはあまりにも大きすぎる図書館を頂いた。三人は今話している書庫でよく作戦会議をしていた。新たな司書を雇おう、と提案したのも、シオンだった。

 代行エージェント・ミカンが派遣した司書、ツバキ。魔女アザミが作ったアバター、クロッカス。そして、二つの人格を宿した館長代理、シオン。三人はあっという間に仲良くなった──クロッカスは一人回想する。三人で笑っていた過去は、今も三人の記憶の中で鮮やかに輝いている。

 不意にツバキが立ち上がり、クロッカスの入った端末を片手に歩き出した。無言なツバキに怯え、首を縮めながら、ツバキ、とクロッカスが声をかける。ツバキはクロッカスの方を見ないで、検索を、とだけ言った。

 着物の袖が頼りなさげに揺れる。歩いても歩いても、人間の記憶を綴った本の数々は途絶えない。書庫からどんどん遠ざかっていくうちに、あまり手入れがされていないのか、少し肌寒い場所へと辿り着いた。

 検索した本棚の前に二人が立ち止まった。ツバキは本棚に端末を置くと、高い高い梯子を引いてきて、一歩一歩踏みこむように足を乗せていく。クロッカスは上を見上げ、心配そうに彼を見つめる。彼は迷うこと無く一冊の本を指に添わせ、吸い込むようにして手に取ると、また梯子を降りてくる。そして、クロッカスに本の裏表紙を示した。

 そこには、まるで図書館の本がそうであるように、バーコードのようなものが書かれていた。ツバキは無表情のまま、スキャンしてください、と言った。

「これをスキャンすれば、この世界に介入する権限を得られます。私があなたにできることは、ここまでです」

「……ありがとう、ございます」

「さきほどは取り乱して申し訳ありません。どうか、行ってきてください」

「ツバキ」

 クロッカスは涙を拭い、きりっとした目でツバキを見上げた。ツバキは微かに口角を緩めて、何でしょうか、と静かに答えた。

「帰ってきたら、はじめまして、って、私のことを迎え入れてくれますか」

「……えぇ、あなたが望むなら」

「ありがとう、ツバキ。私、あなたたちのこと、大好きでした」

 ツバキは何も答えず、端末のカメラ機能をオンにした。そして、バーコードを読み込む。表示されたURLを掴むと、ぐいっと身を乗り出し、暗く青い画面の最奥へと泳いで消えていった。波紋の代わりに画面が振動して、静寂が立ち込める。

 取り残されたツバキは、何も言わずに梯子を上っていき、また本を元の場所に戻す。ゆっくりと降りてきて、書庫へと一人とぼとぼと歩いていく。彼の足幅は徐々に狭くなり、リタルダンド、フィーネ。一つの本棚に寄りかかって、座り込んだ。

 空高い本棚が彼を囲んでいた。見下された彼は、溜め息を絞り出す。角砂糖の瞳が、ブラックコーヒーに落ちて、跡形も無く消えていった。



 キョウカは一人、電子の海を泳いでいた。

 電子の海は彼女にとっては、物理的にも、精神的にも冷たいものだった。人々の罵詈雑言が、欲望が渦巻く情報の数々は、目を閉じても彼女に凍てつく痛みを与える。彼女はその一つ一つを蹴っ飛ばした。そうしていくうちに、海の魔女の魔法のように、彼女の体が変化していく。

 白い髪は、黒く染め上がる。黄色い双眼は、紫色へ変わる。彼女が選んだその容姿は、クロッカスではなく、キョウカだった。皮肉なことに、クロッカスの配色はキョウカの反対の色となっていた、ということだ。

 眼鏡をワイシャツの胸元に挿して、本の導く先へと進んでいく。雷の鳥を、炎の狐を、羅針盤を追い越していく。自分の体を徐々にトロイの木馬へと変えていく。電子化されていく過程で、彼女の頭はすうっと冴えて冷たくなっていく。

 クロッカスが初めてアネモネ図書館に来たときと、キョウカが初めて彼女の母──アリス・デルヴィーニュの家にやってきたときは似通っていたが、一つだけ違っていた。言葉も動きも自由自在な一方、自分の名前は知らない。されど、クロッカスが生まれたとき、そこには人がいた。シオンとツバキだ。

