孤独は果て無く
キキョウが作った料理を平らげると、リンドウは数時間後にその全てを吐き戻した。
◆
キキョウとのカウンセリングを終えたリンドウは、窶れた顔でキッチンへと戻ってくる。生気の無い目で冷蔵庫を見回すと、ヨーグルトを手に取った。
「お腹空いた」
胃酸で痺れた口で、ぼそぼそと呟く。彼女がスプーンを探していると、キッチンに一人の人影が現れた。
力無く振り向き、リンドウが人影を見上げる。彼はにこりと微笑むと、リンドウさん、と穏やかな声で呼びかけた。
リンドウの表情が硬直する。手に持っていたヨーグルトを落として、ごめんなさい、とすぐさま謝った。
「た、食べないから! 怒らないで……!」
「怒らないで、って……どうして僕が怒るんですか。どちらかというと、こんな時間まで起きてる方が問題ですよ?」
彼の言葉に、リンドウは胸を撫で下ろした。そしてヨーグルトを拾い上げると、冷蔵庫の中にしまい直す。
リンドウは椅子に座ると、大きな溜め息を吐いた。ヒナゲシは向かい側に座り、どうかしたんですか、と尋ねる。リンドウはつり目を持ち上げると、複雑そうな顔で俯いた。
「……ヒナゲシも怒ると思った」
「怒りませんよ。もう一度聞きますけど、どうして怒ると思ったんです?」
「……キキョウのご飯、吐いたから。なんでまた食べるんだ、って言うんでしょ」
ヒナゲシは眉を下げ、困ったように笑う。何も言わないヒナゲシに対し、リンドウはむっとして、なによ、と言い足す。
リンドウの鋭い視線に対し、ヒナゲシは肩を竦めた。
「キキョウが怒るならまだしも、僕が怒る必要は無いでしょう。まぁ、ただ、彼が可哀想なので、どうしてこうも毎日食事を吐いてしまうのかは聞きたいですね」
リンドウが首を縮める。
ヒナゲシの言ったように、リンドウが食事を吐いたことは初めてではなかった。むしろ、毎日のように行われていた。それは、誰が料理を作れど同じことだ。
リンドウはしばし目を逸らして黙り込むと、口を尖らせて答える。
「……食べたら、気持ち悪くなるから」
「ほう?」
「いつも食べすぎて気持ち悪くなるの。だから吐いてる。吐かないと落ち着かない……」
「そうだったんですね。分かって良かったです、僕も食事は苦手なんです」
食事は苦手、という表現に、リンドウは薄水色の目を丸くする。きょとんとした顔に、ヒナゲシは愉快そうにクスクスと笑った。
「実を言うと、僕もかつては食事が一切摂れない身だったんです、何を食べても気持ち悪くなってしまって。
誠……キキョウが『俺の飯は食えないのか』って言うようになって、料理を作ってくれるようになったんです」
「キキョウって怖いんだね」
「怖くないですよ、優しいんです。僕はそうすることでようやく少しずつ食事を摂れるようになりました。今も僕は、あまり食事に同席しないでしょう?
