連続的同一性

 午前七時、スクランブルエッグの焼ける香ばしい香りに思いを馳せながら、スミレはキッチンにいるヒマワリを眺めていた。彼女は静止した微笑みを浮かべて菜箸を動かしていたかと思うと、それを皿へと盛り付け、同時に焼いていたウインナーと合わせてカウンターに置いた。

 トースターの高く小気味良い音に、スミレは思わず破顔した。焼けた砂糖の甘い匂い。ヒマワリがそれもカウンターに置くと、スミレは四皿を机に並べ、コックの帰還を座って待っていた。

 メイド服のエプロンをつけたまま、ヒマワリはスミレの向かい側に座る。それから、手と目線と声を合わせて、いただきます、と二人で言うのだった。

 刹那、スミレの端末が震える。まるで音声認識をしたかのような動作に、スミレは疑問に思いつつロックを解除する。そこには、オーバーサイズの黒いパーカーに身を包んだ少女が立っていた。

「クロッカス?」

「あっ……はいっ、クロッカスです! おはようございます!」

「おはようございます。スミレの携帯に現れるなんて、珍しいですね」

「え、えーっと、たまには二人とお話ししたいかな、って……えへへ……」

 クロッカスは黒く長い袖を頬に当て、照れ笑いをしてみせる。その様に、ヒマワリとスミレの口角が緩んだ。

 朝食を食べる二人の傍ら、クロッカスはしばらく何も言わなかった。二人は話しかけられなければ話さない。じれったそうに口を結んでいたクロッカスだが、意を決したように顔を上げ、二人に話しかけた。

「そ、その。お二人に、聞きたいことがあるんですけど……」

「あら、私たちで良ければお答え致しますわ」

「そうだな、相談に乗るくらいならできるぞ」

 にこっと微笑んだ二人に気圧されたように、クロッカスは首を縮めた。端正で善性な笑顔が眩しそうに、クロッカスは目を細めて、彼女にとって冷静な声色で話し始める。

「その……お二人にとって、『自己』って、何ですか」

 クロッカスの言葉は数秒の沈黙を生んだ。ウインナーやスクランブルエッグに手をつけていた二人が、微笑んだまま静止してクロッカスを見つめる。二人の視線にいたたまれなくなって、クロッカスは目を逸らした。

 しかしながら、しばし食事をしながら黙考した二人は、口の中が空になってから各々答えるのだった。

「俺は、それが自分だと思えること、だと思ってるよ」

「私にとっても同じ、ですわ。こうして考えている自分自身こそ私だと考えます」

「そう、ですか。ヒマワリさんだと、『我思うゆえに我あり』ということですか?」

「そうだな。というか、『自分』と『他人』の区別は付くけれど、確固たる己というものを考えたことは無いな」

「私も……自己中心性からは脱却しているとは思いますが、私を私たらしめる定義は考慮したことはありません」

 自分とはいったい何ぞや。その哲学じみた質問に、二人は真剣な顔で向き合う。まだ食べかけのトーストを見ると、クロッカスは苦々しい顔で、すみません、お食事の邪魔をして、と謝罪する。

 クロッカスが食事を促しても、二人は手を止めたまま熟考し続ける──一度始まった検索は終わるまで止まらない。プロセスを中止するコマンドは人間には存在していない。

 またしばらく考えたのち、スミレは思いついたように顔を上げた。

「俺が俺だと思える理由は、他者との比較にあるかもしれないな」

「と、言いますと?」

「俺はヒマワリ姉さんじゃないし、俺はクロッカスじゃない。他の誰でもない存在イコール俺、だな」

「えっと、その……たとえば、ですけど。テセウスの船ってご存知ですか?」

 クロッカスが二人の顔色を伺う。アネモネ図書館でも最も賢いうちの二人が知らないはずは無かった、それは彼女も理解していた。

 二人が反応を示したところで、クロッカスは説明を続ける。

「たとえば、ですけどね? 姿も、形も、何もかもが別人になってしまったとして。それは、自分だと言えるのでしょうか?」

 クロッカスの発言に、二人は答えを渋った。というのも、二人とてクロッカスの事情は──詳細でないにしても──よく分かっていたからだ。

 彼女の本名が「神崎美香」というのは、まったくの嘘だった。彼女の本名は、「八神鏡花」。もともとはアザミのような姿などしていなかった。

 つまり、テセウスの船とは、彼女自身のことを指している。

 先に答えたのは、ヒマワリだった。スミレがまだ食事を終えていないことを見越しての発言だった。

「私は、スミレの理論で言えば、テセウスの船はテセウスの船であり続けると信じておりますわ。なぜなら、テセウスの船とは、他者が定義したものでありますから、誰かがそれをテセウスの船と呼ばなくなるそのときまで、その船はテセウスの船と呼べましょう」