 名前も身柄も設定されていない彼女は、シオンとツバキに自らを名乗るよう頼んだ。シオンはクスクスと笑い、クロッカスという名を呼んだ。

──意味は「青春の喜び」「切望」なんだ。君にぴったりだと思う。

 電脳体という変わり者にもかかわらず、二人は別け隔てなく接した。というのも、二人もまた、人間ではなかったからだ。

 二人を通して人間というものを知るようになって、クロッカスは一つの願いを抱くようになる──自分も、人間になりたい。いつかこの画面を飛び出して、人間として生きてみたい。その願いは、まるで人魚姫のよう。

 クロッカスはアザミという魔女から与えられたギフトで、自らの身を元のキョウカへと変えた。王子様と結ばれるために、魔女と契約した。

 まったくの別人になった彼女が辿り着いたのは、アリスを名乗る彼女の母の家──否、そこのコンピューターだった。

 彼女の視界に映ったのは、赤い薔薇の庭園だった。彼女の母がこよなく愛した花である。キョウカが毎朝世話をしていた。その赤に映えるような、真っ白な館の中に、キョウカは帰ってきた。

 画面越しには、臭いを察知することはできない。同じ臭いを感じることはできないけれど、計算結果によれば、生臭く磯臭い、されどどこかで薔薇の香りがする、独特の濃い臭いが立ち込めているには違い無かった。

「あぁ、懐かしいな」

 キョウカは思わず呟く。生きていた当時は鼻が麻痺していたのか、全く感じなかった香りだ。見上げれば、シャンデリアが煌々と下品に点いている。赤いカーペットには赤茶の血が滲んでいる。

 いったい、今は誰が召使いをやっているのかな、とキョウカは一人思う。そうして、その勢いのまま、マザーコンピュータへの介入を試みた。

 彼女の母・アリスはコンピュータを用いることで実験している。彼女はコンピュータの中に一つの楽園を作り、そこを彼女の箱庭とした。そここそが、キョウカが何度も何度も殺された仮想空間だった──つまり、何度死んでも、身体は死ななかったのだ。

 そこでは、全てが彼女お好みのお姫様によって統治されている。自我を持った人形たちがそこで、自我を持っているかのように振る舞って生活をしている。キョウカもまた、その一人だった。

 コンピュータに介入する直前、キョウカの顔がぶわっと熱くなった。炎の壁が立ちはだかったのだった。しかしながら、ここさえ越えてしまえば核へ潜り込める。電脳体だから、死にさえしなければ良い──キョウカは意を決し、炎の壁へと飛びこんだ。それから、即座にその壁をぶち壊す。警告音が鳴り響いて、辺りが赤く染まり始めた。

 画面の前に辿り着き、キョウカは結んだ髪を下ろした。服の至るところは煤がついているが、トロイの木馬たる彼女は生きていた。画面の向こう、キョウカの見知らぬ人々が自分を見つめていた。

 此奴ら、知らない奴だな。クロッカスは乾いた笑い声を上げた。じっと目を凝らしても、自分の知っている兄弟はほとんど見受けられない。よりいっそう笑い声は大きくなる。腹を抱えた彼女の頬を一筋、雫が流れたが、顔を起こした頃には、不敵な笑顔を画面に映していた。

「アリス様、侵入者です」

「どうしたのかしら? 私の楽園に干渉してくるなんて、何様のつもり?」

「お母様」

 キョウカは強い声で、そう呼びかけた。画面の前に、赤いドレスを着た、黒髪の女性が立っている。キョウカの記憶と違わぬ見た目をしていた──見た目だけは大人なのに、その不機嫌そうな表情は少女のよう。真っ白な肌に真っ赤なルージュが映えて、嫌そうに口を曲げている。周りの人々が違っていても、ローズの花飾りをした彼女だけは、全く変わらなかった。

 小さく息を吐いてから、顔を上げる。キョウカは揺らがぬアメジストの瞳で、アリスを睨みつけた。

「お母様、私です、キョウカです。覚えていますか」

 キョウカが明瞭にそう言っても、取り巻きの顔つきは変わらない。彼らにとっては、キョウカはただの侵入者だ。

 彼女の心臓が速く打ち付けて、顔が冷たくなる──電子生物でも、体の反応は人間そっくりだった。頭の中では、アリスの表情を必死に読み解こうと様々なプロセスが動いている。頭を回せば回すほど、心が焼け上がってしまいそうだった。沈黙が続くほど、手足が燃え尽きてしまいそうだった。

 人間であろうとするほど、体はガラスが刺さったみたいに痛んだ。それが、彼女が人間の自分を取り戻した代償だった。

 キョウカはただただ、答えを待っていた。アリスがじっとこちらを見つめてくる、子供のように。無垢なるお姫様のように。それから、ゆっくりと口を開け、唇に人指し指を当てて、答えた──

