第五章:慟哭

慟哭

 机にぶちまけられていたのは、無数の薬の殻だった。そのどれもが、本来は僕が使うべき睡眠薬や抗うつ剤だった。

 アネモネ図書館にて静養する機会を得た今も、僕の精神疾患は治っていない。心が弱いわけではなく、心が強いからこそ、痛みが長引いてしまっているのだ、と主治医たるキキョウは言う。

──先輩は精神的に強すぎた。だから、今まで苦痛に気がつくことができなかった。こうして自分と向かい合うことで、初めて痛みと向き合えるようになったんだ。

 僕は今もなお、痛みと戦い続けている。いつ死んでいいような、そんは日々を送っている。

 胸が苦しいときは安定剤を飲むし、眠れないので毎晩抗うつ剤を飲んでいる。そうでもしないと、僕は一生眠れないだろうから。

 薬を飲まれてしまうのは、僕にとって死活問題だった。しかも、僕が飲んでるよりも大量に飲んだらしい。服用量は軽く超えているのではないか──そう思って部屋を見渡すと、部屋の隅で丸くなっている人影があった。

 ゆっくりと近づいていって、人影に優しく声をかける。彼女はびくりと肩を揺らすと、真っ白な顔を上げ、ひなげし、と拙い舌で言った。

「アザミ。怒らないからこっちにおいで」

「……ヒナゲシ」

「ほら、ベッドにおいで」

 こんなことを言うけれど、僕は彼女がどうして泣いているか知っている。さめざめと泣く姿が、生前の僕にそっくりなのも分かっている。

 せっかく同じ部屋で過ごしているのだから、彼女用のベッドに座って手を開く。アザミはゆらゆらと立ち上がると、僕の膝に乗っかって、強く僕の体を抱きしめた。

 冷たい陶器肌がさらに冷えてしまって、まるで氷のようだ。それでも心臓はバクバクと大きな音を立てて、今にも破裂しそうなくらいに熱い。

 黒い後ろ髪を撫でると、アザミはぎゅっと僕の背中を掴んだ。

「聞いたよ」

「……ッ、見損なった……? ボクのこと、嫌いになった……?」

「ならないよ。僕はあんたと同じ。あんたは僕と同じ。

あんたがどんな僕も愛してくれたように、僕はどんなあんたでも愛せるよ」

 綺麗事なんかじゃない。上っ面だけの言葉なんかじゃない。僕は嘘をつかないし、嘘にしない。

 人々は言う──重たすぎて、責任持てないよ。自分のことを信用しない方が良いよ。そういう言葉を聞くたびに、なんと無価値で無責任なんだろう、と思う。

 だって、ただ許してあげれば良いこと。醜い姿まで愛してあげれば良いこと。もちろん、相手が望むなら、その醜い姿を見ないであげること。どうしてそんな簡単なことが、人々にはできないのだろう?

 アザミが犯した罪は、偽善ゆえの殺人。嗚呼、なんと僕にそっくりなんだろう。偽善を振り翳して何もかもを失った、僕と同じ。

 そう思うと、愛おしくって仕方が無くて、アザミの頬に手を当てた。熟れた桃のような、果実のような、小さな小さな顔だ。

「あんたの正義は、僕と同じ。だから、あんたは僕が世間から貼られたレッテルを剥がしたとき、救われたような気になった……違う?」

「違わない、っ、違わないよ、ボクはただ、アンタが自らの行為を正当化できたのが、嬉しくて、まるで自分のことのように喜んで──だから、だから……偽善的に、アンタを救った!

誰もが鼻を摘んで嫌がるアンタを! 誰もが目を背けて嫌がるハッピーエンドを! 醜悪すぎて目も当てられないような喜劇を! ボクは求めたんだ!

なァ、ヒナゲシ、ボクはずっと間違えていたのかな、ボクはずっと、ずっと……!」

 決壊したように、もう一度涙を溢れさせる。僕の着ているレーヨンのワイシャツに、ゆっくりアイの染みが滲んでいく。

 彼女の体温を感じながら、嗚呼、彼女も生きているのだ、と思う。魔女を名乗り、偽善を振り撒いて、他人を救ってきた一人の魔女。でも、その仮面の下は、ただの女性。ただの人間。ただの、虐げられてぼろぼろになった子供。

 人殺しの罪も、誘拐の罪も、それによる救済も、人の子が背負いきれるものなんかじゃなかった。まるで神様が与えるような救済を与えていたのは、この細くて折れてしまいそうな体だ。

