贖罪と救済

 朝八時、まだ司書たちの半数が寝ている時間、アヤメとクロッカスは二人でひなうさに餌をやっていた。キキョウも起きてはいたのだが、朝からカウンセリングがあるとて、二人にひなうさの世話を任せたのだった。

 ひなうさというのは、アネモネ図書館にいつからか住み着き始めたウサギの名前だ。カトレアが外界から持ち込んだらしい。ヒナゲシに似ているから、ひなうさ。

 二人はひなうさが水をちょびちょびと飲んでいるのを眺めて和んでいた。口をもそもそと動かすのが非常に愛らしい。ペレットを食べては、すぐに寝ついてしまう。目を閉じたひなうさを見つめ、アヤメは、確かにヒナゲシさんみたいですね、と呟いた。

「寝ている姿が可愛いところとか、ですね!」

「ヒナゲシさんに言ったら困った顔をされそうですが……」

 ひなうさが寝ついたのを確認すると、二人は朝食へと向かった。クロッカスは電脳体であるから食事を必要とはしないが、アヤメと食事を摂りたいがために、画面に食べ物を映し、それを食べるモーションをする。アヤメは一度手を洗ってから、カトレアが準備していた料理に手をつける。

 いつもどおり歓談する二人だったが、それが「いつもどおり」でなくなったのは、アヤメの発言ゆえだった。

「そういえば、クロッカスさんはアザミさんに作られたんですよね。どうしてクロッカスさんを作ったんでしょう?」

「あぁ、なんだか、今まで苦しんできた人の分まで生きてほしかった、らしいです。そして、自分を元にして作ったとか……」

「そうなんですけど。少し分かりにくいな、と思いまして……」

 アヤメの発言に、クロッカスは思考中のモーションをとる。

 彼女の発言ももっともだった。クロッカスが今まで主張してきた生誕の経緯は、「他者に虐げられてきた人々の意識をデータ化し、アザミを元として電脳体として出力した」だったのだが、この説明には致命的な不足があった。

「どうして、そんなことを考えたのでしょうか……」

 クロッカスは、確かに、と答えた。黄色い目を丸くして、口を結ぶ。

 他者に虐げられてきた人々を救うために、意識をデータ化した。そんな人々に幸せに生きてほしいから、第二の人生を与えた。それはアネモネ図書館の方針に沿っている。しかしながら、クロッカスの転生については、アネモネ図書館の与えた救済ではなく、全く別の魔法と言って良いだろう。

 そもそも、と言い足したアヤメは、斜め上を見上げ、頬に指を当てた。

「クロッカスさんは、どうやってアネモネ図書館に来たんですか?」

「私ですか? 分かりません……目が覚めると、そこはデバイスの中で、シオンさんとツバキさんが私を使っていました。それ以前のデータは残っていません。私はどうやら検索用デバイスらしい、ということしか分からなくて……」

「これだけ長く付き合っていても、クロッカスさんにはまだ謎が多いですね」

「はい、私にも分からないので……

あ、そっか、アザミさん本人に聞いてみれば良いのか!」

 クロッカスがビックリマークを頭の上に浮かべた。食べていたご飯もそっちのけで、メモ帳のアプリを開き、今日の議題、と入力している。アヤメは焼き魚を食べながら、その様を眺めていた。

 彼女が文字を書くように手を動かせば、次々と文字が入力されていく。それはまさに、ホワイトボードに文字を書くよう。クロッカスは電脳世界の神のようだと、アヤメはぼんやり思うのだった。

「今日の議題! 一体、私はどうして生まれたのか? 何者なのか?」

 満足気に頷くと、クロッカスは再び食事に戻った。画面越しにお茶漬けを食べ、美味しい、と声を上げる。アヤメは困ったように笑うと、味が分かるんですか、と尋ねる。

 クロッカス曰く、彼女は味覚をもデータで再現している。人間には敵わない、嗅覚と味覚のデータ化が、彼女には容易なことなのだ。ゆえにこそ、彼女には料理の好き嫌いがある──一番嫌いな食べ物はレバーだとか、大好物はミカンだとか。