あんたが食べすぎてしまうなら、僕は食べられなかった。ほら、食事が下手でしょう?」
ヒナゲシの言葉に、リンドウはこくこくと頷いた。口元を緩めて、じっとヒナゲシを見上げている。
「食事はね、練習が必要なんです。スポーツも同じ。今は苦手だったサンドウィッチも食べられるようになりました。
ですから、リンドウさんも僕と一緒に、食事の量を調整する練習をしませんか?」
「……分かった、するよ。それでもたぶん、お腹は空くけど……」
「お腹が空くのは、どうしてなんでしょうね。自分が食べられる量以上を食べてしまうのは、どうしてなんでしょう?」
「……足りないの。どれだけ食べても足りない。少しも満たされないの」
リンドウは静かな声で答えた。裾を握りしめ、目を逸らす。
「どれだけ食べても、お腹が空くの。満たされないの。不安で仕方無いの。食べたいと思ったときも不安で、食べている最中は幸せで、食べたあとは罪悪感でいっぱいになる。
底無しのバケツに水を入れてるみたいで、嫌になる。吐いたら全部無くなるから……」
震えるリンドウの声に、ヒナゲシは目を細めた。刹那、笑みを潜めると、再び繕って笑う。肩をびくっと揺らしたリンドウの頭に、その大きくて節のある手を当てた。
リンドウは固まったままヒナゲシを見上げる。ヒナゲシは優しく、ぽんぽん、とリンドウの頭を撫でたのだった。
「満たされないんですね」
「……な、殴るかと思った」
「殴りませんよ。少し、昔話をしても?」
「良いけど……」
「実は僕、援交してた頃があるんですよね」
ヒナゲシの言葉に、リンドウは顔を真っ赤にして、マジ、と尋ねた。ヒナゲシは首を傾げ、マジですけど、と答える。
「ちょうどあんたくらいの歳の頃から、僕はそういう世界にいました。三十くらいまでは続けていましたよ」
「ひ、ヒナゲシが援交……なんで? お金無かったの?」
「いえ? お金は足りていましたし、目的はただヤることでした。男も女も選ばずに、ただただ毎日毎日人と寝る。相手に喜んでもらう」
リンドウは赤面したまま、そうだったんだ、とぎこちなく答える。ヒナゲシは横髪を弄りながら、ちょっと刺激が強かったですかね、と笑う。
「相手に喜んでもらうとき、僕は幸せになりました。翌日布団にお金だけが置かれているとき、僕は悲しくなりました。また誰かを求めて歩き回りました。
寂しい。満たされない。どれだけ体を交えても、足りない。それはさながら、冷えたぬるま湯に浸かっているようでした」
「……ヒナゲシでも、苦しいの? こんなにイケメンで、こんなに友達が多くて、こんなに幸せそうなのに……」
「苦しかったんですよ、僕には顔しか無かったから。誰も僕を心から愛してくれはしなかった。誰も僕は心から愛しはしなかった。初めて誰かに恋い焦がれたときが、僕の最期でした」
目蓋を伏せ、耽美に微笑むヒナゲシに、リンドウは顔を曇らせる。誰もを魅了するその美しさゆえに、彼の言葉が真実味を増す。胸焼けのする魅力が、リンドウの胃を締め上げる。
リンドウは目を背けたまま、そう、と小さく呟いた。ヒナゲシの微笑みが、ヒナゲシの語りが、彼女の心を安らげることは無い。ただ静かに、痛みをリハーサルするだけだ。
「……ヒナゲシは、何がきっかけでそんなのから逃れたの? 死んだから?」
「今も治っていませんよ」
「え……もう三十年くらい経ってるのに」
「足りないのはね、治らないんです。さながら、覆水が盆に返らないように。僕らの心臓は破けたままで、治ることはありませんよ、きっと」
「治らないんじゃあ、どうしたら良いの、あたしは……」
泣きそうな顔になったリンドウを、ヒナゲシは再び優しく撫でる。リンドウは黙って頭を垂れていた。
「塞げば良いんですよ。幸せで塞げば良い。熱しやすく冷めやすい快楽ではなくて、持続する幸せを探せば良い。
お腹が空いたときは、こうして誰かと話しましょう。きっとあんたを安心させてくれる存在に会えるはずです」
「あたしの言うことなんて、誰も聞いてくれない」
「聞きますよ、僕で良ければね。食事の練習だって僕なら手伝えます。きっとアネモネ図書館には、あんたと話してくれる人はいるはずですよ。ですから、足りなくなったとき、悲しくなったとき、僕らを頼ってください。僕は、他人を頼れなかったから」
ヒナゲシはリンドウの頭から手を離して、膝の上で揃えた。見下ろしている蜂蜜色の瞳に、猜疑的な顔つきのリンドウが映る。ヒナゲシの温かい言葉は、リンドウの冷たく穴の空いた心に触れて、溶かして、けれどもいまだその水は彼女の心に空いた風穴から滴り落ちている。澄みきらない目が、ヒナゲシを見つめている。
もう寝ましょうか、と言うと、ヒナゲシは席から立ち上がった。リンドウもそれにならって椅子を引く。彼女のお腹はもうグウグウと音を立てはしなかった。
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