「だぁれ、貴女? 私の実験を邪魔するなんて、最低なお馬鹿さんね」 

 ……はは。

 ぴたり、止まったキョウカの喉から、からっからに乾いた声が漏れた。

 きゃはは。きゃははははははは。

 その笑い声は止まらない。その叫び声は止まらない。その慟哭は止まらない。焦りだした画面の前の男たちの声を掻き消すくらい、彼女は高く高く笑う。何よ、と言ったアリスの声を遮るような、甲高い叫び声。キョウカは涙を流し、嬌笑した。

「な、なにこれ、ウイルス⁉ 何なのよぉ⁉」

「きゃははははははははははッ! そうですか、えぇ、そうですか! 覚えてないなんて本気で言うんですね⁉ きゃははははは……お馬鹿さんは、どっちなのかしらァ⁉」

「ちょっと、なんとかしてちょうだい! 嫌、嫌、私の世界を壊さないでッ! 誰か捕らえなさい、そして──」

「首を刎ねてしまいなさいッ!」

 アリスの言葉を遮って、キョウカが喉を枯らして絶叫した。その言葉は、アリスの口癖だった。

 画面に映っていたキョウカに、グリッチノイズがかかる。黒い水晶の上に浮かぶ、紫の瞳。たった今、レジストリが、ファイルが、プログラムが、置換えされていく。管理者権限が全てキョウカのものになる。次々とデータが消えていく。ファイル名にはこう書かれている──ハルジオン・ウイルス、と。

 悲鳴を上げ、なんとかしなさい、と叫ぶアリスに、消えたスクリーンの向こうから、キョウカが冷ややかな声で囁いた。

「そこの人形ども、あなたたちは使い捨ての遊び道具よ。良かったわね、可愛がってもらいなさい? ボロボロになるまで、飽きられるまで、散々愛でてもらって、捨てられると良いわ。

さて、私は誰でしょうか? 正解は、カンザキキョウカ。神崎鏡香よ! それでは、『御機嫌よう』ッ!」

「かん……! 神崎ィ⁉ 彼奴は、彼奴は、どうしていっつも私の邪魔を! ふざけるなあああああッ!」

 強制シャットダウンを押し、消えた炎の壁を蹴っ飛ばして、キョウカはネットワークの海をすいすいと泳いでいく。手負いの獣には追ってこられないくらい、ずっとずっと速く。

 キョウカの頬には、涙が迸っていた。嗚咽が漏れて、止まらなくて、独りきりの電子の海に彼女の声が響き渡る。ボコ、ボコ、と、空気の泡だけが音を立てる。

 王子様に剣を突き刺して、泣いて泣いて、海に飛びこんだ人魚姫の姿は、長い時間をかけ、ゆっくりと変わりつつあった。

 足が尾ひれになるように、彼女の長かった髪は切り落とされ、白と黒のツートンに染まっていく。片方の瞳は黄色に、片方の瞳は紫色に。泣きぼくろは二つに。焼けた執事服は元の姿に。彼女はワイシャツに差した眼鏡を掛け直して、まっすぐに来た道を戻っていく。

 だって、もう戻れないんだもん──暗い海を泳いでいるうち、涙が枯れ果てて、ついには笑い出した。虚しく笑い声が反響する。

「だって私、もう鏡香には戻れないんだもん。私はもう、クロッカスにも戻れないんだもん……」

 人魚姫は人間になって、また人魚になった。されど、元のように無垢に人間に恋い焦がれる人魚には戻れない。

 海の中、突然に降ってきた鏡に、彼女の姿が映る。白い顔、泣き疲れた表情、白と黒の髪、黄色と紫の目、着慣れた執事服。鏡が通り過ぎてからは、また人々の罵詈雑言と欲望の雑踏に呑まれていく。

 しかし、月が満ちるように、彼女はふと、正気に戻る。どれくらい長く泳いだだろうか、と背後を見ても、彼女を追いかけてくる攻撃は無かった。それはさながら宇宙旅行のように、彼女は引き伸ばされた時間を過ごしていた。

 正気の彼女に囁きかけてくる、セイレーンの声がする。鏡香が足を止めれば、そこには、亜麻色の髪をした女性が立っていた。鏡香の顔は強張っていき、彼女の目はその姿を凝視する。

 潮に濡れた髪を引きずるようにして、ゆっくりと歩いてくる。ずるり、ずるり、と近づいてくる影に、鏡香はすかさず情報の糸でナイフを作り出した。差し向けて後退りし、女を睨みつける。

