iシテル
「ね、センパイ?」
「何ですか?」
「センパイはさ、愛で出来てますよね」
ダリアがヒナゲシの顔を覗き込む。じょうろを持った彼は、怪訝そうな顔をしてダリアを見下ろした。
ヒナゲシの管理する花園には、季節に沿わぬ花々が咲いている。時の流れの狂ったアネモネ図書館には、季節の概念は無い。
彼の足元には、ヒヤシンスが咲いている。色とりどりのそれらは、ヒナゲシが水をやると、まるで幼い子供が微笑むように、太陽の光を浴びてきらきらと花弁を広げるのだった。
ダリアはそんな花々をつい踏みそうになって、慌てて足を引く。ヒナゲシのことを見下ろして、再び愛想良く笑った。
「センパイは、他人を愛する化け物です」
「はぁ」
「センパイの重たくてべっとべとな愛に包まれた人は、たちまち息ができなくなります。体中に毒が回って、気がつけば、センパイの色に染まってしまう」
そう言って、ダリアは小さな花に指を添えた。彼の双眼に、花弁は映っていない。義眼のように、ただ花弁を映しているだけだ。
「人間は誰しも愛を求めています。愛を知っています。だからこそ、愛を欲する人々は、あっという間にセンパイの虜になってしまう。
愛という感情も、欲という本能も、人間なら誰しも持ち合わせていますよね」
「はぁ」
「ですが、もしも鉄の心を持っている人がいたら、センパイはどうするんですか?」
花弁から手を離し、ダリアはヒナゲシの両肩に手を乗せた。びくりとヒナゲシの肩が跳ねる。
ダリアは遠くを眺め、目を細めた。ヒナゲシは動けないまま目線を落とすと、小さく息を吐き出した。
「鉄の心、とは?」
「愛を知らない、感情を知らない、欲を知らない人間です。其奴らにとって、愛欲は非効率。人間の心に起きたバグでしかない。
何物にも頓着せず、孤独に生きるサイボーグ。その心にあるのはただ一つ、効率があるのみ」
「そんな人間、放っておけば勝手に死にます」
ヒナゲシは吐き捨てるように答え、ダリアの手を払った。ダリアは何度か瞬いて、ヒナゲシを見つめる。それから、不意に笑い出した。
「あはっ、センパイにしては辛辣な返答ですね。なにか思うところでも?」
「そういうわけでは……ただ、僕はそのような孤独な人間にはなりたくありませんし、救いたいとも思えません。だって、彼らは孤独になることで、充分救われているんですから」
「へぇ? その心は?」
「そういう人々は、正義に酔い、自分に酔い、破滅するその日までそれは分からないまま、朽ち果てていくのでしょう。そんな人々を、追ってはいけない、と思いますよ、僕は」
だって、と呟いたヒナゲシが、困ったように微笑んでいる。ダリアは笑みを潜め、じっとヒナゲシの背中を見つめた。
ヒナゲシの強かな指が、花々に触れる。ふわりと吹いた微風で、彼の亜麻色の髪が靡く。うっとりとした顔で花々を見つめる彼に、ダリアは背筋が震えるような感覚を覚えた。
「僕にできるのは、そういう人々が孤独に打ち震え、頽れて、たった一人で朽ちていくとき……手を差し伸べて、引き入れることです。最初から彼らに手を焼く必要は無い。いずれ彼らも、自己陶酔が導く破滅を知ることになるでしょうから」
「……こわ。でも、人間の中には、それでも自分の為すことを為せているがゆえに、自分は確かに正しいことをしていると信じているがゆえに、鉄の心を持ったままでいられる人間はいますよ」
「そういう人間はね、どこかで誰かを愛して、どこかで誰かを失うんです。
鉄の心は、折れないんです。不思議ですよね。『もう二度と同じような感覚は得られない』なんて言うんです。そうして独り朽ちていく。
自らの心を折ってまで、叩き壊してまで、変わろうと願う人間しか、僕は愛せません。否、愛す必要がありません。ね、ダリアもそうでしょう?」
振り返ったヒナゲシが、不敵に微笑する。中性的な顔立ちと、それが織りなす妖艶な微笑みは、花を行き交う蝶々のよう。
ダリアは言い返すこと無く、黙ってヒナゲシを見下ろしている。そんな彼の頭に手を置くと、ヒナゲシは目を弓形にして彼の頭を優しく撫でた。
「ご心配無く。僕は、変わったんです。もう自分を責めたりはしない。
僕は、こういう人なんですよ。鉄の心を持つ人間とは程遠い、意地汚く惨めでなお美しい怪物。必要とする人々に愛を与え、必要とする人々の欲を満たすことが、僕の生き方ですから」
「……『僕は』、そんなアンタの餌食にはなりません。鉄の心は、持っていないけれど。僕には、愛は必要ありませんから」
「本当に?」
「愛なんて馬鹿げたものは理解できません。僕が理解できるのは欲だけ。だから、逆に分からないんですよ、鉄の心を持った人々が、どうしてそうも愛を忌み嫌うのか」
今度はダリアがヒナゲシの手を払い除ける。それから、ダリアはさきほどまでの穏やかな笑みとは変わって、無表情でヒナゲシを冷たく見下した。
「一度愛する者を失って、二度と他人を愛せなくなった怪物。他人を愛して、他人を駄目にする怪物。愛ゆえに、他人を傷つける怪物。僕にはそれが理解できません。僕はそれらを、愚かしいとさえ思います。