 ただ許すこと、ただ愛すこと、ただ守ることが、どれほど容易く、同時に難しいかを、僕とボクは手首に刻み続けてきた。他人に恨まれて、嫌われて、嫌がられて、避けられて、疎まれても、それでも、そうだ、それでも僕たちは人々を愛して守ってきたんだ。

 誰がそんな僕たちを救ってくれただろう。誰がそんな僕たちを守ってくれただろう。皆手を叩いて僕らを煽ったり、指を差して笑ったり、親指を下げて罵ったりしただけじゃないか。見世物として扱ってきたじゃないか。

 そう思うと、つい抱きしめる手に力がこもる。たった一度、神性を欠いただけで、僕らは罪人行きだ。一生をかけて懺悔を続けるだけの壊れた機械になってしまうではないか。

「ずっと間違えていたんだよ、ボクは……ボクはずっと……罪悪感と倫理観を踏み倒して他人を救ってきたボクは、ずっと、ずっと間違えていた……独りよがりだった!」

「アザミ。たとえあんたの罪が赦されなかったとしても。あんたが罪を抱えるとしても。

あんたは、僕を、キキョウを、ダリアを、シオンを、アザレアを、カトレアを、多くの自殺志願者を救えたんだ。忘れないでくれ、それだけは……」

「……それだけじゃ、足りねぇんだよ……ッ、そんなんじゃ罪滅ぼしにもならねぇんだよ」

「『そんなの』って言うなッ!」

 気がつくと、アザミの胸倉を掴んでいた。死んで力無く開かれた赤い双眼が、僕を緩く見つめている。

 ねぇ、僕を見て。あんたが救った僕を見て。薬を飲みこんで、記憶を燃やし尽くして、なんとか両足で立っている僕を見て。僕の心の声が聞こえているなら、僕を見て。

「生きていることを許されなくたって! 生きる価値が無くたって! 存在を誰にも愛されなくたって! 最低な女神だって!

生きてんだよ、僕は! どうしてだと思う⁉︎

あんたが! あんたが僕を救ってくれたからだ!」

「いきたくもないのに、いかしてごめんなさい……」

「生きたくなかったさ、生きているだけで僕は人間を苦しめるから、生きるのすら辛かったさ! 間違いだらけで生きるのなんて辛かったさ!

それでも僕は生きる、あんたがくれた生を生きてみせる。こんな間違えた世界で間違った生き方をしてやるよ。周りから顰蹙を買うような生き方をし続けてやる。

だから、あんたが『俺』を助けたことを、悔いるな!」

 僕の言葉に、アザミは黙って頷く。悲しいほどに従順で、悲しいほどにおとなしい。皮肉の一つくらい言えば良いのに、僕から与えられた救いの言葉に縋るように抱きしめているだけだ。

 きっと彼女が自らの罪を受け入れ、それでも前に進んでいけるようになるのは、ずっと先だろう。クロッカスやアヤメがアザミを許したとして、アザミはきっと自分を許せないだろう。

 今だって僕は自分自身を許せないのだ。アザミだってきっとそうだ。

 アザミはもぞもぞと顔を上げ、泣き乱れた目でこちらを見上げる。唇をかすかに動かして、蚊の鳴くような声で訴えた。

「さとし、ぼくを、──して」

 彼女の声にノイズが走る。まただ。聞き取れないけれど、言いたいことは分かる。

 殺して。

 許して。

 愛して。

 罰して。

 生きていた頃から、僕がずっと願っていたことを、彼女が言っているだけだ。

「愛してるよ、アザミ」

 殺すとは、許すとは、罰すとは、愛することだと思う。彼女が誰よりも嫌う自分自身を愛することが、彼女にとっての一番の苦痛になれば良いと、僕は思う。

 アザミは顔を顰めたが、それも束の間、また僕を抱きしめて離さなくなってしまった。この眠り姫を寝つかせないと、僕も眠れない。布団に入れて、薬が効いてくるそのときまで、僕は彼女の手を握っていた。

 目蓋が降りてきてから、さとし、とまた呼ばれた。聞き返せば、アザミは壊れて空っぽになった笑顔で、譫言のように言った。

「──一緒に死んじゃおうよ、慧……」

 僕は、何も答えなかった。彼女が目を閉じて、寝息を立て始めて、ようやく手を離す。

 答えを出すのが、怖かった。どちらかに決めてしまうのが怖かった。だから、聞かなかったことにする。僕も床に布団を敷いて、強く目を閉じて、眠気が来るのを待った。

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