 二人は食事を終え、食器洗いに移った。アヤメは着物の袖口を帯に挟んで、溜まった食器を洗っていくが、一方のクロッカスは何かしらのデータを表示する。アヤメがそのデータについて問えば、アザミの行動パターンだと答える。

「アザミさんはこの時間には起きていないことが多いみたいですねっ。こうなったら、あと二時間くらい仕事でもして暇を潰しましょう!」

「アザミさんは遅起きですからね……」

 アザミは普段から一番最後に起きてきて、一番最後に朝食を摂る。ときに十二時を越すこともある──もはやそれを朝食とは呼べないだろう。

 クロッカスはデータを閉じ、アネモネ図書館内のデータを表示した。誰がどこにいる可能性が高いか、どの仕事が残っているかも、彼女には把握できる。アネモネ図書館は彼女の運営で動いているようなものだ。アヤメは洗った食器を拭き、まずは本の整理ですね、と意気込んだ。クロッカスの案内に従い、二人は仕事へ向かっていくのだった。

 本の整理に奔走し、他の司書たちに挨拶をしているうちに、あっという間に十時を回っていた。クロッカスがセットしていたアラームが鳴り響く──音量を大きく設定したせいで、二人ともびくっと肩を揺らすこととなったが。それから、顔を見合わせ、小さく吹き出す。

 アザミは朝食を摂り終え、ソファで読書をしていた。金の眼鏡越しに、ルビー色の眼が瞬く。アヤメが寄ってきたことに気がつくと、彼女は顔をゆらりと起こし、黒髪を意思を持った蛇のように垂らす。彼女の鋭い視線に怖気づくことは無い──これが彼女の「普通」だからだ。

 アヤメは緑茶を入れた急須を片手に歩み寄ると、アザミの対面に座った。片耳には黒いイヤホンが差してあったが、それを外すと、端末からクロッカスの声が溢れた。

「おはようございますっ、アザミさん!」

「あー……はいはい、おはよう。なんだよ」

「少し、アザミさんにお聞きしたいことがあって……お時間、宜しいでしょうか」

「構わないけど、少し音量を下げてもらえる? 起きがけにキツいわ」

 アザミは手を上下させ、程度を下げるジェスチャーをしてみせる。さきほどけたたましくアラームが鳴った音量の設定のままだったことに気がつき、アヤメは慌てて音量ボタンを押す。それから姿勢を正し、机の上に端末を置いて、アザミに向かい合った。

 彼女が視線を落とすことは無い。真摯な顔をしたアヤメを見つめ返すだけで、クロッカスに意識を向けてはいない。金縁眼鏡の向こう、無愛想な表情からは、彼女の本心は読み取れない。

「その……クロッカスさんを作ったのは、アザミさんなんですよね」

「……いかにも」

「クロッカスさんがどうして作られたか、知りたいんです」

「本人が語ったとおりだろォ? ボクが話すことは、無い」

 アザミは手をひらひらと振ってそっぽを向いた。クロッカスが顔を近づけ、それじゃ足りないんです、と言っても、アザミは何も答えない。アヤメは一度俯いたが、再び顔を上げ、きっぱりと言い切った。

「それは、嘘です」

「……あ?」

「アザミさんは、話したくないことがあるとき、そういうことを言います。何か、言いたいことでもあるんですか?」

「だからァ? 話したくないことがあったとして、話すわけ無いでしょうに」

 片目を細め、にやりと嗤ったアザミに、クロッカスは背筋が凍るような思いになった。彼女のペースに呑まれている、と自覚するのに、そう時間はかからなかった。ここまで拒絶されると、彼女が口を開くのも恐ろしくなる、否、もっと恐ろしいのは、「隠すほどに恐ろしい事実が潜んでいる」ということだ。

 他人を救うために作られた電脳体、といった字面は誉められるべきものだ。胸を張って自慢してもおかしくない。たとえアザミが天邪鬼だとしても、自分の口から話したくないなんて、ありえるだろうか。嘘を吐く必要があるだろうか。

