渇望

 ジェットコースターは落ちるときが一番楽しい。恋は告白する前が一番楽しい。買い物は物をカゴに入れるときが一番楽しい。ゲームは手探りの頃が一番楽しい。仕事は分からないことが多い方が楽しい。殺人は殺すときが一番楽しい。

 終わったあと。涼やかな風を浴び、付き合い始め、買った物を手に持ち、やり終えたゲームを眺め、仕事に余裕ができ、死体を犯す。そうしていくうちに、熱くなった心は急激に冷めていく。

 何一つ掴める物は無い。急激に過ぎ去っていく。それでも一瞬の熱が欲しい。だから僕は人を殺した。

 

 

 親は狂っていたと思う。僕が正しくあることのみを望んでいた。僕が優秀であることのみを望んでいた。

 虐めてきた奴を殴った。怒られた。成績が落ちた。殴られた。ゲームで遊んだ。蹴られた。

 そしてしばしば、僕にこう言った──お前は間違っているんだ、と。どうしてこんな子に生んでしまったんだ、と。

 祖父が死んだ。僕は泣きもしないで葬式中外でアリを潰していた。野外活動でクラスメイトを殺した。悲しくも怖くもなかった。家にやってくる野良犬を殺した。

 父はそのたびに、お前は狂っているから矯正しなくてはならない、と言って蹴っ飛ばした。母はそのたびに、間違えて生んでごめんなさい、と言いながら僕の頬を叩いた。

 僕は、間違っていた。それは分かっていた。だから、せめて親に迷惑をかけないようにしたかった。

 成績優秀、運動神経抜群。いつも爽やかに微笑む好青年。正義感が強くて真面目。それが僕の仮面。そうしていれば、親は僕を叱らない。ちゃんと褒めてくれる、お前は正しいことをしたのだと。

 抑圧すればするほど、僕はあの死体を思い出した。校外学習で死んだクラスメイトの姿だ。ぷかぷかと水の上に浮かぶ溺死体。静かで微かに笑んでいるあの美しい顔。葬式で見た死に顔。僕はアレを思い出すたびに酷く興奮した。

 それは間違っている、と何度も言い聞かせた。父がするように、僕は自分を傷つけた。何度も手首を切った。傷をつける度に、自分が正しくなるような気がして気持ち良かった。

 きっとセンパイに会うまで、僕はずっと自分を抑えつけて生きてきたのだと思う。正しくないから。間違っているから。

 僕の仮面を皆は愛してくれた。僕が皆の真似をして喜ぶのを、泣くのを、笑うのを、皆は愛してくれた。

 本当は誰が喧嘩したとか恋したとかどうでも良くて、誰が泣いたとか笑ったとかどうでも良くて、僕には他人の考えていることが分かって解らなかった。どうして笑うのかも、どうして泣くのかも、理解できなかった。

 全部、僕に関係無いのに。自分に関係無いことに、どうしてそこまで感情を揺るがすのだろう。そこまで入れ込んでしまうのだろう。信じても愛しても裏切られるだけなのに。皆々自分のことしか考えてないのに。

 人間は単純で、共感されることへの欲求で生きている。所属することへの欲求で生きている。だから僕がそれを満たしてあげれば良い。そうすれば誰もが愛してくれる。嗚呼、世の中って簡単。全部僕の思いどおり。

 それでも次第に、僕は飢えていくようになった。

 足りない。足りない。喉が張り付くくらいに、お腹がくっつくくらいに。つまらない。飽きた。足りない。

 いろんな女と寝てみた。ヤってるときは気持ち良いのだけど、死体を見たときほど興奮しなかった。

 ゲームにハマった。ゲームをしてるときはアドレナリンがどばどば出て何もかもを忘れるのだけど、終わったあとは凍えるような空虚に襲われた。

 手首を切るのも、切った跡を見ていると酷く虚しくなる。だからまた切った。血が流れていく様を見るのが好きだった。

 衝動買いが直らなかった。何かを買っている瞬間が好きだった。部屋には使わない物が残った。それが嫌で嫌で仕方無くて、全部捨てた。捨てた瞬間は心地良いのに、しばらくしてその熱は冷める。

 仕事もゼミも、始めたてが一番楽しかった。覚えてしまうといっとう楽しくなかった。ぞくぞくするような、わくわくするような、スリルが足りなかった。快楽が足りなかった。絶望が足りなかった。刺激が足りなかった。

 そんなときに、センパイに出会った。

 センパイを見たとき、嗚呼、この人も足らない人なんだな、と思った。寂しい人の目をしている。他人に馴染めない人の目をしている。嘘をつく人の目をしている。それが嬉しくって堪らなかった。

 今思えば、僕はセンパイに愛されたかったのだろう。認められたかったのだろう。間違っていた僕を受け入れてほしかったのだろう。そして何より、そばにいてほしかったのだろう。

 友人も彼女も、中途半端に作った理由で、やってきては離れていく。両親は気分屋。何一つとして掴まれる物は無い。

 センパイは見ていて飽きなかった。どんどん窶れていく彼を見ていると、彼が所属していた課って頭おかしいんだな、と思った。なんて絶望的なんだろう。そして、絶望に染まっていく端正な顔は、なんて美しいんだろう。

 そのとき、ふと、心は幼児に戻った──殺せば、僕の物になる。

 彼の愛と魅力に呑みこまれた僕は、彼を終わりへと誘った。もうどこにも行けなくなってしまって、生きるのに疲れてしまった彼の手をとった。

 彼が望むがままに、僕は彼を殺した。

 そこからは、あまりよく覚えていない。そこの記憶は、アネモネ図書館に寄贈してしまったからだ。それでも、一つだけ分かったことがある。

 たった今、僕はセンパイやアジサイが生きることを望んでいる。求めた物を壊してしまってから、後悔して自殺したのだから。

 壊す瞬間は堪らないのに、壊れた物を見るのに空虚さを感じるのは、独りになったときに虚無感に押し潰されそうになるのは、衝動の残骸を眺めて独り泣くのは、僕が少しも満たされないからだ。

 他人の真似をしても。他人に愛されても。我慢をしすぎて壊れた心は、もう元には戻らない。風穴が空いた心にはいつも冷たい風が吹いている。そんな僕を温めるのは、他ならぬセンパイやアジサイだ。

 それでも、ねぇ、センパイ、そろそろ冷たくなってしまう。手を離した瞬間に僕は凍りつき始めてしまう。治りきらない手首の傷を見る度にそこに傷を追加したくなる。一瞬の快楽欲しさにアンタを殺したくなる。

 殺して、犯して、気持ち良くなったその先は、無い。分かっているのに、それでも暗い部屋に独りきりなのは怖くて、全てを終わらせようとしてしまう。また、殺して、自殺する。

 ビルの屋上に立って、足元を見下ろしていたときのこと。たいそう絶望した僕は、その絶望に酔いつつ、退屈さに死を願った。生きるのに飽きてしまった。飢えて乾いて寂しくて。魔女にもう一回を望んで──

 嗚呼、今日も足りない。もっと理解して。もっと愛して。もっと犯して。もっと貶めて。僕のサドマゾヒズムを満たして。スリルだけを愛せるから。快楽だけを愛せるから。

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