正義とは所詮、

「煙草を一本貰っても?」

 独りぼんやりと喫煙していたダリアのもとに、黒髪の女性がやってくる。彼は、少し年下な彼女を見やると、面倒臭そうに舌打ちをしたあと、甘く微笑んで、火を点けた紙巻を差し出した。彼女はそれを人差し指と中指で挟むと、慣れない手つきでゆっくりと口元に運ぶ。一度大きく煙を吸ったあと、思いっきり咳き込み、紙巻を口から離した。

「慣れないことするからですよ。アンタ、煙草吸ったこと無いでしょう」

「っは、はぁ、まぁな」

「吸いそうな見た目してませんもん。いったい何のつもり?」

「別に何も無い。ただ吸ってみたかっただけだ」

 黒髪の魔女は苦笑し、横髪を耳に掛けた。それから、もう一度口に紙巻を突っ込んで、煙を吐き出す。眉をひそめる彼女には見向きもせず、ダリアは煙草を灰皿に押しつけた。

 魔女はそんなダリアの、白くて細い腕に目を向ける。フード付きワンピースの袖から覗く手首には、真っ赤な傷が張り巡らされている。片目を細め、痛ましそうに顔を歪めると、ダリア、と彼の名を呼んだ。

「アザミが僕に何の用?」

「……手首、痛くねぇのか」

「さぁ? 痛いか痛くないかは重要じゃない。重要なのは、傷をつけるかつけないか」

「どうして自傷なんかするんだよ。何か悩みでも?」

「……はぁ、言わせておけば厄介な……他人のプライベートに口突っ込まないでくれます?」

 ダリアのバニラ味の笑顔が崩れる。ぎろりと無感情な目で睨まれ、アザミは小さく息を吐いて目を逸した。まだ長い紙巻を、無理やり灰皿に押しつけ、残った黒煙を吐き出す。それから、灰皿の上で煙草から煙が上がっていくのを見ながら、アザミは波風立てない声で話を続けた。

「アンタは……神崎昴は、もう一度生きるチャンスを手にしたことを、どう思う。後悔してはいないか」

「は? どう思うって……アンタに言われても。僕は……僕は愉しんでいますよ、ダリアとしての生を」

「そうかい……それは、良かった」

「アンタ、何か勘違いしてません?」

 頬を緩めたアザミに突き刺すように、冷たい声で制止がかかる。目を見開いて驚いたアザミに、ダリアは怪訝そうな表情で続けた。

「僕がアンタからもらったチャンスで幸せに生きているということと、アンタに感謝することとは違う。アンタの手柄だって言いたいわけじゃないし、僕は別にアンタのことを好いてもいない」

「は……?」

「アンタのやったことを正当化しているわけでも、アンタを好評価しているわけでもない。同情や称賛を求めているのだとしたら、お門違いにも程がある」

「ち、違う……そういうつもりで言ったわけじゃねェ」

 ダリアの冷徹な切り返しに、アザミは赤い目を震わせて顔を背けた。動揺する様を、ダリアが見逃すはずも無い。分かりやすい情動に呆れたように、ダリアは大きな溜め息を吐いた。

「アンタの置かれている状況が何だか知りませんけど。僕が喜んだから、僕が幸せだから、自らが為した救済は正しかったと、そう正当化したいだけでしょう?」

「そんなつもりじゃねぇって言ってんだろッ! ……だいたい、その程度で正当化できるなら、ボクはもっと上手い正当化の言い訳を見つけてる」

「アンタ、賢そうですもんねー。賢いとこだけは取り柄なのに、なーんか惜しいんですよね。そういうところ、アジサイみたいだなって思います」

「さすがにそれは、アジサイに失礼でしょう……」

 アザミは額に手を当て、困ったように笑った。アジサイとダリアの仲が良いこと、アジサイとアザミの仲が悪いことは、双方理解している──その上でのダリアの発言だった。

 ダリアの黒水晶の目には、咲き乱れる花々が映っている。されど、彼はそれらを見ていない。彼には、それらの有彩色は無彩色に見えている──彼の世界は、歪んでいた。

「賢いくせに、こうやって他人に自分の行為の善悪を求めてしまうところが、センパイに近いんでしょうね」

「……だから、そういうつもりじゃない」

「わざわざ煙草まで奪って、どうして僕に話しかけにきたんです? 別にセンパイでも良いでしょうに、同室なんだから。それなのに僕のもとをあえて訪れるなんて、魂胆が見え見えなんですよ」

「本当に違うんだ、別に自分の行為を正当化したいわけじゃない……ただ、アンタに聞きに来たのは、安心したいからかもしれないな」

 度重なる追及に折れて、アザミは乾いた声で自嘲する。隈が出来た目が、死んで遠くを見つめている。疲れ果てた横顔に、ダリアは、味気無いな、と小さな声で呟いた。

「あ?」

「面白くないな、って言ったんです」

「面白かァねぇだろうよ。ボクはアンタの望むような存在じゃない」

「そうですねェ、少しもそそられない。こんなひ弱で惨めな人間じゃ、ヤり合うことすらできない。

そもそも、他人を救うことなんて、エゴだらけに決まってるじゃないですか。アンタは迷子の子供を助けて感謝されなかったとき、自分のことを正しくないと思うんですか?」

 ダリアの言葉に、アザミが息を詰まらせる。唐突に投げ込まれた言葉に、瞬いて見つめ返すことしかできなかった。ダリアは足を組み直し、頬杖をつくと、素っ気ない態度で語り始める。

「たとえば、友人がDV被害に遭っていて、アンタがそれを助けたいとします。友人の彼氏を殺すことで、友人は大喜びしました。これは正義ですか?