人間は皆エゴイストで、満たされないがゆえに他人を傷つけるんです。傷つけたことにさえ酔って、気持ち良くなる。他人を守ることでさえ、自らを慰める手段。僕にはそうとしか理解できません」
「ですから、僕はあんたの欲を満たしている、と」
「他人とは自分を満たすための道具でしかない。そこに愛は無い。どうしてアンタはそうも、愛ある存在であろうとするんですか。どうして愛とやらを盲信するんですか?」
ヒナゲシはダリアの黒真珠の瞳を見つめた。黒く光った、金属の色。虚な色。答えを求める強欲な色。
優しく無機質なアンドロイドに、人間を模した怪物は、温かい声で語りかけた。
「愛とは、許すことです。守ることです。大切にすることです。受け入れることです。励ますことです。幸せを願うことです。
たとえ、どれだけ苦しんでも。どれだけ悲しんでも。僕は人を許してあげたい。幸せを願ってあげたい。その罪を許してあげたい。その感情は、愛とは呼べませんか?」
「……馬鹿げてる。自己満足にすぎない」
「えぇ、自己満足です。優しくあろうとするのは、強くあろうとするのは、慈悲深くあろうとするのは、自己満足以外の何者でもない。『僕は自らの正義を信じる人間ではない』、とでも言いましょうか?」
「……自分を優しいと思うことでしか自分を愛せないんでしょう」
ダリアの静かな声に、ヒナゲシは眩しそうにダリアを見つめた。じっと見つめられ、何ですか、と言ったダリアに、ヒナゲシはじょうろを持ったまま腕を組み、少し顎を上げてダリアを見上げた。
「別に、僕を挑発したいわけではなさそうですね」
「……っ、あれは! あれはおかしくなってただけですから」
「純粋に知りたいみたいだから、答えてあげます。えぇ、まったく、僕が愛で出来た怪物であるのは、そんな僕しか愛せないからです」
ダリアが取り乱したのも気に留めず、ヒナゲシは真剣な顔でダリアを見つめ返した。何かを言おうとした彼も、口を噤んで見下ろすことを選んだ。
ヒナゲシは数々の花々を背景に、声色を冷ややかにして続けた。
「復讐してやりたい。不幸にしてやりたい。一生後悔させてやりたい。妬ましい。疎ましい。僕を怪訝に扱った人々など惨めに地に這いつくばって死ねばいい。俺を愛さなかった人など心に深い傷を負ってしまえばいい。彼奴らに愛を売った俺が馬鹿だった。彼奴らの欲を買った俺が馬鹿だった……」
「……え?」
「俺はそれを選ばなかった。其奴らを許すことが復讐になると思った。俺は自らを傷つけた者でさえも愛で窒息死させることが正義だと思った。哀れな奴らの鼻を明かしてやりたいと思った。
何度傷つけられても。何度殺されようとも。俺が変わらず他人の仮面を守り、愛し、許し続けることが、俺が信じる唯一の正義だ。俺にできることは、俺を求めた人々を救うこと、ただ一つだ」
「……うわ、なにそれ」
ダリアは口元を押さえ、クク、と笑い出した。ヒナゲシの顔から緊張が取れる。なんでそこで笑うんですか、と元の穏やかな声で返したヒナゲシは、ダリアの頬が色づいたのを見た。
「……興奮する」
ふふ、あはははは。ダリアは決壊したように嗤い出した。とろんとした目が三日月を描く。ふらりとよろけた彼が、花壇に咲いた花を一つ、踏みつぶした。あぁ、と情けない声を上げて、ヒナゲシはその花に駆け寄る。
しゃがみこんで慌てる彼を見て、ダリアは、どすっ、とヒナゲシの背中を押した。不意を突かれたヒナゲシが、そのまま花壇に倒れる。ぐしゃり、ひしゃげた花が、彼を心配するように鼻先に触れていた。
「あーあ。アンタが愛した花、ぐしゃぐしゃになっちゃった」
「怒りますよ」
「良いんじゃない、復讐。理解できたよ、最高じゃん。怪物であり続けることが一番の復讐になるって、あはっ、アンタに傷つけられた人々は拍子抜けするでしょうねェ。彼奴、まだ続けるのかよ、って。何も分かってないぞ彼奴、って。
あは、あはははっ、最高だよ。傑作だよ。一番されたくないことをしてやるなんて、ホント、センパイって性格悪い」
ダリアはヒナゲシを起き上がらせて、襟についた土を払ってやる。元の飄々とした笑顔に戻り、センパイ、と甘い声をかけた。
「そのままでいてくださいね、センパイ。一生クソ偽善者のままでいてくださいね」
「……意味分からないんですけど」
「愛は理解できないけれど、自己実現欲は理解できますから、僕。なんか、フラれた彼女みたいな思考ですね」
「それより。この花、直すの手伝ってくださいよ。可哀想じゃないですか」
「花に可哀想って、意味分かんない」
カラカラと嗤い続けるダリアの腕をぐいと引き──たとえ体の大きいダリアでも、ヒナゲシの本気には敵わない──よろけたところで、ヒナゲシはじょうろを握らせた。
花なんて好きじゃないんだけどなァ、と独り言を言いながら、ダリアはそのしおれた花に水をやり始めた。
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