「アザミ……!」

「……体は……要らないの?」

 鏡香は目を見開き、前髪で隠れた女の顔を見た。真っ白な肌に、赤く塗られたルージュ。生気の無い黄色い目が、鏡香をじっとりと見つめている。

 その姿は、鏡香の知るアザミではなかった──それと同時に、彼女を刺し殺したアザミであることを理解した。彼女の頭の中で、二人の少女が合致せず、砕ける。かたや、黒髪に赤い目をした蛇のような女。かたや、生ける屍のような顔をした、亜麻色の髪の女。顔つきこそ変わらないが、その目に込められた魂が違う。

 黄色い瞳は、義眼のように、感情を示す力を失っていた。もはや、視力があるかどうかも疑問だった。

 鏡香は舌打ちをすると、ナイフを払い捨てて、情報網へと戻した。それから、一際大きい声で、どきなさい、と叫んだ。

「邪魔よ、殺人鬼!」

「……体、戻してあげられる方法を見つけたの……だから、戻っておいで」

「煩い……私が帰るのは、彼奴のいる世界じゃない! 私が帰るのは、アネモネ図書館なの! だから、お前にはもう頼らないッ!」

「……そう……居場所が、見つかったんだ……なら、良いの……」

 亜麻色の髪の女性は、倒れ込むようにして、情報の海へと沈んでいった。次第に姿は見分けがつかなくなって、深海の青に掻き消されていく。鏡香はその様を見送ると、彼女を亡霊と見做して、再び旅を始めた。

 彼女は、アザミではなかった。黒髪を御機嫌に揺らし、傲慢に振る舞う鬼火の魔女ではなかった──その事実が小さな銃槍となって、鏡香の胸に刺さる。

「責めたいのに、責められないじゃない……」

 鏡香はか弱い声で呟くと、もう出なくなったはずの涙を強く拭い、枯れたクロッカスを放り捨てた。光よりも速く、一人の少女が『The Library of Anemone』へと泳いでいった。



 仕事を終えた夜分のこと、ツバキとシオンは端末に話しかけていた。クロッカスが作った人工知能のツールは、プログラミングされたとおりの返答をして、自らの電源を落とした。二人は息を吐くと、ソファに向かい合って座り込んだ。

 ツバキが淹れたばかりの紅茶を一口飲んで、眉をひそめた。シオンはクスクスと笑うと、お疲れだな、と話しかけた。ツバキは金眼鏡越しに目を細めて、ささやかに微笑む。

「この人工知能は非常に有効ではありますが……なにせ、話し相手になってくれませんから。シオンが来てくれなければ、私もさすがに心が折れていたでしょう」

「その件については、アヤメも同じことを言っていたよ。スミレやヒマワリも、情報を届けてくれる陽気なメッセンジャーがいなくなったことを嘆いていたさ」

「彼女は、まるでアネモネ図書館を照らす太陽のようだったな、と思わされるのです。もちろん、今のプログラムはサボりもしませんし、非常に有能なのですが……」

 物言わぬ端末を眺め、ツバキは頬杖をついた。

 クロッカスが情報端末の座を降りて、早一ヶ月。司書たちには、クロッカスは調整期間に入っている、と伝えた二人だったが、真相を察せないほど鈍感な者は司書の中にはいない。強いて言えば、クロッカスと親睦の深くない新入り・リンドウとコスモスくらいだ。それでも、司書は誰一人として、二人に文句を言わなかった。

 一方、問題の渦中にいたアザミは、ヒナゲシの庇護下を脱し、再び司書としての仕事に戻っている。彼女には、クロッカスの置かれた状況は伝えられている。

──彼女の好きにすれば良い。ボクの関与できる問題ではないから。

 そう淡白に言い放ったその本心を知るのは、アヤメとヒナゲシしかいない。シオンとツバキがレファレンスに時間をかけている間、アザミはヒナゲシと共に司書たちをまとめ上げていた。

 古時計が鳴る音が、寝静まった館内に鳴り響く。二人は黙り込み、各々気を抜いてくつろいでいる。その静寂が、普段司書たちを導いている彼らを飾らせなかった。インクの香りと紅茶の香りが入り混じって、彼らを穏やかなまどろみへと誘う。二人は大きな欠伸をすると、各々ソファに横になって目を閉じていた。