たとえば、道端で転んで自転車に轢かれそうな老人がいたとして、アンタがそれを助けたとします。老人は、触るな、と言ってアンタを警戒しました。これは悪行ですか?

その人が喜んでいたから、その人が満足していたから、それを正義と呼ぶんですか、アンタは。逆に、DV被害に遭った友人を助けなくて其奴が自殺したとして、アンタは何もしていないから悪行も善行も無いでしょう? 何に心を惑わされているんですか?」

「ダリア……アンタにとっては、その人が喜ぼうと悲しもうとどうでも良くて、自分が正義を為したと思えるなら、何だって良いと?」

「えぇ、僕には関係無いことじゃないですか。老人がそのまま轢かれても、友人が自殺しても、自分のことじゃないからどうも感じません。それでも手を差し伸べるんだとしたら、それを救済だと呼ぶとしたら、そんなの自分が気持ち良くなりたいだけでしょう? 自分が気持ち良くなりたいという願望は、悪なんですか? 自分が気持ちよくなりたいがゆえに人を救うことは、正義なんですか?」

 アザミは黙り込み、ダリアの横顔を正視する。ダリアは彼女の顔も見ること無く、ニヒルに笑ってみせた。皮肉を交えるエゴイストは、煙の塊のよう。掴もうにも掴めず、手に入れたと思っても手には何も残らない──アザミは彼を、そう表現したくなった。

 ダリアは大きく伸びをすると、なんてね、と言い足した。元の甘い笑顔に戻り、僕には関係無いですけどね、と戯けてみせる。アザミは首の後ろに手を当てると、いや、とくぐもった声で答えた。

「……アンタなりのフォロー、だろ」

「いえ? このままだと、僕が救われたことですら間違いだった、とかアンタが言い出しそうな気がしたので、牽制です。今更現世に戻されても困りますしね」

「アンタの言うことはよく分かるし、良い論理だよ。その論理でいくと、自ら勝手に手を差し伸べては、その罪に自縄自縛になるボクは、完全に自業自得ってことだね」

「おぉ、賢い。賢い賢い。話の分かる人だ!」

 悦に入ったダリアに、アザミは顔をしかめて困惑する。ダリアは口角を上げると、アザミを誘うように黒い目を横へと逸した。

「まぁ、そういうことですよ。だから、僕を利用しないでくださいね。僕はアンタを救いたいとも、アンタに救われたいとも思っていない。救済の善悪なんて、自分で決めたら?」

「……そうかもしれないね。ボクが正しくても、間違ってても、相手の反応とは何も関係が無い……ボクがどれだけ正しいことをしても、どれだけ間違ったことをしても、相手は幸せにならない」

「さぁ? 人間は自分勝手ですから、幸せにしたいなんてエゴを見せると拒否しますし、不幸にしたいなんてエゴを見せても拒否します。人間に効果覿面なのは、さり気ない思いやりであって、大胆な行動ではないことが多いですから」

「よく、『理解している』んだな、ダリア。人間のことをよく理解して、その上で分からないアンタが愛おしいよ」

 今度はダリアが固まる番だ。アザミの穏やかで温い声に、彼はと胸を突かれる。アザミの方を、目を丸くして見下ろした。

「だからこそ、アンタは『そう』振る舞ってきた。常にマジョリティとなる行動をとろうとしてきた。相手に好かれるために。相手に愛されるために。自分を繕うために」

「……へぇ。アンタには分かるんだ?」

「分かるさ。人間と相容れない本性──分かるけど、それをとやかく言うつもりは無い。強いて言えば──ボクの救済で幸せになってくれているみたいで、嬉しい」

 アザミはそう言って椅子から立ち上がった。邪魔をして悪かったな、と言って、座るダリアを冷たいルビーの鉱石のような目で見下げる。ダリアは目線を合わせずに、去ろうとしたアザミを引き止める。

「なにか?」

「……分かってほしいとは、一言も言ってないんですけどね。でも、分かっているならば、」

「あぁ、ボクは『秘密が何であるかを知るだけで満足する探偵』ではない。『秘密が何であるかを知って接し方を変える賢者』だからな。それ以上何も言うまい。アンタはボクの前で無理に繕う必要も無いし、そちらの方が気持ち悪い」

「……はは、そう、ならば良いんだけど」

 ダリアの唇がかすかに笑みを描いたのを見て、アザミは満足げに頷き、御機嫌よう、という言葉を残して、ハイヒールを鳴らして去っていった。

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