八神鏡香は独り言つ

 仰ぎ見る天井は高く、見渡す壁は遠く。ベルベットのカーペットの上を、カツンカツンとヒールを鳴らして歩く赤の女王。一歩踏みこむたびに、黒髪が揺蕩う。その一本一本が蛇のようにうねって、私たちを見つめている。あの人の周りの空気は、ぐにゃりと歪んでしまっているようで、彼女が手を伸ばせば、空間がゆらりと揺れる。ドレスと同じ色のルージュが三日月を描く。

 私たちは彼女を、「お母様」と呼んでいた。

 生まれたときから、私は独りきりだった。普通の子供は母親の乳を吸ってすくすくと育つのに、私は生まれたときから「私」だった。私は言葉を話せた。私は二本足で歩けた。私は私の名前を知っていた。私が知らないのは、母乳を飲む感覚と、胎盤の中だけだった。

 幼い私が部屋で独り、ぼんやりと天井を見上げていると、扉が開く音がした。そちらへ振り向くと、そこに立っていたのがお母様だった。

──はじめまして、カガミ。部屋は気に入ったかしら?

 カガミ、というのは私のあだ名だ。私の名前は、八神鏡香。お母様の名字と同じ名字。

 母親というものを知っていながら知らない私は、彼女が自分を母と呼ぶのを、特に何も考えないで受け入れた。透き通るような白い肌に、血塗られた唇。奇妙なほどに端正な彼女を、不思議とバケモノだとは思わなかった。

 私には生まれつき兄弟がいた。皆あの女をお母様と呼んで敬愛していた。中には、自分の思うままに物を改変できる人だとか、話す人全てを魅了する人だとか、姿を自由に変えられる人だとか、そんな怪物じみた人がいた。私には、そんな力は何一つ無い。兄弟は皆、これをお母様からのギフトだと言って喜んで受け入れた。

──お母様は私たちを等しく愛してくださる。お母様は私たちに恩寵を与えてくれる。

 そんな狂信的な娘が言うことを真に受けたなら、私は生まれたときから愛されていなかったことになるのだけれど、私は特にそれを気にも留めなかった。他の兄弟がそうするように、私もお母様を崇めていた。

 お母様は一切の家事をしない。お母様はいつも自分の部屋にこもっていて、ずっと何かを研究しているらしい。他の人がしなかったので、私が全ての家事を担っていた。それが当然だった。他の兄弟が自分勝手に屋敷の中で振る舞っているのを、当たり前だと思っていた。屋敷に迷い込んだ人間を解体して吊るしていても、どこから持ってきたか分からないような、動物のような何かを拷問して遊んでいても、私はその何もかもを当然のことだと思っていた。

 感覚が麻痺していたのだと思う。まるで子供が蟻を潰すように、鳥に玉を当てるように、無邪気に遊んでいるだけなのだと思っていた。私はそんなお母様の子供たちのお世話役だった。私はそんな彼女たちに混じって遊ぶことは無かった。

 教育を受ける必要は無かった──私は生まれたときから、数学を、科学を、言語学を操ることができた。お母様の研究に手を貸せるくらいには賢かった。生まれてから数カ月後には、お母様の実験の手伝いをするようになった。

──カガミ、その検体を取ってちょうだい。

 そう言って白く細い枝の先を伸ばした先には、無辜なる人間がいる。私は、はい、お母様、と答えて、人間を差し出す。人間の金切り声を聞き流して、私はお母様にメスを渡す。お母様はその人間に、何か黒くぶよぶよした物を入れる。人間が爆散する。私は何も言わずに立っている。

──あら、また失敗しちゃった。普通の人間じゃ耐えきれないのね。

 お母様がそうして人を生み出すのを見ていて、あぁ、私もこうやって生まれたんだな、とは思っていた。それに感情は無かった。どうでも良かった。私は無感情な召使いであれば良かったから。実験が終わると、お母様は決まって私の頭を撫でた。私は喜びもしなかったし、笑いもしなかった。

 時々、お母様には来客があった。お母様の隣で控えていると、黒いスーツを着た女性がやってきて、お母様に大きなカプセルを渡したものだ。

「あら、フウカさん。今度は何かしら」

「ユリちゃんはいつも検体を雑に扱うからね。人間じゃないものを使えば良いものが生まれるかな、って思って」

「きゃはは、そうかもしれないわね。いつもありがとう」

 フウカ、と名乗った女性がいつも得体の知れない物を持ってきて、お母様はそれを受け取って、少女みたいに嗤う。お母様は私よりも一回り大人なのに、心ばっかりは私よりも幼い。新しく届いた玉虫色にてらてらと輝く何かに、両目を爛々と煌めかせて、どうしようかしら、なんて鼻歌を歌いながら呟く。