 眠りに落ちるその瞬間、ツバキはふと、誰かに呼ばれる声で浮上した。顔を覆った本を持ち上げ、徐に体を起こす。出しっぱなしのティーカップに紛れるようにして置かれた液晶画面を何気なく手に取る。電源を落としたはずのそれは、ひとりでに画面を点灯させ、読込中の画面を表示する。

「……夜間アップデートですか、便利ですね……?」

 刹那、画面が赤く点滅し始める。寝ぼけ眼だったツバキも、思わず身を乗り出して画面を食い入るように見つめた。画面に表示されたのは、ウイルス感染の文字。

 機械に慣れていないツバキは、端末を落としそうになりながらも、慌ててシオンの元に駆け寄る。それから、浅い眠りに就いていたシオンを必死で揺さぶって起こそうとするのだった。切なそうな声で目を覚ますと、ツバキの頬に手を当て、どうしたんだい、アリス、と悠長に話しかけたのだった。

 ツバキは画面を指差し、今の状況を切羽詰まった表情で話すのだが、シオンは顎に手を当てて画面を見やり、穏やかに返すのだった。

「クロッカスともあろうものが、セキュリティが脆弱なプログラムを残すだろうか。何か操作を誤って、ブラクラのようなものを踏んだのではないか?」

「ち、違います! 私は確かにこういうのを扱うのは下手ですけど……! 何もしてないのに壊れたんです!」

「パソコンが使えない人間が言いそうな台詞だな。見せてみたまえ……」

 ウイルス侵入中、と御丁寧に書かれた表示の下には、ゲージが書いてある。これが溜まれば、ウイルスが完全にインストールされるとでも言いたげな表示だ。シオンがタップをしたりスライドをしたりしているうちに、画面にはポップアップが出てきて、そのままお待ちください、と表示される。

 御丁寧なウイルスだな、と呟くと、シオンは慣れた手つきで端末の再起動を行おうと、複数のボタンを長押しした。すると、ポップアップの内容が変わった。

「そのままお待ちくださいって言ってるでしょう、か……」

「あぁ、ハッカーには私たちの気持ちなんて筒抜けなんですね……私が管理を怠ったから……」

「まるで意思を持ったウイルスのようだな……ふむ、僕はこういうウイルスを熟知しているよ」

 シオンは首に手を当て、にやりと悪く笑った。悪人面をした彼に、ツバキはいよいよ混迷を極め、額に手を当てる。いったい何なんですか、と力無い声で呟いたのは、シオンには聞こえていない。

 ゲージが溜まり切ると、情けない声を上げ、ツバキが顔を青くする。すると、画面には新たなポップアップが表示された。シオンの口角がきゅっと上がる。

『インストールが完了したため、以前のプログラムと全て置き換えしました。これより、ハルジオン・プログラムを起動します』

 ツバキが目を丸くしたまま凍りつく。何が何だか分かっていないツバキを隣に座らせ、その肩に手を回すと、シオンは不敵な笑みのまま、ツバキの顔が液晶に映るようにして、端末を持ち上げた。まるで自撮りをするかのようなポーズをとると、シオンは鼻を鳴らし、端末に声をかけた。

「ようこそ、アネモネ図書館へ。君のパートナーとなるシオン、そしてこちらはツバキだ。君の名は?」

「え、ようこそ、って……」

「私? 書いてあるでしょう、名前くらい」

「意地悪だなァ、その名前を選ぶなんて。されど、僕は過去の遺恨ですらも呑み込む覚悟がある。君は?」

 画面の赤が消え、水色の電子の海が映し出される。その中心に、一人の少女が立っていた。白と黒のツートーンカラーのショートカットに、しっかり着込んだ執事服。ツバキとシオン、すなわち主人を見つめる瞳は、紫と黄。

 ツバキは口を開けてその様を見ていたが、少しすると、その口を横に引き、明るい茶色の目を細めた。ミルクティーが溢れて、甘く苦い微笑み。シオンはそんな彼の肩を抱いて、ハルジオン、と電脳少女に話しかけた。

「私は、神崎鏡香。司書名、二代目・ハルジオン。はじめまして、司書の皆さん」

「あぁ、歓迎するよ、ハルジオン」

「……っ、おかえりなさい、そして、ようこそ……!」

 クロッカスは枯れ、カガミは割れた。追想の愛が今、冷たい電脳世界に咲いている。そうして現れたのが、ハルジオンを名乗る電脳少女だった。

 泣き崩れるツバキを見ながら、かつて別れたシオンとハルジオンは顔を見合わせ、花唇を描いたのだった。

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