 そんな不安が、楽観的なクロッカスをも黙らせ、喉を貼りつかせるのだ。

「……アザミさんは、もしかして、嘘をついてるんですか、クロッカスさんに」

「アヤメさん、」

「どうして過剰に反応するんですか。アザミさんらしくないです」

 その代わりとなって、アヤメが突き進む。言葉を槍にして、滞った空気を切り裂くようにして。アザミの仮面に、切っ先が傷をつける。アザミの顔から、笑みが消えた。

 すると、沈黙が訪れた。アザミが口を開かないのだ。当惑したアヤメは、アザミの顔を覗き込むようにして見上げる。アザミは目線を落とし、組んでいた足を解いた。

「アザミさん……?」

「……話して良いか、分からないもんでさ。アンタら、二人とも」

「逆に、それくらい大きなことを隠しているなら、話してほしいです、」

「馬鹿言え! ボクが何のために全ての記憶を消したんだと思う? ヒナゲシのように、ダリアのように、一部だけ残しておくことをしないのはどうしてだと思う?

想像力が足りねぇんだよ。向き合える覚悟が無いなら、聞くな」

 アザミはそう言い捨てた。豪胆なアヤメにも、彼女が怒っていることくらいは分かっている。それでも、アヤメが引き下がらないのは、槍を払う手があまりにも優しいからだ。

 向き合える覚悟が無いなら、聞くな。胸の中で反芻すると──普段からそうしているように──アヤメはこの言葉の真意を探り始めた。アザミは言葉が足りないのだ。彼女の本心がどこにあるか? アヤメは思う、言葉の端々にあると。断片を繋ぎ合わせて、ようやく本当の感情が分かると。

 クロッカスがしおらしく、ごめんなさい、と謝る一方で、アヤメはまだアザミを見つめるのを諦めていなかった。彼女は横髪を弄り、怪訝そうな顔で目を逸している。

「アザミさんは、話して良いか分からないから、黙ってたんですよね」

「あぁ、そうだよ。アンタらがどんな反応をするか──」

「覚悟が必要な内容だから、黙っていた。私たちは知らない方が良いと思って、黙っていた」

「……アヤメ」

「アザミさんは、怒りたいんじゃない。私たちを心配してくれているんですよね、これで合ってますか?」

 アヤメの玉虫色の瞳が、奥できらりと煌めく。眩しそうに目を細め、アザミは顰めっ面になった。

 二人が言葉を交わしている中、クロッカスは一人俯く。今まで生じたことが無いような、情緒機能がざわつくエラー。覚悟が必要なほど、重たい過去。深く悩んだり、考えたことが無かった彼女だったが、その方法だけは知っている。それは、きっと──

 クロッカスが結論を出すより先に、アザミが折れた。手を組み、長い長い溜め息を吐いた。

「……分かった、話すよ。アンタらはどちらも、ボクが誘拐してきた人間だった」

 アヤメが、え、と声を上げる。クロッカスも視線を上げ、目を閉じたアザミを凝視した。

 誘拐、という言葉が二人に降りかかる。それで終われば、覚悟なんて要らなかっただろう──二人が気がつくことは無く、さらに重たい深淵へと堕ちていく。

「手始めに、菖蒲の方から。

アンタは元々、極普通の人間だった。名家の出でな、お嬢様だったわけだよ。でも、アンタは自殺を自ら選んだんだ」

「私が、自殺を……? どうして?」

「アンタを救ってくれていた祖母が死んでからは、無理な結婚に、望まぬ妊娠。物として扱われたアンタは、自ら身を投げたんだ。そして、危篤になった。

ボクは同意なんて求めないで、アンタの身を匿った。この図書館で、新たな人生を与えた」

 菖蒲の口角が強ばる。彼女の言葉を皮切りに、脳が焼けるように熱くなった。途端に浮かんだのは、屋敷に住まう彼女と、死んでしまった祖母と、暴走した両親だった。彼女は別の家の男に攫われ、政略結婚、年の差、組み敷き、押しつけられ──咄嗟に、彼女は自らの肩を抱いた。重くも無い腹が重くなる。意に反して大きくなる腹を、潰そうと何度も殴った跡。さめざめと一人泣く。人々は気味の悪い笑顔で彼女を囲んでいる。拍手。歓声。喜び。笑顔。笑顔の強制。強制。嬌声。

