悲劇じゃ幕は下ろせない

 暗くなったライブラリの中を、一人の黒い女性が歩いている。レースをあしらったゴシックロリィタの着物を揺らし、闇の中で真っ赤な瞳を凝らして、ぶつぶつと何かを言い続けている。

 黒の中にぽっかりと、彼女の病的に白い肌が浮かんで見える。無数の赤い傷で、彼女の肌は闇に溶けていた。

 カツン、カツン、とハイヒールが音を鳴らす。天井の高い図書館に音が響き渡る。反響する。女性を見下ろすシャンデリアは、口を開かない。

 女性は大きな扉の前に辿り着いた。重厚な扉に手を掛けて、一度静止する。しばし止まったままだったが、手に力を入れ、扉を開けようとした。

「御機嫌よう、アネモネ図書館──」

 扉に少しの隙間が出来た刹那、女性の独り言に答えるようにして、シャンデリアが点いた。一瞬で辺りは黄色く暖かい光に包まれる。女性は咄嗟に目を閉じて、眩しい、と呟いた。

 カランコロン、と、別の足音が遠くから聞こえてくる。女性はうねった黒髪をゆらりと動かして、音の方へと振り返る。赤い着物を着た背の高い少女が、その玉虫色の瞳で、女性を射抜くように見つめていた。

「どこに行くのですか、アザミさん」

 アヤメ、と女性は独りごちた。無意識的にこぼれ落ちた言葉だった。

 扉を背にして立ち止まったアザミに、アヤメは悠揚と近づいてくる。彼女の周りの空気が歪んだようで、アザミは押さえつけられたような感覚に襲われた。

 アヤメは揺らぐこと無く、アザミを真っ直ぐに見つめる。緑色の視線と赤色の視線がぶつかると、赤は緑に弾かれて俯いた。

「……どこでも良いだろうがよォ。アンタには関係無い」

「関係あります。質問に答えてください」

「アネモネ図書館から出て行く。いても迷惑になるだけだしな」

 アザミはきっぱりとそう言った。唇はへの字を描いて固まっている。アヤメはきらりと光る玉虫色の目を見開いた。それから、眉を吊り上げて、アザミさん、と張り詰めた声をかける。

 白刃の切っ先のような表情に、アザミは目を細める。

「誰が出て行ってほしいなんて言ったんですか」

「……ッ……言わなくたって、覚ってんだよ。誰もボクを必要としていない。むしろ、ボクがいるから回らなくなってる。

ボクは司書なんて、辞めた。また不知火の魔女に戻る」

「誰もあなたのことを追い出したいなんて思っていません。そんなことをして、かえって皆さんを傷つけるって、思わないんですか」

「ハッ、思わないねェ。アンタらは、そこまでボクを大切になんて思ってない。アンタらにとっちゃ、いてもいなくても同じなんだよ」

 アザミは片眉を上げ、不敵に微笑む。見開いて細めた目には、温かみの一つも無い。アヤメが振り上げた刃を斬り落とすようにして、強く睨みつける。

 硬直した笑みを見ても、アヤメは表情を変えない。手持ち無沙汰な手を前で揃えて握り締める。

「そんなの、あなたが決めることじゃありません」

「決めてなんか無いッ! 事実だろうが、なァ? クソ鈍感なアンタには見えてないだけだ。偽善的な犯罪者なんて、必要としてないんだろうが!」

「でしたら、私の方が出て行きます」

「……ッ! ふざけんな! 馬鹿言ってんじゃねェ、貴様が独りになって何になる⁉︎ クロッカスは⁉︎ リンドウは⁉︎ テメェは其奴らも皆捨てて出て行くってのか⁉︎ あぁ⁉︎ それこそ偽善だ! 自己満足だ!

──悪いのはボク独りで良いんだよ!」

「あなたは私を捨てて出て行くんですか!」

 アヤメが大きな声を出す。アザミはびくりと肩を震わせて、怯えるような目でアヤメを見上げた。しかし、彼女が怯えていたのは、アヤメに対してではなかった。

 当惑したまま、違う、と蚊の鳴くような声でアザミが答える。アヤメは大きく息を吸うと、顔を真っ青にしたアザミを見下ろした。

「私は、あなたが傷つくことを知って、自己満足で出て行くほど、優しい人間ではありません。強い人間でもありません。アネモネ図書館を捨ててまで、あなたを引き留めるほど優しい人間ではありません。

あなたが罪の意識を背負ってアネモネ図書館を出て行くことは、自己満足にすぎません。あなたがどれだけ口では私たちを愛していると言っても、私たちにとっては何一つ愛情の証明になりません!」

「……ボクは……アンタとクロッカスの居場所を奪いたくない。ボクが出て行くことで、アンタらのためになるなら──」

「なりません。どうして分からないんですか。そんな綺麗事を並べて人を置いて行くことの、どれほど罪深いことか! どれほど私たちを傷つけることになるか!」

 アヤメが一歩踏み出し、アザミの胸ぐらを掴んだ。細い体の彼女は、無抵抗に吊るされる。反った首筋には、一筋、二筋、雫が伝って行く。つられたのはアザミだけではない。アヤメもまた、黄緑色の瞳を潤ませていた。