「……そうですね、それも一理あります。ヒマワリさん自身の論理だと、どうなりますか?」

「私としては、テセウスの船の理論は当てはまりません。私自身の話に置き換えた方が良いかと」

 クロッカスがまじまじとヒマワリを見つめる。食事を終えたヒマワリは、口元をナプキンで拭きつつ、遠い目をして続けた。

「私は、人間であった記憶を失った人間でございます。観月玲奈は死にました。

自分とは、絶えず作り変えるものだと思っています。辿ってきた過去を基に、私は観月玲奈ではなく、ヒマワリになりました。というより、それを『私』と呼ぶことにしました」

 観月玲奈は死んだ──スミレも聞いたことのあるフレーズだ。辛い過去を抱えてどう生きていったら良いか問うたとき、ヒマワリはまったく同じことを答えた。

 クロッカスは、作り変えるもの、と声に出して反芻した。自分とは、絶えず作り変えるもの。青いインターネットの糸は、絶えず組み替えられ、捻れては交差し絡み合う。それはさながらアラクノイドのように。

 ヒマワリがゆっくりと語っている間に、スミレも食事を終えていた。電子の冷たい海を眺めて黙っていたクロッカスに、今度はスミレが話しかける。

「実は、俺はまだ分からないんだ。過去の自分を清算しきれてない。いつも、昔はどんな人間だったんだろうか、と考えては悍しくなるんだ」

「スミレさんでも……?」

「あぁ。でも、過去は振り返らないことにしてる。どれだけ考えても、シオンに渡してしまったからあまり思い出せないし。

過去の自分である必要なんて無いと思ってる。今の自分の方が大切なんだ。だって、今の俺は『スミレ』であって、観月聖夜じゃないから」

「……でも、あなたたちはそうかもしれないけど……私は……」

 言いかけた言葉を飲み込み、すみません、とまた頭を下げる。そんなクロッカスの「言わなかった部分」を察せないほど、二人は鈍感ではなかった。

 私は、クロッカスじゃないから。私は、自ら望んだわけじゃないから。

 それを言えば、二人が何も言えなくなることを知っている。ゆえにこそ、彼女は言葉を濁し、へらへらと笑って謝罪したのだった。

 微笑みを浮かべるクロッカスに、ヒマワリは真剣な眼差しで呼びかけた。クロッカスが目を見開く。無表情の人形らしい顔が、そこにはあった。

「いえ、貴女様は『クロッカス』ではありません」

「え……? 私は、鏡花だって言いたいんですか?」

「いいえ。貴女様は『八神鏡花』でもありません。私たちにとっては、貴女様は貴女様なのです」

「……分からないよ、そんなの、」

「『クロッカス』も『鏡花』も貴女様にとっては過去の存在です。貴女様は『クロッカス』にも、『鏡花』にも戻れません」

 クロッカスが息を呑む。そして、自分の腕を抱き、戻れない、と繰り返した。

 ヒマワリの表情は冷淡かつ温厚だ。平坦で淡白だ。優しさの一欠片も無く、軽蔑の端くれも無い。ただ盤に碁石を並べるように、温度の無い事実を並べているだけだ。

「私が『観月玲奈』に戻れないのと同じです。人間は知ったからには知らなかった状態に戻れません。貴女様は今、今までなってきた自分自身とは違う自分になったのですわ」

「今の私は……何者でもない……」

「本来、クロッカスという名前以外を名乗っても良いのです。今の貴女様は、『クロッカス』でも『八神鏡花』でもないのですから」

 クロッカスが、それは、とヒマワリの腕を掴むように顔を上げる。黄色い瞳は潤み、視線の行き場を無くしては俯く。

 ヒマワリは冷淡だった表情を変え、目を丸くする。そうして、クロッカスの表情をスキャンするように凝視した。

 クロッカスは、喉から声を絞り出し、それはいいの、と言った。

「クロッカス、って名前は、良いの。私がシオンとツバキから貰った名前だから。私は、シオンもツバキも嫌いじゃないから……でも、この姿が嫌なの……『私』の欠片も無い、私が……」