 クロッカスの声が遠のいて、耳鳴りと吐き気が襲う。そんな菖蒲に、アザミは立ち上がり、背中を擦るのだった。そして、二人は視界から消えていく。何度も肩を上下させて、荒い呼吸をする菖蒲を眺めながら、クロッカスは顔が冷たくなるのを感じた。

 自分よりも強いアヤメが、屈してしまうほどの過去が、自分にもあるのだとしたら。穏やかで、温和で、肝の据わったアヤメですら、戦慄して我を失うとしたら。途端に体感温度が低くなって、クロッカスは一人、縮こまった、かつてしたように。

 かつてしたように?

 はっ、と顔を上げる。既視感に襲われて、過去に首を突っ込まされる。息苦しくて咳きこむ。電脳体たるクロッカスに降りてきたのは、人間らしい感覚だった。

「どうして、私が……?」

 クロッカスの呟きは、過去の彼女のものに重なる。

 どうして私が。どうして私が。どうして私が、どうして私が──

 唇がわなわなと震えて、電脳世界が叛逆を起こしはじめる。今まで彼女を快く受け入れていた電脳世界が、酸素を失ったように一変してしまう。緑色の数字を、零と一を、恐怖してしまう。

 一人蹲っていると、アザミの声が降ってきた。アザミの顔を見上げることは敵わない。彼女は冷淡に、クロッカス、と呼びかけた。

「バックログの鍵を、外してほしいか?」

 冷ややかな声に、クロッカスは首を振ることも、頷くこともできなかった。ただ震えているだけだ。

 アザミはエラーを起こした端末を見下ろすと、息を吐き、スタンドに立てた。それから、眼鏡を外し、目をしっかりと見開いた。

「『どうして私がこんな目に』、だったな、アンタが叫んだのも」

「……あ、アザミ、さん、じゃない、お前は、」

「そうだよ。ボクは、アンタを植物状態にした張本人だ。

目を開け。憎悪しろ。過去を受け入れろ。ボクはアンタを刺した。誤って殺害しようとした。アンタは生きたいと叫んだ。だからボクは、贖罪することにした」

 淡々と述べる言葉は、呪文のように、コマンドのように、クロッカスの過去を再生していく。

 度重なる虐待に、廃頽。お人形扱いで、好き勝手遊んで。自分を生んだ人を強く恨んでいた。自分なんて生まれなければ良かったと強く願った。

 そこに現れた、嵐のような人陰。憎悪に目を滾らせた少女。亜麻色の髪が靡く。一歩踏みこむ。彼女は手にナイフを持っていた。

 自分は殺されるんだ、と分かった刹那、クロッカスは、否、八神鏡花は、生きたいと叫んだ。

──どうして私がこんな目に⁉ まだ死にたくない……ッ!

 そんな彼女を見下ろすのも、また同じ人陰。顔を強張らせ、ごめんなさい、と繰り返し、泣き崩れる。そのまま目蓋が降りていく。

 再生終了。

 クロッカスの呼吸と心拍数は安定していた。されど、彼女は震えていた。限界までエラーを起こして、思うがままに電脳世界を操って、アネモネ図書館の電灯を不安定にさせて。

「ボクは、アンタを親元に帰す選択をしなかった。アンタが、親を憎んでいたことを知っていたから。ボクが殺そうとしたのは、アンタの親だったから。

植物状態になったアンタを、ボクは機械に繋いで──」

「……黙れ、黙れ、人殺し……! 私は、私はこんなの、望んでないッ!」

「ならば、再び殺せば良い? またあの親の元に帰りたい? また人形に戻りたい?」

「もう嫌、嫌だ、どこにも行きたくない、どこでもいきたくない! こんな力も、体も、要らないッ!」

 クロッカスという人格は、たった今をもって消え去った。残っているのは、世界を恨んだ鏡花という人格だった。自分を生み、死なせた世界を強く恨んだ一人の少女だった。黄色い瞳は元の黒に戻り、頬を大粒の涙が伝う。自分の体でないそれをがむしゃらに振り回して、データを破壊していく。自らのデータをデリートしようとする。