 アザミが何かを口にすることは無かった。彼女はただ、顔を歪めて涙を流していた。アヤメは畳み掛けるようにして、アザミに言葉をぶつける。

「あなたが耐えられないから、あなたのためにアネモネ図書館を出て行くだけでしょうッ! あなたはそんなに冷酷な人なんですか⁉︎ そんなにわがままで、どうしようもなくて、最低な人なんですか⁉︎ そうなんだとしたら今、そう宣言なさいッ! 『私は自分のために人を見捨てる人です』と!」

「……そんなの……無理だよ、無理に決まってる……そんなの、ヒナゲシに、彼奴に、人間共がした所業と、おんなじじゃねぇか……」

「目を覚ましなさいッ! 私の知っている優しいアザミさんは、そんなことしません! それとも、あなたはずっと私たちを騙してたんですか⁉︎」

「できるわけ無ェだろうが……! ボクはそこまで非道じゃない……! けど!」

 アザミが奥歯を噛み締めて、涙を溢れさせると、アヤメは胸ぐらを掴んでいた手を離した。アザミはそのまま地面にへたり込む。そして、黒い袖で目を押さえて、子供のように泣きじゃくって、言葉を続けた。

「けど……ヒナゲシには、お前らには、ボクがいる方が害だって、突きつけられたから!

出来損ないは消えれば良い。魔女は死ねば良い! そうすれば、全て上手くいく!」

「……やめてください。私は、そんな酷いことを言ったりしません。信じてください、アザミさん」

「だって、アンタを勝手に生かそうとしたのはボクだ! くっだらねェ偽善だろうが! どうしてボクを恨まない? どうしてボクを置いて出て行かない⁉︎ どうしてヒナゲシがされたように、ボクを見捨てないんだよ、アンタは⁉︎」

「同罪だからです。アヤメとして、司書として生きている私は、共犯者だからです!」

 アヤメがしゃがみ込み、アザミの傷だらけの手を包み込む。アザミは虚な目で、彼女の顔を正視した。

 やっと見てくれましたね、とアヤメが呟く。鋭い顔つきを歪めて、穏やかな微笑みを浮かべれば、パールの涙が一つ、落ちていく。

「私が、受け入れているんです。私が、再び死ぬことを望んでいないんです。私は、そこまで冷酷な潔癖ではいられません。

アザミさん。どうか行かないでください。消えないでください。クロッカスさんもきっと傷つきます。ヒナゲシさんはきっと、もっともっと深く傷つくと思います。シオンさんだって、ダリアさんだって、コスモスさんだって、リンドウさんだって、ミカンさんだって、皆あなたに救われたんですよ」

「……そんなに優しくされるなんて、怖い……ッ、見捨てられて当然のことをしたなら、容赦無く捨ててくれよ……」

「嫌です。私は、あなたが死ぬくらいなら、私も死にます。救われた私自身の存在も、否定されて然るべきだからです。

だって、アザミさんが優しくしてくれたのは、私を救ってくれたのは、嘘なんかじゃないから。それでも行ってしまうほどあなたは冷たくないなんて、知ってるから。信じてるから」

 嗚咽を漏らして泣き出すアザミに、アヤメは小さく笑い出した。自分の手より小さな手を握って、優しく撫でる。愛おしそうに、慈しむように。

「アザミさんは、優しすぎるんです。もっと横柄になっても良いんですよ。『ボクが救ってあげたんだから、貴様らは文句を言うんじゃねェ』って、言いそうなものです。それか、ずっと私たちを騙し続けてたって良いんです。

でも、アザミさんはそうはしなかった。私たちに本当のことを話してくれた。だから、私、信じてます。お願いですから、私たちの気持ちを試すようなことは、しないでください」

「……分かんねぇよ……理解できない。何が気持ちを試してたのかも、何がアンタにそこまで言わせたのかも、理解できない」

「拒絶しないで、覚ってください、アザミさん。あなたは、人の心を読むことができる人です」

 アヤメの言葉に、アザミはこくこくと頷き、縋るように手を握りしめた。アヤメは彼女の手を引き、体を抱き寄せた。肩に顔を埋めて泣いている彼女に、緩んだ弱々しい声で、求めるように囁きかける。

「アザミさん……お願いですから、バッドエンドを自ら選ばないでください。ハッピーエンドを、諦めないでください」

 穏やかな光に包まれて、アザミの頬に赤が差す。彼女は、黒く塗られた爪を立ててアヤメの背中を抱きしめた。

 真夜中の図書館に、二人の少女の泣き声が響き渡る。本もシャンデリアも花々も何も答えない。ただ、彼女たちの泣き声と、そうして経っていく時間は、光に飲まれて消えていく。傷は癒えていく。

 アザミは、どこかで、開演ブザーが鳴り響く音を聴いた。彼女を主人公とした物語は、まだ終わらなかった。

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