 いつからだろう、この幽閉された生活がおかしいと感じるようになったのは。たぶん、黒い服に身を包んだ女性が、この屋敷にやってくるようになってからだと思う。

 夏が私たちに熱を浴びせてきた頃だった。外の薔薇園を手入れしていると、白い柵の向こうに、黒い日傘を差した女性が立っていた。お母様みたいに妙に白い肌だった。傘から覗く顔は奇妙に端正で、黒い唇をきゅっと結ぶと、まるで人形のようだった。

 不法侵入者はたいてい兄弟によって酷い目に遭うので、私はこういうとき、人を追い返すようにしている。彼女に近づいていって、お引取りください、と言うと、日傘の下で、亜麻色の前髪から覗いた蜂蜜色の目が私を見下ろした──彼女は十センチはあろうかというハイヒールを履いていたから、実情以上に背が高く見えたような気がする。

「貴女、ユリの子供?」

「はい、そうですが」

「何か酷い目に遭ってはいない?」

「はぁ」

 何を馬鹿げたことを、そのときはそう思った。いったい何者で、何様なんだか、と。喪に服したように黒い服を着た女性は、目を細めて私を睨みつけた。

「ユリを信用しないで。貴女たちは彼奴の玩具なの」

「どちら様ですか。お引取りください」

「逃げるのなら、ボクが手伝うから──」

 そう言って、黒い服を着た女性は去っていった。

 逃げる? どこから? ここが私の家なのに? 幽閉されているなんて思ってもいないし、苦しんでもいない。当たり前で、当然で、この生活に悩んでもいない。そのときは確かにそうだったんだ。

 その日、お母様は兄弟たちを集めて、三人の兄弟を紹介した。どれも見惚れるほどの美貌だった。お母様のような赤いドレスを着た女性と、軽薄そうに微笑む黒い服の男性と、私のように無表情な白い服の男性。

「彼らは今日から貴女たちの仲間よ」

「よろしくお願いします」

 いつも人が増えるときのような機械的な挨拶。三人がお辞儀をしたあと、お母様は私を手招いた。研究室に来てちょうだい、と、いつものように。私は何の疑いも無く彼女についていった。

 彼女を否定したり、拒絶したりすることは、私たちには許されていなかった。一度だけ彼女の誘いを断ったときがあったが、彼女は子供のように泣いて、私をぶった。

──どうして私が悪いって言うの⁉ 私の何が悪いの⁉

 私はただ、ごめんなさい、と謝った。貴女が正しいです、お母様。彼女は泣き止み、もうそんなこと言わないでちょうだい、と言ったものだった。

 だから、私は無条件で彼女についていった。そして、ベッドに縛りつけられた。

「あの子たちは新しい『キャラクター』なの。あの子たちのために『被害者役』になってちょうだい?」

 思わず声を上げて聞き返した。答えを聞くより先に、視界が真っ暗になった。

 それからは、もう、よく分からない。

 私は何度も殺された──新しい兄弟に。いや、元々いた兄弟もそうしていたのだろう。私の体は私の制御では動かなかった。常に誰かが操っていた。私は何度も、何度も、何度も、私は、バケモノを見ては、体を切り裂かれて、私は──そうして、次第に正気を手に入れるに至った。

 今まで見てきた世界が酷く怖くなった。ぎょろりとこちらを見る無数の目。鈴のような声で泣く玉虫色の物体。顔の無い巨大な白い肉。兄弟はそれらを、まるで玩具で遊ぶようにして蹂躙する。兄弟たちは容赦無く人間を殺す。兄弟たちは容赦無くバケモノを操る。

 おかしい、こんなの、おかしい。こんな世界、おかしい。最初から、私の意思で生きてなんていなかったんだ。私はずっと、お母様に言われたとおりに生きてきたんだ。私が生まれたのは、お母様の京楽のためなんだ。