 アザミはただ、立ち尽くしていた。彼女は一切の弁解を紡ぐことは無い。

「……ごめんなさい、鏡花……」

 電気が落ちてしまったことで、辺りから混乱の声が聞こえてくる。それを背に、アザミは泣くことも、怒ることも、笑うことも無く、無表情に鏡花を見下ろしていた。

 鏡花は呻くように、苦しむように泣いた。虐げられていた人をデータ化して、第二の人生を歩ませようとした──その説明に、何一つ違えたところは無かった。しかし、そこに同意は無かった。菖蒲が攫われたのと、同じように。

 すると、菖蒲の声が降りてきた。鏡花の絶望の隙間に入り込むような、親友の声に、鏡花は目を開いた。

「クロッカスさん……もうやめてください……」

「……アヤメは嫌じゃないの⁉ 私は嫌! こんな形で生きたいなんて、少しも、」

「私は、良いんです」

 菖蒲の声は弱く小さかったが、玉虫色の瞳には生気が宿っていた。鏡花の息が詰まる。

「私は、新しい人生を大切に生きたい。今の私は、神楽坂菖蒲じゃない。司書の『アヤメ』なんです」

「アヤメは! ……アヤメは、本当に死にたがってて、助かったから! でも、私は、此奴に殺されたんだよ⁉」

「分かってます。アザミさんがどういう人か、分かった上で言っているんです。

彼女を嫌いになっても良い、それでも彼女を嫌いになれない私を嫌っても良い。お願いです、鏡花さん。私と生きてください。死なないでください……」

 両目から、真珠のような涙がこぼれ落ちた。アヤメは鏡花の入った端末を握り、縋るように、お願いします、と繰り返した。鏡花は拳を握り締め、言葉を作ろうと必死に奥歯を噛みしめる。

 二人に、それ以上の言葉は紡ぎえなかった。二人が決裂するには、あまりにも長い時を過ごしてきてしまった。鏡花にはクロッカスとしての、菖蒲にはアヤメとしての記憶が残っていた。望まぬ拉致被害者は、拉致されてからの記憶に翻弄されていた。

 しばらくして、電源が復旧する。アンインストールもキャンセルされ、画面には俯いて膝をつく鏡花が映し出されていた。アヤメが彼女の名前を呼ぶ。鏡花は力無く、アヤメ、と返した。

「……私、分からないよ……この人を許して良いか、分からない……」

 殺人犯であり、誘拐犯であるアザミを前に、二人の被害者が泣いている。アザミも顔を覆い、しゃくり上げ始めた。そして、ごめんなさい、と繰り返した。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 二人を攫う人陰が、共通して繰り返していた言葉だった。

 ごめんなさい。でも、放っておけなかったの。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 生きることも死ぬことも選べないまま、被害者たちは滞っていた。

「……保留にさせてください、アザミさん……私たちは、貴女の方針に従える自信がありません」

「ボクは、許されないことをしたんだ……ッ、一生恨んでくれ、だって、ボクは偽善を──」

「それは、私たちが決めることです。そうでしょう、クロッカスさん」

 アヤメの声に、クロッカスはこくんと頷いた。二人とも、何かを選べる状態ではなかった。恨みと喜びと憎悪と幸せが交差して、金縛りにあっていた。

 アザミの喉がヒュッと鳴る。彼女は顔を真っ青にしていて、譫言のように呟く──その内容が、二人に聞こえることは無かった。

──許してください、許してください、許してください、許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください許してください……

 アヤメとクロッカスは席を離れ、失礼します、と言った。二人が向かったのは、司書としての仕事。もう幾度となくこなしてきた日常。決めかねて、中絶できなくて、惰性へとふらり、戻っていく。一人取り残されたのは、かつて必死に許しを乞うていた、ヒナゲシの鏡写し。 

 許しを乞う様があまりにも惨めで、ちっぽけで、アヤメとクロッカスはその虚しさに気持ちが曇ったままだった。

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