「クロッカスは……たぶん、テセウスの船をテセウスの船と思えない人なんだな。記憶や姿形という、データが自分を定義してる、って」

「そう……なんだと思う。でも、今の私は、過去の私じゃない……もう、何者でもない……」

「良いじゃないか。お前は電脳体だろ? 見た目なんて、変えてしまえば良い。見た目のデータを改竄するんだ」

 スミレのアイディアに、クロッカスが再び顔を上げる。スミレは頬を上げ、にっこりと笑うと、そうだよ、と嬉しそうに続けた。

「なんで思いつかなかったんだろう、俺だってかつてはAIだったのに。クロッカス、お前ならできるはずだ、今の自分に最も相応しい姿形になることだって。『八神鏡花』でもなく、『クロッカス』でもない、今のお前自身に」

「……そっか、そう……あはは……皮肉だね、私が電脳体になってしまったからできることなんだね……私は、人間にはもう、戻れないんだ。

ううん、アネモネ図書館に来た時点で、私は人間にはなれなかった。アネモネ図書館に来なかったら、私は死んでた。

ここに人間はいない。アヤメも、シオンも、ツバキも、二人も、もう人間なんかじゃないから」

 クロッカスは乾いて苦いコーヒーの笑い声を上げ、額に手を当てた。ヒマワリとスミレは無表情で彼女を案じた。

 黒い袖で涙をぐいぐいと拭うと、クロッカスは二人を大きな目で見上げ、薄く微笑んだ。

「ありがとう、ございます。たぶん、もう、この姿では会わないと思う」

「良いんじゃないか。俺たちは、どんなクロッカスになっても、お前と仲良くしたいと思ってるから」

「うん……本当にありがとう、こんな、偽りだらけの私を愛してくれて。きっともう、私は皆の知るクロッカスではないかもしれない」

「いいえ、クロッカス様は常に変化し続けていますから、その瞬間々々が新たな貴女様です。私にとっては、話題を提供した瞬間と、今の瞬間では、貴女様は別のデータになっていますから」

「うん。ごめんなさ……じゃなくて……これからも、よろしくね」

 クロッカスはぺこりとお辞儀をして、スミレの携帯の光を消した。スミレが次に点灯させたときには、もうクロッカスの姿は無かった。

 二人は立ち上がり、皿をキッチンに置きに行く。その最中、スミレからヒマワリに声がかかった。ヒマワリは普段どおりの当たり障り無い笑顔を浮かべて振り向く。

「姉さんは、強いよな」

「私が? いいえ、私は強くなどありません。私はただ、過去に縛られて生きたくない……人間でも、人形でもない生を探し求めているだけですわ」

「そういうところだよ。俺たちは、人間になろうと思ってたから。姉さんみたいに、何者でもない存在でいられたらな、って思う」

 スミレはヒマワリから皿を受け取り、今日は俺がやるよ、と言って、皿やコップを洗い始めた。彼の言葉が汚れと共に洗い流されていっても、ヒマワリはその隣で微笑みをたたえて立っていた。

 視線を感じて、スミレが顔を上げる。どうしたの、姉さん、という声に、さきほどまでの詰まりは無い。

「スミレは、どんな人間になりたいのですか」

「俺は……俺は、どんな人間になりたいんだろう……」

 答えられずに手を止めてしまったスミレを見ると、難しい質問でしたね、と言い、一礼してからヒマワリはその場を去っていった。

 キッチンに取り残されたスミレは一人、他の司書たちが残した皿をも洗いながら、その表面に映る冴えない自分自身に、大きな溜め息をぶつけた。

「どんな人間に、か……考えたことも無かったな……」

 スミレの言葉に応える者はいない。暫時黙り込んでいたが、しばらくすると、何事も無かったように食器洗いを再開した。

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