 赤いドレスを着た妹が、お母様のようにケラケラと嗤う。黒い服を着た弟が、私の体をバラバラにする。白い服を着た弟が、私の一部を持ち運ぶ。

 もう数え切れないほど死んだある日、私は思った。

 死にたい。

 死にたい。死にたい。死にたい。

 私は、お母様の唱える物語の中で、何度も何度も生き返らされる。黒いスーツを着た女性の唱えるままに、何度も何度も死ぬ。馬鹿な私は、死ぬときまでそれを知らない。

 死にたい。

 誰か、私を殺してください。

 そう願って、次に覚醒したときには、私の腹には深く深く刃が突き刺さっていた。

「ごめんなさい」

 私を刺し殺した人は、そう言っていたと思う。

 倒れる私の隣には、お母様がいた。お母様は激怒して、その黒い影に掴みかかった。

「私の子になんてことをしてくれるの⁉ お前と関わるといっつもこう! お前の都合に合わせてこちらを歪めなきゃいけない! お前が──」

 そこから先は聞き取れなかった。でも、私が思っていたことは、刺された瞬間に百八十度変わった。

 生きたい。私の意思で生きたい。私は死にたくない。どうして私が。どうして私が死ななければならないの? どうして私がこんな目に⁉ まだ死にたくない! 私は自分の意思で生きたことすら無いのに、もう終わってしまうの?

 そんなのは嫌。絶対に嫌。私は、私は、鏡香は、鏡香として生きたい──

──バックログ再生終了。

 最初よりだいぶ復旧できてきたと思う──いくつアザミによる改変を受けているかは未知数だけれども。

 あれから、司書たちとは変わらずに接しようとはしていた。ツバキもシオンも、もちろん他の司書も、何も悪くない。彼らは知らなかったのだ。彼らが知っているのは、私がクロッカスという一人の電脳体であることだけだ。

 電子の海は冷たい。零と一は私を常に異物として扱っている。されど、私は手を一振りするだけで其奴らを黙らせることができる。

 世界の全てにアクセスすることができる。世界の全てを知ることができる。世界の全てを自由に操ることができる。その様は皮肉にも、兄弟という名の人形たちにそっくりだった。チート能力使い、とでも言うべきか。現実の世界に手出しをできないこと以外は、私には何だってできた。

 アヤメとも何度か話し合った。アヤメは優しいから、アザミを許してあげたい、と言っていた。自ら死を選んだのに、延命させられていることを恨まない、と。それは、ここでの生活が楽しいからだ。

 昔を思うと、気が狂いそうになる。痛覚の無い心で見てきた、兄弟たちの横暴。お母様の凶行。あの日々に戻りたいかと聞かれれば、ノーと答えるだろう。私が願いさえすれば、私はまた植物状態に戻ることができるのだ。だが、そんな状態でお母様に見つかったら、どうなるだろう? 実験体たちのように、あちこち弄くられて、「私」というものを失ってしまうだろう。それで私は殺される側から殺す側になれるだろうか? 滑稽な話である。

 では、今のこの新たな見た目と、新たな声と、新たな設定に馴染めるだろうか? 「私」はここにはいない。「私」を模倣した何かがここにいる。無理やり押しつけられた「クロッカス」を受け入れて生きるか、元の「私」を受け入れて死ぬか──いや、また死に続けるか。

「はぁ、どうしたもんですかねぇ……」

 電脳世界で独り、孤独に呟く。妙に陽気になってしまったのも、私が「クロッカス」になったからだ。花言葉は「切望」。アザミがつけた名前なんだとしたら、馬鹿にされているとしか思えない。

 人間になりたい電脳体。いつも元気なムードメーカー。かつての私とはあまりにかけ離れている。無表情で、無感情で、無痛覚。何も感じないで、ただお母様の言うことを聞いている。今とは違って、物事をろくに考えもしないで生きていた。

 今はどうだろう。生きていたいのだろうか、死にたいのだろうか。私にはよく分からない。生きているのも死んでいるのも同じようなものだったから。この自我をも全て闇に葬り去って、無に還る感覚だけを知らない。死んでもその先があったから。

 シオンに救われ、もう一度生きる権利を得たことに喜びを感じる司書たちと、私が分かり合えるはずが無い。皆が皆、世界に虐待されて生きてきたからこそ、今の人でなしとしての生活を楽しんでいるのだ。だが、それは彼ら自身が望んだことで、私とは違う。

「私の望み、か……」

 私の呟きは、テキストデータとなって黒と緑の海を漂う。スタンドアローン、誰にも見られないようにした端末の中、独り彷徨う。答えは見つからず、滞る。

 それでも、そうして考えているうちは、確かに「私」なんだと、今は思う。

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